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下山事件を読む 第9章 松本清張の推理(その1)

 この章では、松本清張の推理をもとに、ウィロビー(第2章で詳述)やシャグノン(第5章で詳述)が何を考えていたのか見ていきたい。

シャグノンの任務

 松本清張は、初めGS側であったシャグノンが、どういう訳か途中でG2側に付いたと言い、シャグノンがG2側にいたということを考えると、下山事件も半分は判ってくるような気がすると言っている。そして、「シャグノンとしては二つの任務があった」とする。その任務とは次の二つである。

① 社会主義国との対決:対ソ連戦・対中国戦を見据えた戦時輸送計画の策定
② 日本共産党との対決:国労に存在する急進的な労働組合員の追放

 松本は、②について次のとおり述べている。

GHQが占領直後に自ら蒔いた種を、自ら刈る結果と云ってもおかしくない。なんとなれば、日本支配以来、軍国主義の払拭に、方便として用いた共産党育成方針が思わぬ成果を上げ、日本のあらゆる分野において共産党、またはその同調者が急増したからである。各産業方面においても急進的な労働組合が多くなり、二・一スト以来、彼等の云う「革命」も、あながち夢ではないと思われるくらいの情勢になった。殊に、従来比較的穏健と云われた国鉄労組が急激に先鋭化しつつあったのである。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 次に、①については次のとおり述べている。

 この思わぬ「成果」にGHQ自身が愕然となった。わが手で創ったものが意外な魔性に変ろうとしている。今のうちに何とかせねばならぬ。ここで、マッカーサーの政策は社会主義国(ソ連・中国)との対決には、G2の線に一本化されねばならないと変るようになった。既に強大となった日本の急進労働運動もなんとかして食止めなければならない。更に日本のあらゆる機関を一朝有事の態勢に持って行かねばならない。そのためには、自分の手で育成した日本の民主的空気を至急方向転換させる必要がある。それには、日本国民の前に赤を恐れるような衝撃的な事件を誘発して見せる、或いは創造する必要があった。マッカーサーの支持を得たGHQの参謀部第二部はそう考えたであろう。
 7月5日の下山事件を契機として、三鷹事件、横浜人民電車事件、平事件、松川事件などが相次いで起ってのち、G2がGSとの闘争に勝ち、GSの実力者ケージスが本国に送り返され、GHQがその全機能をあげて右旋回に一本化した事実を思い合わせると、G2部長ウイロビーの考えが分ってくるのである。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 上記において、松本は「下山事件を契機として、三鷹事件、横浜人民電車事件、平事件、松川事件などが相次いで起って」と書いているが、これは誤りで、人民電車事件と平事件は下山事件よりも前に起こっている。これらの事件について、当時の世相を知るために簡単に触れておきたいが、流れを止めないために後回しにして、この記事の下部で見ていくことにする。

 そして松本は、次のように述べている。
「日本国民の前に赤を恐れるような衝撃的な事件を誘発して見せる」ために、G2は謀略が必要であったと松本は述べ、その謀略を実行するために、G2のウィロビー(部長)は対敵諜報部隊(CIC)を全国的に動かし、またG2側にいたCTSのシャグノンも対国労作戦にCICを利用したと推測している。

GHQの対敵諜報部隊

 ここで対敵諜報部隊(CIC)が出てきたので、やや詳しく触れておく。松本清張は、大野達三が書いた「アメリカのスパイ謀略機関」という雑誌記事を参考にして、次のとおり書いている。

CIC(軍諜報部隊)は、日本占領の軍管区分に従って北海道(札幌)、東北(仙台)、関東甲信越(東京)、東海(名古屋)、近畿(大阪)、中国(岡山)、九州(福岡)にそれぞれ地方本部を、各都道府県に地区本部を、主要都市及びそのほかの重要地帯に駐留部隊を置いた。GHQのG2の長はウイロビー少将、各地方本部のCIC隊長は大佐または中佐クラスの諜報将校を置き、大きい府県でニ、三百名の将校、下士官兵及び軍属、それに五、六十名の日本人労務者が働いていた。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 諸永は、ジョージ・ガーゲット(札幌にあったGHQガーゲット機関の長)にインタビューを行っている。ガーゲット機関とはどんな組織だったのかという諸永の問いに対して、ガーゲットはこう答えている。

「150機関とか、いろいろ呼ばれているようだけど、正式にはCIC(米軍防諜部隊)の米軍441部隊です。東京を管轄していたのがキャノンで、私は北海道の管轄だった」
 GHQは終戦翌年の1946年から47都道府県すべてにCICの事務所を設け、それぞれに20人ほどを配置していたという。日本の自治体警察と連携して情報収集にあたるというのが表向きの仕事だった。CICの任務とは、
「秘密裏ではなく、表立って軍内外の諜報・宣伝活動をすることで、軍隊に悪影響が及ばないようにすること」
 いわば軍のFBIのような存在だ、とガーゲットは表現した。
「特務機関のような工作活動に手を染めるわけではない。むしろ、ソ連など敵の諜報活動を防ぐのが目的だった」

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 次の文章は、ガーゲット機関があった北海道CICについて、より具体的に書かれている。

GHQ・SCAPの民政局の下にあった軍政部とは別に、占領行政の一端を担った組織があった。その一つが参謀第二部(G2)の下部機関のCIC(対敵情報部隊)で、北海道には札幌(大同生命ビル)に地区本部をおき、函館・旭川などに支部をおいた。当初のトップはガーゲット少佐で、50人ほどの隊員が配置され、右翼・戦犯・「反動分子」という「敵」の情報収集にあたったが、東西冷戦の激化と占領政策の転換のなかでソ連や「国内左翼」の情報収集が主要な任務となった。このため、多くの情報提供者をかかえ、その報酬として「米兵30人1週間分の食糧や大量の服地などを札幌駅構内のRTO(占領軍鉄道輸送司令部)の貨車に積んでいつも用意していた」。この北海道のCICは、横浜や神戸のCICと並んで「ズバ抜けた業績」をあげたという(証言 北海道戦後史)。レッド・パージ該当者の名簿はCICによって作成された。北海道連絡調整事務局の25年12月の『執務月報』の「CICに喚問せられたる者に対する旅費支払状況」という記載では「前月迄累計 142件」「本月分 42件」となっており、活発な活動が推測される。スパイの駆使や謀略と深く結びついたこの組織の実態はなお不分明である。

出典 札幌市教育委員会 編『新札幌市史 第5巻』 

 諸永裕司の著書『葬られた夏』にある朝日新聞(1976年6月14日付)の記事によると、北海道CICは次のようになっている。

かつて札幌CICに所属していた日系二世の元将校の証言

 諸永の著書『葬られた夏』のなかに、米国取材のコーディネーター(日系二世)が「あの戦後の日本で外国人が犯罪に手を染めたりしたら目立ちすぎるとは思わないかい」と疑問を呈している場面がある。しかし、上記の証言からもわかるように、当時GHQには多くの日系二世が在籍しており、彼らが一般市民になりすまして街中を闊歩していたとしても「目立ちすぎる」ということはなかったのである。

 CICの元将校は、協力者には元特高が多かったと語っている。第6章において、長島勝三郎(末広旅館の主人)が、かつて特高に在籍していたことに言及した。このことから、長島もCICの協力者であったかもしれない。

 以上、CICについて見てきたが、「赤狩り」を主要任務とした組織の実態がなんとなく見えてきたのである。

人民電車事件と平事件

人民電車事件(1949年6月10日発生)
平事件(1949年6月30日発生)
 ⇩
下山事件(1949年7月6日発生)
三鷹事件(1949年7月15日発生)・・・第3章で記述済み
松川事件(1949年8月17日発生)・・・第3章で記述済み

人民電車事件
 1949年(昭和24年)6月9日、東神奈川車掌区の国労を中心に、新交番制反対などに抗議する目的で、国電ストライキが行われた。まず、国鉄電車(国電)とは、都市近郊の近距離電車のことである。次に、「新交番制」とは何のことか調べてみると、新しい交番表に基づく運用という意味になることがなんとなく判る。そして「交番表」を検索すると「シフト表」と出てくる。6月1日に発足した国鉄は、国電車掌区に新交番制を実施する業務命令を出した。それに対して、新交番制を実施すれば過重労働や余剰人員の発生などが懸念されたため、労働組合員は新交番制に反対するストライキを行ったという。また、行政機関職員定員法の公布(5月31日)と同時期に出された業務命令であったこともあり、新交番制は余剰人員解雇の布石とも見られ、人員整理反対ストという意味合いも持っていたようだ。
 スト突入日の翌10日に事件が発生した。その事件とは、「人民電車」とペンキで書いた電車を労働組合員が無断で走らせたものだ。「人民電車」は、無賃乗車の乗客を乗せて、赤旗をなびかせながら運転されたと言われている。
 この事件に関わった労働組合員は、電車往来危険罪などの容疑で逮捕・起訴された。

 矢田もこの事件を取り上げている。

東京鉄道局は、東神奈川、千葉、蒲田、中野、三鷹の各車掌区に注意して新交番制でやるようにうながしたが、このうち東神奈川と千葉はとくに強硬で命令をきかなかった。東鉄局ではその中心人物とみられる19名を6月9日付で懲戒免職にした。これが発端で東神奈川車掌区はその夜のうちにストにはいった。神奈川地区の労働者団体も共闘組織をつくって「国鉄電車人民管理」を決定、この夜には横浜駅で組合員の手で電車の自主運転をした。翌6月10日には“人民電車”と胴体に横書きした国電が京浜、横浜両線を走ったものだ。

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 矢田によると、この東神奈川車掌区の行動が他の車掌区にも波及して、より大がかりなストに発展したとのことである。

平事件
 1949年(昭和24年)4月13日、日本共産党の福島県磐城地区委員会は、平市警察署(現在のいわき中央警察署)に宣伝用掲示板を設置するための道路使用許可申請を行った。この申請が平市警察署により許可されたので、日本共産党は掲示板を設置した。
 ところが、交通の障害となる事が判明したとの理由で、平市警察署が一転して許可の取り消しを行い撤去命令を出したところ、政治運動に対する弾圧だとして平市警察署に対して日本共産党が猛反発し、これを契機として日本共産党と平市警察署は対立していった。
 同年6月30日午後3時半ごろ、日本共産党員や労働組合員、在日本朝鮮人連盟の朝鮮人などが、平市警察署に押しかけ、警察署員に対して暴行を働いたり、警察署の窓ガラスなどを破壊したりした。そして群集は、約8時間にわたり警察署を不法占拠したと言われている。
 この事件では231名が騒擾罪の容疑で検挙され、そのうち159名が起訴された。

 こうして見ると、謀略を仕掛けようとしていた者にとっては、どさくさに紛れてその企みを実行することのできる絶好の舞台が整っていたことが判る。

 次の章では、松本清張の推理をもとに、下山総裁が抱えていた情報屋について考察していきたい。

(つづく)

参考文献
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)
諸永裕司 著『葬られた夏』朝日文庫(2006年)
札幌市教育委員会 編『新札幌市史 第5巻』 北海道新聞社(2002年)
矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』講談社文庫(1985年)

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