給料≠「何か」に対する我慢料

給料は我慢料ではない。

とあちこちで目にする。


うん。

確かに。

と思う。


朝、がんばって起きて

行きたくないところにいって

やりたくはない仕事をして

上司や同僚と取りたくないコミュニケーションをとって

それぞれにずーーーっと我慢をしてたから、もらえるお金

が給料ではない。


どれだけもらえるのか?

それは個人が持っている「価値」の対価なのだ。


どれだけの恩恵を会社にもたらしてくれるのか?

それが技術なのか、

営業先でのコミュニケーション能力なのか、

社内を円滑にまわすための潤滑油なのか、

特許のようなわかりやすい権利なのか。

それは人それぞれなので、ここで具体性を持たせられないけれど

そういったものを発揮して、

そこで初めて「価値」が出る。


自身を省みても

我慢してまで働いても、なぁ…?

と前職を思い返して感じる。


生活も考える。

その先も考える。

これは当たり前のことだ。

その上で考えねばならないことなのだろう。


どれくらい欲しいの?

から始まり、

これができる、あれができる、

と省みて、

自分の価値をはかる。

そこには

あれはできない、これもできない、

という部分も出てくる。


そこでお互いに擦り合わせをおこない、

その上で出てくるの「基準」のひとつが


 給 料 。 


であると思っていたので、

ぶっちゃけ、会社は我慢料を払えない。


『うまく生きていく上で、

 上記のことをちゃんと踏まえておかないと

 自身だけが痛みますよ。』


と思うのです。


楽して生きていくことは

ほとんどの人ができない事。

でも、うまく生きていくことは

ちゃんとやることをやれば、

ほとんどの人ができる事。


自分の売り方は自分が一番わかっているはず。

肉屋でブランド服を求めないように、

スーパーで高級車を求めないように、

コンビニで宝石を求めないように、

きちんと売るべきところで

自分を売る形にしないと

望んだ形にはならない。


新卒をとる・とらない、

採用・不採用の現場の近くに

はからずもいてしまったので、

自身の考えを文字起こし。

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