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人それぞれだと思える善性とは


最近の話題の着地が決まってしまっている

 「人それぞれ」だと、最近つくづく思う。そういう言葉で片づけなければ、いや、むりやり納得しなければならないことが増えた。
 「人それぞれ」には、「この問題についてお互いに納得はしていないけれど、それでもその問題について突き詰めていくよりも、あえてこちらが寛容になり、昨今の多様性を認め、なんだかいい感じに話を着地させておこう」という一種の「話題をきれいにまとめる責任からの逃げ」や「みせかけの多様性への享受」をふくんでいる。なんとも悩ましいことだ。

自分と他人との折り合いをつけたい

 他人を認めるということは、なんともむずかしい作業だ。自分とは異なる生物を理解し、わかろうとすると、たいていこちらが傷ついておわる。人を受け入れるということは、こちらがおとなになるということに近い。自分とまったく同じマインドの人間に出会えることは奇跡に近い。「結婚とはがまんすることだ」とよくいわれるが、人と関わるために「がまん」をする人間という生物は、かなり変態なのだろう。あまりにもわかりやすい。
 人それぞれの個性を認めようとすると、自分の個性はどこにやればいいのかと悩む。
 人間の個性はおおまかにいくつかのカテゴリに分けられると思っている。まったく違う存在の生き物であるにも関わらずそう思うのは、「似ている人」という概念が存在していることが確かな証拠だ。他人は自分ではない。だが、思考回路が似ている人は存在する。「類は友を呼ぶ」。どれだけの人間が似ており、どれだけの人間が似ていないのか。「水と油」は、決して交わらないのか。ここに、世界の生きづらさが存在してしまっている。

理解しようとすればするほど

 価値観というのは、いってしまえば、年代ごとに確立されているように思う。若い世代の人には、それがより際立って見えるのではないかと思う。それが、いけないというのではなく、その時代にとっては当たり前のことであり、正義だったのだとは今の時代でも理解できることだ。
 さらに今の時代の価値観が正解なのではなく、自分を客観的に自認できるように自覚していかなければ、価値観のアップデートはできないのだと、若いときに気づく必要があると思っている。
 価値観のズレを自覚できず、それを若い世代の人に指摘されても、どこがどう今の時代とズレているのか気づかないことほど、ゾッとするものはない。自分をアップデートできるよう、感性を研ぎ澄ませるには、自分のプライドを捨てなければならないがそれが、いちばんむずかしい。そして、そのことを理解する人があまりにも少ない。
 プライドほど、人間性を左右する面倒なものはない。プライドがあるから、人間は狂う。老いるほど、プライドは粘性を持ち、自我にこびりつく。さらさらとしたさざなみのようなプライドを保ち、感性を磨いていくことは歳を重ねるたびに、自分を研いでいくような感覚なのかもしれない。

プライドは誇らしくもあり、みじめでもある

 面倒な人間ほど、プライドが高いのは、とてもわかりやすい。それは、繊細な人間ほど、明快にアンテナを震わせるのだろう。
 プライドが高い人ほど、獲物の順位をつける。あるいは、ゆるやかな攻撃を仕掛ける。肉食獣のように、頭に乗ったかんむりを見せつける。そうなると弱い人間は、印籠を見せつけられたかのように、強い人間が提示した図式にかしずくのだろう。たいていは、そうなっていることに気づかないまま、思惑どおりの行動をしてしまっている。または、そうなることに甘んじている場合もある。わかりやすく食物連鎖なわけであるが、人間は群れで行動するわけなので、それが自然なのかもしれない。そこに一石を投じる異物は、異物でしかいられず、ふてくされている。

人の感情はきたなく光るのだろう

 どうして、人間は悩むのだろう。どうして、人間の思考は、思想は、価値観は、獲物は、変わっていくのだろう。そして、それは進化なのだろうか。退化なのだろうか。進化であれ、退化であれ、胸糞悪いのは変わらない。
 人間は考えることができる。考え、悩み、そして落ちこむ。深く深く、這いあがれないほどに落ちこんだとき、他人の思想にすがる。より、りっぱな思想だとよい。人は人を崇拝し、自らの自我を捨てるのだろう。自分を再び尊ぶには、他人のりっぱでいて、厳かな思想を崇拝することで、「素晴らしい自分」に再びなれる。すばらしく、またたくような、救われる気持ちになれることが必要なのだと思う。毎日が辛い人生に、あたたかい救いを求める行為は、「コンビニでコンビニスイーツを買う」幸せでは足りなくなることがある。「ハイブランドを買う」「アロマを焚く」「恋人との時間をすごす」ことでは救われなくなることがある。
 人は満たされたいと思ったとき「よい行いをしている自分はとても素晴らしい人間だ」と思えるようなことを探す。「徳を積む」ことほど、この世のなかで素晴らしいことはないのだから。「他人に対しての、やってあげた感」はこれ以上ないほどのよい気持ちにさせてくれる。「自分のしてあげたことで、他人は救われたに違いない」「こうしてあげれば、他人は喜ぶに違いない」そういった既製品のありきたりな教科書にのっとってよい行いをしている人は「満たされないなにかを抱えている」ように思う。

あなたはわたしとは違う人間なのだと理解できたらそれでよい

 乾いた感情を満たす何かを渇望し続けるには、この世のなかは「人それぞれ」すぎる。自分だけではない他人の価値観や、倫理に振り回されるのは、強い気持ちに押し潰され続けている人には、むごすぎる。
 みんながみんな、「人それぞれ」をよしとし、みずからの気持ちを押しつけるのではなく「そういう考えもあるのかもね」と思える世界が存在するとしたら、そこは偽善ではない、真なる善のみが存在する世界なのだろう。
 だが、そんな世界は存在しない。
 人間が存在する限りは。
 


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