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学問の意義とはなにか―マックス・ウェーバー『職業としての学問』から考える大学における学問の意味―

はじめに

大学全入時代と言われるようになった今、大学に入るというのは珍しいことではなくなりました。大学進学率は大幅に上昇し、かつての人々が経験した過酷な受験戦争は終わったと言って良い状況となっています。

近年になって、大学進学率の上昇、すなわち大学に入学しそこで学ぶという経験の大衆化が進行するにつれ、学問の意義が改めて問い直されるようになってきました。学問が大衆化し、かつて庶民にはブラックボックスであった学問というものがいくらか平易な形で大衆に提供されるようになったために、かえってその意義が不透明化したのです。それは、学問に対する偏見を生み、学問に関わる人間に対する偏見をも生み出しました。また、実生活に直接「役立たない」とされる学問は軽視され、経済学・法学や理系の諸学問などが望ましいとされる傾向が強くなるという事態にも発展しました。

このような学問を取り巻く状況の中で、当の学生は学問についてどう考えているかというと、「特に何とも思っていない」「わからない」というのが実情です。小中高と形式的な勉強はしたけれど、受験も経験してきたけれど、学問というものがいったいなんなのかということは考えてこなかった、いや、考えることが無駄に思えたという学生は多いのではないでしょうか。私もその一人です。では、当の私たちすらわからない学問というものを、私たちはどのように考えるべきなのでしょうか。

このような問いが問われたのは、今の日本だけではありませんでした。第一次世界大戦後のドイツでも、同様の問いが立てられていました。大学生たちは、戦後の混迷の中で学問の意義を探し求めていました。終戦から約2か月後の1919年1月、一人の学者がミュンヘンである講演を行いました。彼の名はマックス・ウェーバー。彼の講演の題目は”Wissenchaft als Beruf”、のちに日本でも「職業としての学問」として出版され、広く知られるようになる講演です。彼は、青年たちの間に蔓延していた、学問に対する懐疑を鍛えらるべき弱さであるとして批判し、「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と叱咤しました。この講演で、彼は学問の意義、役目、価値などについて言及しました。彼の主張した内容は、今日にも通じるものです。この「職業としての学問」を通して、学問の意味について再検討していきましょう。なお、本文中の引用文はすべて、マックス・ウェーバー『職業としての学問』(尾高邦雄訳、1936、岩波文庫)に拠ります。

学問に生きる者の条件

まず、ウェーバーは学問を職業とするにふさわしい者の条件を次のように語ります。

「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。それゆえ、いわばみずから遮眼革(めかくし)を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。近ごろは学問上の「体験」ということがよく口にされるが、このような人々は、おそらくついに学問を身をもって「体験」することは不可能であろう。…(中略)…なぜなら、いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。」(pp.22-23)

学問を生業とする者は、自分の専門分野に独り閉じこもり、他のことには目もくれずに自分の専門に打ち込まなければ偉大な功績を残すことはできない、と彼はいいます。一意専心に努め取り組まなければ、学問を職業とする者が味わうことのできる何物にも代えがたい喜びは得られないというのです。実際に、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが提唱した自己実現理論で5段階のうち最上位に位置する「自己実現」は、まさにこの「深い喜び」を指しており、一部の学者や芸術家しかたどり着くことのできない段階であるとされています。その段階に到達するために必要なのは情熱であり、情熱をもってなされないことはすべて無価値であると彼は説きました。まさに「好きこそものの上手なれ」でしょうか。

ここで考えてみたいのですが、私たちの中で、いままで学問に本当に情熱を注いできた人はどのくらいいるでしょうか。受験勉強を例に挙げてみますと、私たちの情熱が志向するのはたいてい、合格の瞬間の喜びや輝かしい大学生活、あるいは受験勉強からの解放などであって、学問、ここではすなわち受験勉強それ自体ではないような気がします。ただ、本当に優秀な人というのは受験の出題範囲にとらわれず、自分なりに興味のある分野の書籍をたくさん読み漁るなど、学問それ自体に多大なる情熱をもって取り組んでいたと思うのですが、皆さんはどう思うでしょうか。ウェーバーの定義でいうのであれば、彼らこそが「学問に生きるもの」ということになるのかもしれません。

では、情熱は単なるモチベーションとしての役割しか果たさないのでしょうか。ウェーバーは更なる情熱の役割を提示します。それは、「『霊感』を生みだす地盤」としての役割です。

「…情熱はいわゆる『霊感』を生みだす地盤であり、そして『霊感』は学者にとって決定的なものである。ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作業室で取り扱う計算問題になってしまったかのように考える。ちょうど『工場で』なにかを製造するときのように、学問というものは、もはや『全心』を傾ける必要はなく、たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまったかのようにかれらは考えるのである。」(p.23)

ここでいう「霊感」とは、思いつきのことを指します。相対性理論などの諸学問の偉大なる業績というのは、常に人間の頭の中で生み出されてきました。ですが、それらの業績がすべて厳密な推論の結果であるかというと、もちろんそういったケースも多くありますが、突然「降ってきた」という場合が非常に多いのです。インドの天才数学者ラマヌジャンは、まさにその好例ではないでしょうか。思いつきというのは、学者にとって自身の功績を左右する大きな要因であるということがわかります。

ここでウェーバーは若い学生の学問に対する情熱の欠如を問題にしています。学問はパズルのように一時だけ頭を動かして一定の操作を行えば必然的に解けるというものではなく、一心不乱にそれに取り組むことで初めて成果が出せるものだと彼は警告しています。当時のドイツでは大学に入ること自体が非常に珍しいことでしたから、大学生の数自体が非常に少なかった。したがって、学生が学問に励まない、励んだとしてもテスト前など一時の間だけであるような状態は、すなわち国家の学問レベルの将来的な衰退を暗に意味していたのです。

このあとウェーバーは、素人と専門家を区別するのは学問的に物事を処理する作業方法を知っているか否かであるとし、この作業と情熱が組み合わさって突然生まれてくるのが思いつきであるとしています。ここで注目しておきたいのは、作業と情熱、そのどちらかが欠けても思いつきは生みだせないということです。いくら専門的に物事を分析する手法を知っていても、情熱がなければよい思いつきは決して出てこない。こうした意味で、情熱は学問に取り組むうえで非常に重要な資質であるということがわかります。ただ、情熱をもって取り組んでいれば必ずよい思いつきが降ってくるかといえばそういうことではなく、「霊感」が与えられるか否かはすべて、学者の天賦のいかんによって決まるとウェーバーはいいます。学問に生きる者は僥倖の支配に甘んじなければならない、とも彼は述べています。学者はその人生の大半を運に任せるしかないのです。

要するに、情熱をもって真剣に学問に取り組める人が学問に生きる者としての資格を有し、学者としての成功は、情熱とたゆまぬ研鑽は当たり前の前提として、最終的には運で決まるということになります。

学問的業績の意義

では、2000年以上続く学問というものの意義はいったいどこにあるのでしょうか。ウェーバーは学問の意義を、学問的業績の意義と、学問の人間生活一般に対する意義に分けます。学問的業績の意義とは、すなわち「なんのために人間は学問の成果を積み重ねてきたのか」ということです。彼は次のように述べます。

「…学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。たとえこれとおなじ運命が他の文化領域内にも指摘されうるとしても、学問はこれらのすべてと違った仕方でこの運命に服従し、この運命に身を任せるのである。学問上の『達成』はつねに新しい『問題提出』を意味する。それは他の仕事によって『打ち破られ』、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。…(中略)…われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。」(pp.29-30)

ウェーバーは学問的業績の意義を、それが永久に追い越され続けることにあるといいます。なにか課題が解決されれば、また新たな問題が生まれ、それがまた解決されて…という永遠に続くスパイラルにこそ、学問的業績の意義は存在するのです。この過程を経ることで、人類はここまで発展し繁栄することができました。前の世代の人間が作り出したものを、絶えず批判し検討し改良してきたからこそ、今の私たちがあるということになります。この無限の工程は、人類が滅亡しない限り連綿と続いていく営みです。

人間には生という始まりと死という終わりが存在し、生まれては死に生まれては死に…というような永遠の円環運動を繰り返します。それに対して、学問はその業績が積み重ねられていく限り、真に直線的な活動であり、生命に義務付けられたサイクルにとらわれない、稀有なものであるといえます。

学問の人間生活一般に対する意義

次に、学問の人間生活一般に対する意義について見ていきたいと思います。学問の人間生活一般に対する意義とは、平たく言えば「学問はどういう役目をもっているのか」ということです。ウェーバーはロシアの作家トルストイの言葉を引用し、次のように述べています。

「…学問の職分とはいったいなにを意味するのであろうか。これにたいするもっとも簡潔な答えは、例のトルストイによって与えられている。かれはいう、『それは無意味な存在である。なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである』と。学問がこの点に答えないということ、これはそれ自身としては争う余地のない事実である。」(pp.42-43)

学問は、「究極的に」言えば、無意味なものであると彼は言っています。なぜなら、いくら学問を修めても、いかに生きなにをするべきかについては最終的な結論が出ないからです。現に、古代ギリシャから始まった哲学は未だにこれらの問いにたいして究極的かつ決定的な答えを提示することはできていません。おそらく永遠に私たちは完全な解答を示すことができないでしょう。

そうすると、学問はまったく無意味なもので一切の価値がないものなのでしょうか。ウェーバーは以下のように言います。

「問題となるのはただ、それがどのような意味で『なにごとも』答えないか、またこれに答えないかわりにそれが、正しい問い方をするものにたいしてはなにか別のことで貢献するのではないか、ということである」(p.43)

彼は、学問にまったく価値がないとは言っていません。学問が「なにごとも」答えないのは、学問がやる価値のない低俗なものだからではなく、論理的に考えてそれが不可能だからです。たとえば文学は「文学が存在するべきだということ」を自明の前提としており、文学自体が「文学は存在するべきか」を問うことはできません。さらに卑近な例で言うならば、スポーツは「人間はスポーツを行う」ということを前提にしており、スポーツ自体が「スポーツは存在するべきか」を問うことはできません。このように考えるならば、学問は「学問が存在するべきかどうか」を問うことはできず、それに特別な意義があるかどうかについては答えを提示することはないということになります。私たちは学問に意義があるかどうかを学問的に立証することはできず、学問に意義があることを自明の前提として受け入れなければならないのです。

以上見てきたように、学問に本当に意義があるかどうかは学問的には問うことができません。しかしながら、なにか別の点で、学問は普段の生活に貢献しうると彼は言います。どのような点で学問は人間生活に貢献することができるのでしょうか。ウェーバーは考えられるものとして次の3点を挙げ、それらを順番に検討していきます(いずれもp.61)。

「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識」を得ること。

「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」を得ること。

「明確さ」を得ること。

まず第一の点について、ウェーバーは「野菜売りの女のすることにすぎない」と一蹴します。学問がお金の代わりに役立つ知識を与えるだけの存在であるならば、それは代金をもらって野菜を渡す野菜売りと同じであり、そのような態度は、少なくとも自ら学ぼうとする者が取るべき態度ではありませんし、学問がただ知識を切り売りするだけの存在というのはどうも不自然な感じがします。

では、第二の点についてはどうでしょうか。彼は「野菜を手に入れるための手段にすぎない」としてこれも退けます。知識を野菜のようなものと考えるのであれば、物事の考え方やものを考える訓練はすなわち、野菜を作る方法であり、学問は単に知識の生産方法を教える存在であるということになります。これはまっとうな考えのように思われるかもしれませんが、学問の始まりを考えてみると、ソクラテスやプラトン、アリストテレスらは知識を生産するために哲学やその他の学問を始めたのではありませんでした。もともと学問は、ものごとの真理を解き明かすため(絶対的真理が存在するというのが彼らの考えでしたから)に始められたものでした。知識はその過程で生まれるいわば副産物であって、学問の目的ではありません。こう考えてみると、学問が知識を生産する方法を教える存在にすぎないというのはいささか不満が残ります。

こうして第一、第二の点が退けられたところで、ウェーバーは第三の点こそが学問の人間生活一般に対する意義であり、学問の限界であると指摘します。彼の言葉を借りれば、以下のようになります。

「これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度―それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる―から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導きだされるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導きだされないということがそれである。このことは比喩的にいえばこういうことである。もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。なぜなら、君たちが自己に忠実であるかぎり、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の結果に到達するからである。…(中略)…そして、われわれ〔大学教授など〕もまた、われわれの任務をわきまえているかぎり…(中略)…各人にたいしてかれ自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる。あるいはすくなくも各人にそれができるようにしてやることができる。」(pp.63-64、〔〕内は私の注です)

ウェーバーは、学問の人間生活一般に対する意義は、自分が支持する、あるいはもっている考えを明確に表明し、その考えを支持することについて、またはもつことについて、そして最終的には自分の行為について、自分で責任が取れるようになることである、と言うのです。言い換えれば、自分の考えをはっきりともち、学問で培った判断能力を用いて自分の立場や行為について批判的に検討し、自分がその立場を取ること、その考えをもつこと、自分がその行為をすることについて自分で全責任を負う覚悟ができるような人間を育成するというのが学問の人間生活一般に対する意義であるということです。これが、ウェーバーが主張した学問の役目、大学における学問の意味でした。

所感

上のように、マックス・ウェーバーの唱えた学問の意義を見てきました。しかしながら、考えてみると、世の中には大学を出ていてもメディアの情報に流されるのみで自分の考えをはっきりともたず、自分がなんらかの立場を取ることに対して責任をもてない人が大勢いるように思われます。こうした人が社会に大勢いるという現実は、もしかすると日本の高等教育の失敗を象徴しているのかもしれません。私たちにできることは、ただ自らを省みて、このような人たちのようにならないように心がけることでしょう。大学に入ってからいかに学問に真摯に取り組むかは各人の自由だと私は思いますが、自分の振る舞いに責任を取れるようになりたいものです。

今回はマックス・ウェーバー『職業としての学問』から、学問の意義、大学における学問の意味について見ました。この書籍には、他にも政治と学問の分離等、様々な主張が散りばめられています。安価でかつ1日あれば十分読める内容になっていますので、ぜひ手に取って読んでいただきたいと思います。また、マックス・ウェーバー『職業としての政治』もぜひ読んで下さい。


The roots of education are bitter, but the fruit is sweet. - Aristotle

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