短編「一個小隊」
カードリーダーに通行証を読ませて灰色のスライド式ドアを開き、中に一歩踏み入れると空気も景色も一瞬にして変わる。白い無機質な長方形の空間に広がるのは機械の一個小隊。数十台の汎用コンピューターが隊列を組んで指揮官を出迎える。
排気熱を冷やすために空調設備の設定温度が極めて低いので、この聖域に踏み込むときには真夏でも厚着が必要だ。巨大な動物の群れが呼吸をするような継続的なファンの音と不定期な空調設備の排気音が絶妙のハーモニーを生み出し冷え切った部屋全体を包み込む。圧倒的な機械の大群に気圧されないように自意識を強く保たねばならない。この空間に入ることが出来る人間は限られている。午前三時。今から俺が指揮官だ。
自宅で寝ていた俺に電話がかかってきたのは午前二時。ベッドで熟睡していたが、電話がかかってくる数秒前に気配でわかった。一回の呼び出し音で完全に覚醒して受話器を取った。戦いのゴングが鳴る。ニューヨークは午後の一番忙しい時間帯だ。二、三時間で問題を片付けなければならない。俺は有楽町のコンピューターセンターまでタクシーを飛ばした。
指揮端末の前に腰を下ろす。ニューヨークのハリーに電話をかける。ハリーは、ニューヨークの機械室担当課長だ。いわばあちらの一個小隊の指揮官である。
「ヘイ、ハリー、状況を聞かせてくれ」
ハリーは世界各地の小隊指揮官の中で最も信頼できるナイスガイだ。仕事に誇りを持ち、機械の群れを労り、ニューヨークを愛し、何より周りで働く人を愛している。部下の信頼も厚い。俺と最も気が合う友でもある。
ハリーが機械たちの問題について詳しく説明する。状況は把握した。一時間以内に片付ける。
ログインしてパスワードと指紋認証を済ませて、ニューヨークのシステムに潜入する。いくつもの光が一万キロの距離を越え、海を渡り迷路をくぐり抜けてニューヨークの一個小隊に辿り着く。あちらの指揮端末の表示が見えた。プロシージャーの途中で処理が中断している。
五十冊近いスペックはすべて頭にある。それらを片っ端から頭の中で検索しても良い。そういう論理型の指揮官もいる。だが俺は直感型だ。自分の勘を信じる。指揮端末を見た瞬間に閃いた。スペックを確認するまでもない。勘がはずれたらそのときのことだ。修復用プロシージャーの作成に十五分。実行に十五分。中断している業務用のプロシージャーの再実行に十五分。そんなところだろう。慎重にキーボードを打つ。頭が冴える。背後の一個小隊の音は一切聞こえない。無感覚かつ無機質な時間の中で作業を進める。
結果は予想通りだった。俺の勘は的中した。問題は一時間以内に片付いた。一気に緊張が解ける。現実感が戻り一個小隊と空調の奏でる音楽が再び聞こえてくる。
「ハリー、終わったよ」指揮端末からログオフしながらおれは言った。
「ブラボー!相変わらず早いね。今日はワイフとブロードウェイに行く予定だから助かったよ。残業せずに済んだ」
「何を見に行くんだい?」
「オペラ座の怪人さ」
「それはうらやましい。よい夜を!」
受話器を置いて、俺は機械室を後にした。一個小隊が俺の背中に敬礼した。
数年後のことだ。忘れもしない9月11日。世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだというニュースが俺の耳に入った。ニューヨークの一個小隊もハリーも今はこの世にない。
(了)
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