見出し画像

下山事件を読む 第10章 松本清張の推理(その2)

 前章では、臨戦態勢への移行を目論んでいたウィロビーとシャグノンが、日本国民に反共意識を植え付けるための謀略を巡らしていたという松本清張の推理を見てきた。この章では、下山総裁が殺害された理由について、松本清張はどのように推理したのか見ていきたい。

下山総裁の情報収集

 第4章では、大規模人員削減を行うだけの“暫定的総裁”を下山が嫌々引き受けたことについて書いた。しかし下山が総裁就任を引き受ければ即座に総裁に内定したかと言えば、そうではなく、GHQに“お伺い”を立てなければならなかったことは、第4章「GHQによる人事介入」のところに書いたとおりだ。

 松本清張は次のように推理している。
 下山が総裁候補になった時、シャグノンはCICを使って下山の身体検査を行った。その際シャグノンは、国鉄総裁を自由自在に操るため、特に下山がGS側にコネを持っていないことを重視した。その点に関しては問題ないと判断したので、シャグノンは下山の総裁就任を承認した。
 ところが蓋を開けてみると、下山はシャグノンが期待したほど従順ではなかった。そのことについて、松本は次のとおり説明している。

 たとえ暫定総裁にしても悉くGHQの命令で動くことを彼は潔しとしなかった。例えば国鉄整理人員のリストにしても一方的なGHQのお仕着せだけは満足出来なかったし、また氏に冷たい職員局の作成するリストを鵜呑みにすることも彼としては我慢がならなかったであろう。加賀山副総裁の勢力下にあった職員局は、何も派閥を持たない現場出身の下山総裁に協力的ではなかった。そんなところで作ったリスト(GHQの意向を多分に盛ったもの)に従うのは、彼の自尊心が許さなかったに違いない。シャグノンにとっては意外にも、下山には反骨精神があったのである。
 新しい独立採算による合理化という名の下に、真の狙いである国鉄内の共産党分子の追放計画はGHQの調査では甚だ粗漏なものがあった。ろくに調査もされないで赤色分子と見られ、馘首の対象になった人間は、確かに多かった筈である。このようなリストを見ても、人情家といわれている下山は、そのまま受け入れることが出来なかったであろう。彼としては、自分独自のリストを作り、シャグノンに抵抗したかったに違いない。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 松本は、下山が独自の人員整理リストを作成しようとしていたと言うのである。そして、そのために国労の情報を収集する必要があったと言うのだ。

 諸永裕司も下山の情報収集について言及している。

「首切り前だから、労組についての情報だよ。大量の人員整理を推し進めなければならなかった下山は、解雇者リストを作るために情報を集めていたんだ。レッドパージの色彩を強めるGHQのように、共産党の影響を受けた左派をすべて切り捨ててしまおうというのではく、下山は独自の案をつくろうとしていた。現場から叩き上げで総裁になっただけに、組合の内部にもパイプを持っていたんだね」

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 下山が労組左派に配慮していたことを示す増田甲子七(官房長官)とのやりとりがある。

首相官邸で開かれた治安関係次官懇談会に(7月2日)9時30分から列席。増田官房長官から「6月末の国鉄労組熱海中央闘争委員会の決議に加わった左派系組合幹部17名を第一次整理者に入れろ」と要求されたが、総裁は「決議は民同派(右派の御用組合)も加わってのことで、だれが賛成したのかも不明だから・・・・・・」と、増田長官の提案には賛同しなかった。(かっこ内筆者)

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 なお「6月末の国鉄労組熱海中央闘争委員会の決議」とは、「最悪の場合はストを含む実力行使を行う」という闘争方針の決議のことである。

 そのような独自の人員整理リストづくりは、GHQが軍事作戦を遂行する上で許されなかったと松本は考えるのである。「軍事作戦」とは前章で掲げた以下の二つである。

① 社会主義国との対決:対ソ連戦・対中国戦を見据えた戦時輸送計画の策定
② 日本共産党との対決:国労に存在する急進的な労働組合員の追放

日本側では首切りを、単なる経営上の合理化ということだけで考えていた。しかしGHQでは首切りはあくまでも米軍のための問題ということだけで考えていた。それ故の整理であったのだ。これを知らずに国鉄の大量馘首があくまでも経済上の問題だと考えていたところに日本側とGHQの真意との食い違いがあり、下山の不運があったのである。当時の日本の上層部でも、アメリカ軍が極秘のうちに日本国内で何を作戦しているかは誰一人として気づかなかったのではないか。国鉄職員の整理ということは単に独立採算制とか定員法とかによる経済上の理由によるのではなく、米軍作戦という苛烈な狙いがあって、日本側の政治上の駈引とか妥協とかいうものは許されなかったわけである。国鉄整理は、G2の打ち出す強力な作戦計画の中の、一つの重大な要素であったわけである。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 松本は、国労もGHQの軍事作戦について気づいていなかったとして次のとおり述べている。

 国鉄労組もまたこの大量首切りをGHQの作戦軌道の一つとは気づいていなかった。彼等はただ国鉄が共産分子を含む急進主義者を含めて大量馘首に出ることに反対したが、それは経済闘争と考えていた。琴平大会では国鉄馘首に反対して実力を含む強力な反対闘争を決議したが、二・一ストの際のマッカーサー命令でも分っている通り、彼等はその完遂が不可能であることも、承知していたに違いない。しかし民同派を除いて国鉄労組の主流派は、敢然と実力行使を含む闘争宣言をしたのである。実力行使については、徳田球一などが、「それはまだ早過ぎる」と云って、危ぶんだぐらいであった。
 しかし、国鉄労組のこの闘争方針は大そう世間に注目された。7月5日に予定された馘首の発表があり次第、「直ちに実力行使の闘争に入る」という国鉄労組の方針に、国民は不安を抱き、不穏な空気がなんとなく漂っているように感じられたに違いない。
 多分、シャグノンは、この不穏な空気をかえって歓迎したことであろう。彼は何か衝撃的な事件を起す準備を考えていたし、そのための背景になる国鉄労組の不穏な空気はむしろよろこぶところであった。

出典 松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)

 松本の推理を簡単にまとめると次のようになると考えられる。
 下山は、情報屋から得た情報をもとに、独自の人員整理リストを作成しようと目論んでいた。また、GHQ内部の事情を知りうる立場にあった情報屋から、GHQに関する情報も下山は得ていた。ところが、人員整理リストづくりやGHQ情報の収集といった下山の動きがシャグノンに探知されてしまい、シャグノンの逆鱗に触れた下山は殺されてしまった。「ストを含む実力行使」も辞さないとした労組左派の攻撃的姿勢により、「日本共産党員が何か事を起こすのではないか?」という世間の不穏な空気が生まれたことは、下山殺害を企んでいたGHQにとっては好都合なことであった。

 松本は、「シャグノンは整理問題で下山が自分に抵抗しているのを腹に据えかねているところへ、このようなネットを密かに使っていると探知して激怒したのである」(「下山国鉄総裁謀殺論」p.71)として、黒幕がシャグノンであることを示唆している。「このようなネット」とは、GHQに探りを入れるような情報網を意味するのだろう。

鎗水情報

 ここで、下山と会っていた情報屋について言及している部分もあるので、鎗水徹(元読売新聞記者)が矢田喜美雄にもたらした情報を見ていきたい。

 事件から8年後の1957年(昭和32年)、三越から下山を誘拐した4人組の一人が下山誘拐のあらましを書き残したノートを鎗水は偶然手に入れた。このノートの持ち主は、ストライキ権の剥奪(政令201号)に反発して札幌鉄道局から職場離脱したH・Oという男である。H・O は、1948年(昭和23年)8月に仲間とともに上京して、日本共産党員派遣の情報屋グループの一員となり、人員整理問題に関する情報を下山に提供するようになった。このノートには、下山が「整理の対象は老齢者、技術を身につけていないものを優先する。赤を首切れという命令はあるが、当面の対象にはしない」と情報交換の場で約束したことが書かれている。

 なお、「総裁を誘拐した」と書いたが、H・Oは知らぬ間に誘拐に加担させられたと告白している。

 1948年(昭和23年)8月以降、北海道で大規模な職場離脱が起こったのは事実であるようだ。話が脱線するが、当時の社会状況を知るために引用する。

 昭和23年「三月闘争」以降も、官公労組合は夏季手当や職域内条件改善闘争を継続し、中でも国労道地評は「賜暇戦術」などを強化した。全官公も給与改定要求を強めていた最中の7月31日、政府はGHQの指示に応じ、公務員や公共企業体労働者の争議行為を禁止する「政令201号」を公布し、即日施行した。ストライキ権剝奪に反発した国労道地評の政令反対闘争声明に対して、札幌鉄道局は「職場離脱者即懲戒免職」を表明したが、やがて道内各支部・分会では青年労働者を中心に職場「離脱者」が続出し、各地で事実上のストライキが続発した(資料北海道労働運動史)。
 国労苗穂工機支部(2883人)も7月29日、局側から「政令201号により従来の如き団交は拒否する」との通告を受け、就業時間内職場大会で旋盤職場の残業を拒否した。さらに、8月3日の全面残業拒否を機に10月末までに62人が職場を離脱するなど、札幌鉄道局管内では10月末までに離脱者累計799人、復帰者318人、検束者が356人に達し、その結果459人が免職となり、318人が減俸処分を受けた。政令201号反対闘争に同調した全逓も、8月から9月にかけて道内で職場離脱者99人、政令違反逮捕者92人、検束57人を出し、87人が免職となった(同前)。かくして国労、全逓の夏季闘争は、スト権と団交権を失い、多数の処分者を出したのみで何ものも得ることなく終息し、官公労組合は運動の戦術転換を余儀なくさせられた。

出典 札幌市教育委員会 編『新札幌市史 第5巻』

 結論から言うと、鎗水情報の信憑性は低いと思われる。諸永による鎗水のインタビューの一場面を見てみよう。

「ところで、H・Oさんの日記は、その後どうしたんですか」
「さっき言ったろ。GHQの前でノートも全部焼き捨てたんだ」
 事件の核心につながる資料だとすれば、米軍が焼却させたりするだろうか。
 不覚にもこのときは気づかなかったが、鎗水がH・O氏の日記を手に入れたのは1957(昭和32)年の秋だと話していた。その時期にはGHQは日本にいない。占領が終わったのは52(昭和27)年のことだ。

出典 諸永裕司 著『葬られた夏』

 しかし、たとえ鎗水情報の信憑性が高くないとしても、北海道で職場離脱者が続出したことが事実であったことを考えると、すべてが嘘であると言い切ることはできない。虚実混交というのが本当のところではないだろうか。この章での話の流れからいくと、「整理の対象は老齢者、技術を身につけていないものを優先する。赤を首切れという命令はあるが、当面の対象にはしない」という言葉は、いかにも下山が言いそうなことではないだろうか。

 田中栄一(事件当時の警視総監)が『週刊現代』(昭和34年7月号)に寄稿した手記によると、事件前に「あなたの身辺を警戒したい」と田中が下山に言うと、下山は次のように言って断ったという。

「護衛の警官がいたのでは労組の動きをつかむ情報がとりにくい。私は縦横に走りまわって神出鬼没で自分自身で情報をとっているから、警官がそばにいたのでは動きにくくなる」

出典 矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』

 上記の文章からは、下山は人員整理リストを作ることを主目的にして情報屋に会っていたのではなく、「労組の動きをつかむ」ことを主眼として情報屋に会っていたことが分かる。
 
 以上のことから、確かに下山が労組左派に配慮していた事実はあったようだが、下山が独自に人員整理リストを作ろうとしていたか否かは定かではない。仮に下山がそのようなことを目論んでいた事実があったとしても、それが下山殺害の動機になったとは到底思えない。シャグノンが下山の行為を不快に思ったならば、鶴の一声で無駄な抵抗はやめろと一喝すれば良いだけの話だ。したがって、GHQの要望に従わず、独自に人員整理リストを作ることを企図したから下山は殺害されたという松本の理屈は、どこか論理が飛躍しているような印象を受けるのである。もちろん、下山による独自の人員整理リストづくりについては、そのことだけが下山殺害の原因であるとは松本は言っていないが、下山殺害に至った主要な原因として挙げられているのは明らかである。これでは、どうも腑に落ちないのだ。
 下山を殺害しなければならなかった別の理由があったはずである。

(つづく)

参考文献
松本清張 著「下山国鉄総裁謀殺論」(『日本の黒い霧』に掲載)文春文庫(2004年)
矢田喜美雄 著『謀殺 下山事件』講談社文庫(1985年)
札幌市教育委員会 編『新札幌市史 第5巻』 北海道新聞社(2002年)
諸永裕司 著『葬られた夏』朝日文庫(2006年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?