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「信じる」について 2.しかし、神の御心のままに

神には価値がある

コペルニクスも、ガリレオ・ガリレイも、キリスト教の神の存在を当然のこととしていたからこそ、その神がつくる美しい世界の神秘を知りたいと思ったわけだ。

それが、疑う事すらなかった神の存在そのものが崩された時代が来た。
神はいるんだかいないんだか分からない。

だから、カントの『純粋理性批判』において、神の存在を証明することは、我々人間の理解の外にあるとされ、カント以降、哲学において神の存在を議論することはなくなっていった。
しかし、存在の不確かな神について議論をすることと、神を信じることはまた違う。

いるかいないか分からない神を信じること、現代において神を信じるということは、神に価値があるとみなすことであると考えた。

価値(Value)という言葉には資本主義のにおいが漂う気がしてしまうが、本来は逆だ。
資本主義体制となってから資本に価値があるとみなす人が多くなっただけであり、資本主義以前は美や善の性質に価値があるとされていたし、キリスト教が中心であった時代には愛こそが価値あるものとされた。
valueの語源も「valere=力がある」という意味に留まる。

そもそも、実際の価値の有無は関係ない。主体が価値があるとみなしているかが判断の基準である。

それでも「信じる」という言葉と、「価値があるとみなす」という言葉に隔たりがある。この二つをつなぐラインの途上にもう一つ言葉を置くとしたら、「信頼を寄せる」が一番近いように思う。

神に信頼を寄せる

"Trust"の意味であれば信頼を信用と置き換えることができるだろうし、他にも表現はあるかもしれない。

ただ、明確に違うのは「期待」だ。
信頼は愛に依拠し、期待はエゴに依拠する。

しかし、信頼という言葉を発した人間の心に、本人が意図せずとも期待が含まれていることは往々にしてある。
だから、信頼だけを相手の側にどさっと置いてしまうことは難しい。期待と信頼の混合物を相手に丸投げすることになる。
「置く」という行為の過程で信頼が期待に代わってしまっていることもあるかもしれない。

一方で、信頼を寄せるのであれば、そこに期待が混じっていたとしても、自分の側に戻すことができる。

例えば、受験の前日に「合格させてください」と祈ったとする。
神に期待をしていたら、結果に一喜一憂することになる。
神に信頼を寄せていれば、結果はどうでもよくなる。というのも、多くのクリスチャンは祈りのあとにこう述べる。
「しかし、神の御心のままに」

この言葉が神に信頼を寄せることの表れであり、「信じる」ことである。
また、この場合は主体が努力して勉強することも否定しない。

「人事を尽くして、天命を待つ」という諺が頭に浮かぶ。
信じるとは、待つことでもあるかもしれない。

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