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ぶれない生き方を体現するための一手『会津武士教育』に学ぶ義の教育観(後編)~日新館の教育と会津武士道とは?~ー『日本人のこころ』28ー

みなさん、こんにちは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


今日は、「海の日」ですね!

我が国は、6852個もの島を抱え、
海の広さも世界第6位!

海の深さも世界第4位で
世界三大漁場も有しています!

海が天然の要害にもなり、
いまも私たちの生活に密接にかかわっています。

そのような海の恩恵に感謝しながら、
今日一日を過ごしたいものですね。

さて、
いよいよ本テーマも終盤戦です!

今回は、
会津武士道の本質に迫る教育について考えていきたいと思います。

本日もよろしくお願いいたします。







1)初代藩主・保科正之公の教育理念




2代将軍・徳川秀忠の四男である
保科正之公が会津23万石の領主となったのは、
寛永20(1643)年です。

それまで、
会津の地は400年以上にわたって蘆名氏が治めてきましたが、
天正17(1589)年に伊達政宗に滅ぼされて以来、
蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏というように
領主が転々と交代しました。

保科正之公は、
家臣団の統率に徹底した分地主義にもとづく教化政策を導入しました。

保科正之公の教化政策を支えたのは、
山崎闇斎の朱子学と、吉川惟足の神道でした。
闇斎の朱子学の特質は、「身心相即」を前提に、
身を慎むことによって心を磨こうとするところにありました。

そのため、
厳しい道徳的な厳格主義を主唱しました。

闇斎は、
保科正之の家臣を通して、吉川惟足の浸透に接し、
のちに垂加神道と呼ばれる独自の神道を開きました。

保科正之公は、
山崎闇斎とともに『伊洛三子伝心録』や『玉山講義附録』など、
朱子学理解に必要なテキストを編纂するとともに、
『会津風土記』や領内の神社を調査した『会津神社誌』などを
編纂しました。

このように、
保科正之公の統治理念の根底には、
伝統的な日本の神道と中国から伝来した朱子学を合わせた
神儒合一の思想があったのです。



保科正之公は、
寛文8(1668)年に『家訓十五箇条』を制定しました。

その中でも特に有名なのが、
冒頭の


一.大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
(将軍家にはひたむきに忠義を尽くせ。たとえ自分の子孫でも徳川将軍に逆意を抱く藩主が現れたら従わなくともよい)


です。

ここに会津藩の武士教育の原点が述べられています。

その他の項目においても、
家臣には、「公平」や「公正」であることを求めています。

とりわけ、第12条に見られるように、
政事においては、道理を重んじ、
「私意」を排除して、徹底的に議論することが重要であると説いています。

政事の目的は、
民の生活を安定させることにこそあるのだと考えていました。

このように、
武士存在意味を自覚するために、
個々の武士には厳しい道徳的な自己規律を要求したのでした。

その後、
藩校日新館が創設されてからも、
毎年春秋2回に藩祖の遺訓として歴代藩主と家臣もこれを拝聴しました。




会津の藩校の歴史は、寛文4(1664)年の稽古堂にさかのぼります。

この頃、
保科正之公自身が山崎闇斎を賓師として迎えて儒学を学んでいます。

岡田如黙という九州肥前の国から会津にやってきた禅僧が邸宅を開放して「無為庵」と称し、
近隣子弟に教育を施していました。

これを聞いた正之公は、
土地にかかる税金を免除し、塾舎の修繕料を与え、
正之公の侍講であった横田俊益に命じて
規則を定め、「稽古堂」と称して、
家老職にあるものも参堂して講義を聴くようになりました。

稽古堂は武士も庶民も共に学びましたが、
延宝2(1674)年に武士専用の学問所を設置して、「講所(郭内講所)」と呼びました。

藩の学問の目的は、
「孝悌忠信」を中心として、
それを通して、「人品」
つまり人格と品性を養うことを明確にしました。



2)会津武士はどのように学んでいたのか?




会津藩の子供は6歳から勉強を始めます。

午前中は、近所の寺子屋で『論語』や『大学』などの素読を習い、

いったん家に戻り、

午後、1か所に集まって、組の仲間と遊んだそうです。

一人で遊ぶことは禁じられ、孤独な少年はいませんでした。

仲間は、十人一組を意味する「什」と呼ばれ、
年長者が什長に選ばれました。
年長者が複数の場合は、人柄や統率力で什長が選ばれました。
遊びの集会所は、什の家が交代で務めました。

一歳違いまでは、呼び捨て仲間と言って、
お互いに名前を呼び捨てにすることができました。





什には掟があり、全員が集まると、そろって8つの格言を唱和しました。



一.年長者のいうことを聞かなければなりませぬ。
一.年長者にお辞儀をしなければなりませぬ。
一.虚言をいうてはなりませぬ。
一.卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
一.弱いものをいじめてはなりませぬ。
一.戸外でものを食べてはなりませぬ。
一.戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。


そして、最後に


「ならぬことはならぬものです」


と唱和しました。

この意味は重大でした。

ダメなことはダメだという厳しい掟でした。

6歳の子供に教えるものだけに、どの項目も単純明快でした。

唱和が終わると、外に出て汗だくになって遊びました。

今の子供と特に変わりはなく、
かけっこ、鬼ごっこ、相撲、雪合戦、氷すべり、樽ころがし、
なんでもありました。

年少組のリーダである什長は、通常8歳の子供でした。

このようにして、
6歳から8歳までの子供が2年間、什で学びかつ遊ぶことで、
仲間意識が芽生え、年長者への配慮、
年下の子供に対する気配りも身についていったのです。




ケンカの強い子供、賢い子供、人を引き付ける子供、
さまざまなタイプの子供がいて、
それらの子供が混然と交わることで、お互いに競争心も芽生えました。

当然、
子供の間には、けんかや口論、掟を破ることも多々ありました。
その場合、罰則が課せられました。


⑴無念

「皆に無念を立てなさい」と什長がいうと、
子供が皆に向かって「無念でありました」と、お辞儀をして詫びました。


⑵しっぺ

これは手の甲と手の平のどちらかをびしっと叩く体罰です。
手の平の方が重かったのです。これも什長や年長者が決めました。


⑶絶交


もっとも重い罰で、
盗みや刀を持ち出すなどの武士としてあるまじき行為の場合に適用されました。
一度、適応されると、その子供の父か兄が組長のところに出かけ、
詫びをいれなければ、解除されませんでした。
これは、ひどく重罪で、子供の心を傷つけることもあり、
めったにありませんでした。
そのため、子供ではなく、最終的には大人が決めました。

罰則は、たとえ門閥の子供でも平等で、

家老の嫡男であっても、
少ない石高の次男、三男であっても権利は同じでした。


「ならぬことはならぬ」


という短い言葉は、身分や上下関係を超えた深い意味が存在しました。




会津藩の子供たちは、
このようにして秩序を学び、
服従、制裁など武士道の習練を積んでいきました。

教育の大切さがよくわかります。

それをいかに手間暇をかけ、大人たちが行っていたのかということです。

家庭教育と学校、そして地域社会が一体となって教育に当たりました

会津藩の格言の多くは、どれも現代に通じるものばかりです。

たばこのポイ捨て、ゴミの投棄、犯罪の多発、
このようなことの戒めを盛り込んだことを教育に取り入れることにより、
我が国の混乱や腐敗を救うことができるのはないでしょうか。

現在、会津若松市の教育委員会では、
遊びの什の一部を取り入れた『あいづっこ宣言』をつくり、
現代の道徳教育に活用しています。


3)日新館ではどのような教育が行われていたのか?




天明期以来、打ち続く大飢饉と百姓一揆に悩みながら、
諸藩では藩政改革が断行されました。

会津藩では、5代藩主松平容頌(かたのぶ)公が藩政改革の一環として、
人勢育成のための教育振興に着手しました。

寛政11(1799)年に藩校名を「日新館」と名付けて造営に取りかかり、
5年後の享和3(1803)年に完成しました。

日新館は、
荘厳な学校建築や規模だけではなく、給食や奨学金の制度も設けられ、
カリキュラムや等級制においても充実した内容を有した近世の代表的な藩校でした。

入学資格は、上士の武士の子弟に限られており、
それ以外は日新館の外の南・北の素読所や寺子屋に入学して学びました。

また、
家禄に応じて履修内容が定められ降り、禄高の高い藩士の子弟ほど高い学識を要求されました。

10歳または11歳になると日新館の素読所に入学します。

教科書は、『孝経』『大学』『論語』『孟子』『中庸』『小学』『詩経』『書経』など中国の書物でした。

一方方向の授業ではなく、小グループに分かれ、
教師が懇切丁寧に教えたので、修得は早かったと言われています。

12歳になると、書学寮や武学寮で書道や武術を本格的に学びました。

15歳になると、弓・馬・槍・刀・鉄砲の術を学びました。

神道や日本の歴史書や法律を学ぶ「神道方並皇学方和学所」

瀧本流や尊円流などの流派による書道を学ぶ「書学寮」

配膳や食膳および金銭の授受や太刀の受け渡しからはじまり、
武家の作法に
必要な礼法を習う「礼式方」

関流の数学や暦学などを含む天文学などを学ぶ「数学並天文方」

医家の子弟が医学にかんする学問を学ぶ「医学寮」

舞楽と音楽を学ぶ「雅楽方」

などが設置されており、さまざまな分野を学んでいました。




日新館で藩士の師弟(10~15歳)の教育に用いられた修身の教科書が、
『日新館童子訓』です。

5代藩主・松平容頌(かたのぶ)公が藩の儒学者、神学者の参画を得て、
上下2巻の本版本として刊行したのが文化元(1804)年で、その全体を通じての基調は「孝行の道」です。

具体的には、

父母、主君、目上の者に仕える心がけと作法が
五十余りにわたって書かれています。

なお、
序文は当時主君の誉れ高かった松平定信が書いていることが特筆されます。


・人は3つの体温によって人生を全うできるのである。われわれは、父母の恩によってこの世に生じ、社会の恩によって生活し、師の恩によって学び教えられるのである。

・その恩に報いるべき忠・孝・礼・義を知らなければ、外見は人であっても心は畜生と同じである。

・あらゆる災禍は慎みが薄いことに起こるのである。自分の言葉には責任を持ち、嘘偽りなく誠実であることを根本としなければならない。実行できないことを口でいうのも、人と約束したことを守らないのも不誠実である。

・高い志を持つ人は、自分がやりたくないことは人にやらせず、自分がして欲しい事を人にしてあげるものである。

・役目を選り好んで、われがちに望む者は一生かかっても大した仕事ができないものである。


一部取り上げましたが、
このような物事の本質を幼いころから学んでいたのです。




幕末になって、
会津藩は元治元(1864)年の蛤御門の変では、
御所を守り長州藩と戦いましたが、
その後は保科正之公が遺した家訓に従って徳川将軍を守る立場に徹底し、
官軍と戦う賊軍として明治維新を迎えました。

しかし、
会津武士としての誇りや会津魂は、
明治維新後も多くの人材を世に輩出し、
近代日本の形成に大きく貢献しました。

日新館の徹底した人格主義教育は、
学校における教育や学問の真の目的を明らかにしてくれるとともに、
「ならぬことはならぬものです」という教えは、
世間には理屈を超えて
「人として守らなければならないもの」があることを
教えてくれているのです。


冒頭でお話をしましたが、

「私たちの心に、『武士道』は残っているのでしょうか?」

次回は、この問いに迫っていきたいと思います。


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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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