『女生徒』読了

あれからすっかり太宰の虜になったわたしの次のターゲットは『女生徒』だった。こちらもファンの多い作品だ。
また、太宰の短編も読んでみたいと常々思っていた。
読んだものといえば『皮膚と心』『トカトントン』くらいなものだ。
あの短編のなかにもしっかりと太宰らしさというものを感じている。
太宰の言葉というのは巧みだ。
今回書くのは書評、ないし読書感想文なので、考察は憶測となることを了承してほしい。
太宰の書く女性たちはやはり、描写が美しいのだ。容姿の描写ではなく、心の描写が美しい女性たちだ。

また、これからもしばらく太宰の感想文を書くことをお許しください。
漱石は夢十夜を読んだのだが、いずれ書くかもしれないとだけ…。はやく『こころ』を読んでみたいものだ。

『女生徒』

とある女の子の心のなかをずっと描いている作品。
かつて「女生徒」だった私にも
いま「社会人」としての私にもずっとずっと心のなかにある、女ゆえの感覚。
それは痛いくらいに私を突くのだ。太宰は言うまでも無く男だが、こうして女性の内面を描くのが本当にうまい作家だと思う。

「朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。」

朝は、意地悪。

朝は意地悪だなんて表現した作家が居るだろうか。
朝は一日のはじまり。
だけど、希望に満ちあふれているものではない。特に日中が辛いとかそういうのでなくても、朝を気持ちいいだなんて私は思ったことがない。太宰の陰鬱さが見えるけれど、これが私はたまらなく好きで、いとおしい。これが私かのように、私をここまで言語化できるのは太宰しか居ないのだろうと思う。

眼鏡の話もとても好きだ。

「眼鏡をとって、遠くのものを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、素晴らしい。汚いものなんて、何も見えない。大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目に入ってくる。眼鏡をとって人を見るのも好き。相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。」

眼鏡は、お化け。

私は目が良いからこの話は分からないのだけど、眼精疲労で視力が少し下がったときに見えた光は確かにぼんやりしていてきれいだった。
目が見えないというのはストレスに感じていたが、この一節を読んだら、目が悪くなった世界も、少しは良いものなのかもしれないと感じる。体験してみたくなる。

「自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。それほど私は、本に書かれていることに頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。また、他の本を読むと、たちまちクルッとかわって、すましている。人のものを盗んできて自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。」

「本当に私は、どれが本当の自分だか分からない。読む本がなくなって、真似するお手本がなんにも見つからなくなった時には、私は、一体どうするだろう。手も足も出ない、萎縮の態で、むやみに鼻をかんでばかりいるかもしれない。」

痛いほど私のそのままを言われているようだった。
友達は太宰を読んで「責められているようだ」といった。
けれど責められているようなのはきっと、自分にそういう側面があると見て見ぬ振りをしてきたからだ。
それは悪いことではなくて、人間は無意識に自分の弱さを認識することを避ける。それが「死」を意識するには充分だからだ。

話を元に戻すが、本には自分の体験し得なかった考えや思いや経験がつまっている。それらを吸収して、ああでもないこうでもないと自分の中でこねくり回す。そうして自分だけの体験にしてしまうことは私も昔から意識せずともやってきた。神童だと言われていた幼いあの頃も、私は本の虫で、その年では経験し得ないことを本から学んでいただけだ。本から私だけの経験にしていただけだ。

こんなことを考えていてはだめだと、この「女生徒」は思う。
「何かしなければ、どうにかしなければと思うのだが、どうしたら、自分をはっきり掴めるのか。これまでの私の自己批判なんて、まるで意味がないものだったと思う。批判をしてみて、厭な、弱いところに気付くと、すぐそれに甘くおぼれて、いたわって、角をためて牛を殺すのは良くない、などと結論するのだから、批判もなにもあったものではない。何も考えないほうが、むしろ良心的だ」と。

その通りだ、と思う。痛いくらいの自意識が私に追い打ちを掛けてくる。
経験が本物で無い以上、自分が空っぽなことには変わりなくて、何かしなければと急いてしまう。けれど、その弱さや脆さを考えたら甘えてしまう。「何も考えない方が良心的」なのかもしれない。

「洋服いちまい作るのにも、人々の思惑を考えるようになってしまった。自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛していきたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。人々が、良いと思う娘になろうといつも思う。たくさんの人たちが集ったとき、どんなに自分は卑屈になることだろう。口に出したくもないことを、気持ちとは全然離れたことを、嘘ついてペチャペチャやっている。その方が得だ、得だと思うからなのだ。 いやなことだと思う。早く道徳が一変する時がくればいいのにと思う。」

この子は賢いのだと思う。
何でもこれは太宰が書いてはいるが(太宰先生に対して賢いなんて上から目線過ぎるのだけれど)、「幸福は一夜おくれて来る。幸福は、――」という女性読者から送られてきた日記をもとに、ある女の子の多感で透明な心情を綴っているらしい。太宰が書いてはいるが、元の日記が存在するようだ。
もしその中にこんなことが書いてあったとしたら、これがノンフィクションだとしたらこの子は賢い。
かつて私が神童と呼ばれた(これは決して自慢では無いが)頃も、人には「変わっている」とよく言われたものだ。それの正体は「個性」であったのかもしれない。私はそれをいまでも愛しているけれど、内に秘めておきたいと思っている。
それは「センス」として表出したときに誰かと比較され、優劣をつけられてしまうからだ。彼女は表出させるのがおっかないと言った。それはわたしのおっかないとはちょっと違うのかもしれないけれど「人々の期待」というものを感じて「個性」を封印して、卑屈になって、自分の愛する個性をしまっておけば「得」なのだ。

「(大人になったらこの厭な長い期間も笑えるようになるかもしれない。)けれども、その大人になりきるまでの、この長い期間を、どうして暮らしていったらいいのだろう。(中略)ひと思いに自殺してしまう人もあるのだ。そうなってしまってから、世の中の人たちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然と分かってくることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでもやっとそこまで堪えて、何か世のなかから聞こう聞こうと懸命に耳を澄ましていても、やっぱり、なんか当たり障りのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいすっぽかしをくっているのだ。」

そう、大人達は生きてみれば分かるなんてそんな無責任なことばかり言う。
それはわたしが年齢的に大人になってもそう思う。本気で死にたい人なんてこの世には居ないんじゃないかと、思えてくる。
所謂中二病のまま、大人になって、この世のことにずっと疑問を感じて、生きていくしかないのか。生きていて何か分かるのはいつになるんだろうか。
生きていけばこの気持ちも受け入れられるようになるって、私の周りの大人達もよく言っている。けれど、私には分からなくて、一人だけ中学生のまま止まっているような、そんな気持ちになる。

中二病でも何でも良いのだ。死にたくなっても良いのだ。
いい、それで私は生きてきたから。思春期から何も変わっていないけれど、それでも個性を殺して諦観していくよりも良いだろうと思って居る。
諦観をしてしまったら、それこそ無責任な大人と何も変わらないのだ。こんな大人も居ても良いだろうと、彼女に思いを届けたくなった。

読後感を大切にしたくて私は殆ど読んだその日のうちに書くことが多い。
今回もテレワークそっちのけで没頭してしまった(仕事しろ)。今日はなにに於いてもだめな日だったので、そんな日に理由を持たせてくれた太宰治先生と『女生徒』という作品に対して感謝を。

それでは、おやすみなさい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?