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近代漢字文化圏の話③「水素」

近代漢字文化圏の話も今回で3回目です。
読んでくれる皆さん、ありがとうございます。


さて、皆さんは「水素」をご存知でしょうか?

原子番号1番で、元素の中で最も軽く、そしてこの宇宙で最も豊富に存在する元素が水素です。

今日はこの水素について近代漢字文化圏の視点から話してみたいと思います。

1.「水素」という漢字語を作ったのは誰?

英語で『hydrogen』と呼ばれる物質を日本語で呼ぶと「水素」です。

ではこの「水素」という言葉を作ったのは誰なのでしょうか?

漢字語ですから中国人かと思う人もいるかもしれません。

しかし、実はこの言葉を作ったのは日本人なんです。

名前を宇田川榕庵(うたがわようあん)と言います。

彼は江戸時代の蘭学者。そして日本初の体系的な化学書を書いた人物でもあります。

榕庵はオランダから輸入した本を読んで化学を学び、それを日本語に訳しました。

そうして生まれたのが日本初の体系的な化学書『舎密開宗(せいみかいそう)』です。

この本の最初の巻が発行されたのは1837年。
時の将軍は12代徳川家慶。
ちなみにこの1837年というのは大塩平八郎の乱があった年でもあります。

そんな時代に書かれた『舎密開宗』。
せっかくなので少し読んでみましょう。

↑舎密開宗第1巻51頁

漢文の書き下し調ではありますが、全体として漢字カタカナ混じり文で書かれ、また現代人にも読みやすい綺麗な字で書かれていることがわかります。

では中央から少し右側、「水之成分 第四十六章」とあるところから読んでみましょう。
下に引用します(なお、漢字は新字体に改め、読みやすさのため句読点等を補います)。

水ハ純体ニアラズ水素ト酸素ヲ以テ成ル。
輓近ノ諸家、水ヲ名テ
「ワートルストフ オキサイデ」酸化水素
又「オキシデュム ヒドロゲニイ」全酸化水素
ト云フ。

『舎密開宗』第1巻51頁

以上から分かる通り、榕庵はオランダ語で『水素』を意味する「ワートルストフ(waterstof)」を「水素」と翻訳しました。

「waterstof」は「water(=水)」と「stof(=原料、素)」に分解できる言葉ですから、彼はこれを逐語訳して「水素」という言葉を作ったのです。

そしてこの「waterstof」を訳して江戸時代に誕生した「水素」という漢字語は、令和の今でも私たちに使われています。

蘭学者ってすごいですね。


では他の漢字文化圏の諸国では『水素』はなんと呼ばれるのでしょうか?
日本と同じ語彙が使われるのでしょうか?

2.他の漢字文化圏の諸国では?~韓国編~



次はお隣の韓国について見てみましょう。

韓国では『水素』という物質を「수소(スソ)」と呼びます

ここで韓国では「水」という漢字を「수(ス)」と読み、「素」という漢字を「소(ソ)」と読むことを知っておきましょう。

そう、つまり「수소(スソ)」とは「水素」を韓国漢字音で読んだ言葉なのです。

要するに韓国語で『水素』を意味する「수소(スソ)」という語彙は、日本人蘭学者が今から300年ほど前に作った漢字語が輸入されたものなのです。

宇田川榕庵の翻訳は、海を渡った朝鮮半島でも使われているんですね。

蘭学者ってすごい..。



3.他の漢字文化圏の諸国では?~中国編~


さて、では次に中国では『水素』をなんと言うのでしょう?

実は中国では『水素』を「水素」とは呼びません。

宇田川榕庵の翻訳は中国では広まらず、中国は中国独自の翻訳語が使われるからです。

「氢(qīng)」

これが現代中国で『水素』を意味する漢字です。

でもこれ、どういう意味なのでしょうか?

そのためには漢字の由来を知る必要があります。

実はこの「氢(qīng)」、元々は2つの漢字から成る言葉でした。


中国では元々『水素』を「軽気」と呼んでいて、それが短縮されたのが「(qīng)」という字なのです。

よく見てみてください。
「軽」の右側「」と「気」の外側「」が合体したのが「」という漢字ですね。

つまり「(qīng)」は「軽気(qīng qì)」の略、要するに「体」という意味だったのです。

中国では『水素』をこんな風に呼ぶんですね。



ところで皆さんは高校の化学を覚えていますか?

水素に3種類の同位体があることはご存知でしょうか?

そもそも「同位体」って何だか分かりますか?

高校の化学を覚えている人なら知っていることでしょう。

同位体とは、「同一原子番号を持つものの中性子数が異なる核種の関係」を言います。

つまり同じ原子ではあるけれど、原子核の中の中性子数が違うということです。


そして、
原子核が陽子1個だけで出来ている「軽水素」。
陽子1個と中性子1個で出来ている「重水素」。
そして、陽子1個と中性子2個で出来ている「三重水素
これが自然界に存在する水素の同位体3種類です。

ちなみにこの中の「軽水素」が自然界の水素の内99%を占める最も“普通”の水素です。

下に添付した画像を見てください。
核内の中性子の数が違うとはこういうことです。


水素の同位体


これが「軽水素」「重水素」そして「三重水素」。

上述の通りそれぞれ中性子の数が0個,1個,2個と違い、それに伴い質量もそれぞれ約1,2,3と違います。



これら水素の同位体。中国語ではそれぞれの質量に注目して別の漢字が造字されています。


質量が約1の「軽水素」を「氕(piē)
質量が約2の「重水素」を「氘(dāo)
そして質量が約3の「三重水素」を「氚(chuān)

と呼びます。

「气」の中の棒が1本2本3本となっていて、それぞれの同位体の質量を表しているのです。

例えば三重水素は質量が3だから、「气」の中に棒を3本書いて「川」にして「氚(chuān)」になるということです。

なんか面白いですね。


さて、同位体の話はここまで。

最後にベトナム語の『水素』の呼称を見て今回は終わりにしましょう。


4.他の漢字文化圏の諸国では?~ベトナム編~

現代ベトナム語では『水素』を「hydro」と呼びます。

…あれ?

ハイドロ...?急にヨーロッパ風ですね…。

実は現代ベトナム語では化学元素から基本的に漢字語が排されているんです。

酸素なんかも現代ベトナム語では「ôxy」。

これもヨーロッパからの影響がありそうです。

現代ベトナム語は、ベトナムがフランス領インドシナとして統治されていた名残から元素名にフランス語の影響が強いんです。

とはいえ、漢字文化圏の一国ではあるのですから過去には漢字語の元素名が優勢だった時代も当然あり、そのときには『水素』は「khinh khí」と呼ばれていました。

「khinh khí」?

そう。「khinh khí(キンキィ)」です。


…勘の良い方、気づきましたか?

なんだかあの言葉に発音が近いことに気づきませんか?

中国で「氢(qīng)」がまだ合字になる前の呼称、「軽気(qīng qì)」を思い出してみてください。

「qīng qì」はカタカナで書けば「チンチィ」。

ベトナム語の「khinh khí(キンキィ)」とそっくりですね。

それもそのはず。実は「khinh khí(キンキィ)」は漢字で書くと「軽気」なんです。

漢字語がフランス語に優越していた時代のベトナムでは、『水素』は中国と同じく「軽気」と呼ばれていたんですね。

もっとも今ではフランス語由来の「hydro」が使われ、「khinh khí(輕氣)」は日常的にはほとんど使われないそうですが、こうして漢字文化圏たる日中韓越の『水素』を比較すると、

日本と韓国では「水素(すいそ/수소<スソ>)」 

中国とベトナムでは「軽気(qīng qì/khinh khí)」

と呼ばれていることが分かりました。


5.終わりに


宇田川榕庵の作った「水素」という言葉の勢力範囲は、日本と朝鮮半島までということが分かりました。

個人的には榕庵の「水素」がもっと中国やベトナムに広まってほしかった気もしますが、それはそれとしてなかなか面白い結果ではないでしょうか。

次も色々な近代的漢字語彙について諸国での使われ方を調べていこうと思います。

それではまた次回お会いしましょう。

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