見出し画像

下山事件を読む 第11章 GHQ参謀第二部の秘密機関

 前章では、シャグノンの怒りを買ったので下山総裁は殺されたとする松本清張の推理について見てきた。松本はシャグノンが黒幕であることを示唆する一方、こうも言っている。

このキャノン機関が下山事件に関係あるようにいろいろな文書で云われているが、私はキャノンは関係が無いと思う。一体、それぞれのCICの秘密機関は活動中には絶対にその姿を現さないのが本領である。キャノン機関は後年に例の鹿地事件をやって、たまたま名前を暴露されたのであって、CIC秘密機関の中ではいわば失敗した機関なのである。CICと云えば直ちにキャノン機関に結び着く今日のジャーナリズムの安易な常識はもっと改められなければならない。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

「キャノンは関係が無いと思う」と松本は書いているが、キャノン機関が下山事件に関係ないということに関して、「失敗した機関なのである」と言うだけで説得力のある説明はしていない。おそらくシャグノンを首謀者と考えたからキャノンを除外したのだろう。
 キャノンが事件に関係あるか否かについては、キャノン機関とはどのような組織であるかを理解せずして判断はできないと思う。よって、この章ではキャノン機関について詳しく見ていきたい。

キャノン機関の実態

 ジャック・キャノンはオクラホマ大学(法律専攻)を卒業後、ニューヨーク州ウェスト・ポイントにある陸軍士官学校を修了し、アイケルバーガー司令官(中将)の指揮下に編成された米陸軍第八軍に配属された。第二次世界大戦では歩兵大隊長として従軍し、東南アジアを転戦した。

 1945年(昭和20年)8月30日、マッカサーは沖縄から厚木飛行場に到着した。マッカサーの随伴機にはウィロビー(当時大佐)が搭乗しており、ウィロビーの護衛としてキャノン(当時少佐)がついていたという。なお、第八軍の先遣部隊として一足早く横浜に上陸したという説もあるようだ。キャノンの日本での最初の任務は、横浜CICの情報部長として戦争犯罪人の捜査を行うことだった。キャノンは、横浜市本牧の進駐軍将校住宅に住むことになり、米国から妻子を迎えた。
 
 1949年(昭和24年)にG2(ウィロビー部長)直属の諜報機関をつくることになり、その機関長にキャノンが抜擢され、本郷ハウス(旧岩崎邸)でキャノン機関は活動を開始した。

旧岩崎邸

 キャノンの側近として秘書的な役割を担ったのが韓道峰であった。韓の本名は韋恵林といい、日本名では村井恵と名乗った。明治学院高等部神学予科で賀川豊彦と同期だった。賀川豊彦が1888年(明治21年)生まれなので、韓も同じだとしたら、下山事件当時は61歳くらいとなる。
 朝鮮銀行で働いていた時、銀行ギャングを捕まえたことから日本陸軍の特務班にスカウトされ、大正初期から諜報活動に従事してきた。満州事変の頃、甘粕機関の下部に村井機関が組織された。韓がフリーメイソンとなったのもこの頃だった。その一方で、上海フランス租界にあった韓国独立運動仮政府の文教部長としても暗躍し、白川義則(陸軍大将)などを死亡させ、重光葵(在上海公使)などに重傷を負わせた上海天長節爆弾事件(1932年4月29日発生)にも関わった。
 畠山清行は、韓からキャノンについて多く証言を得ている。以下、キャノンや機関の実態について韓証言を中心に畠山の言も含めて列挙する。

ここから先は

9,626字 / 3画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?