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日本国が「目指したもの」8~わが国の『資源活用の未来』について考える~(中編)ー日本人のための『和の国・日本国』講座79ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


さて、

前回から


わが国の『資源活用の未来』について考える


のテーマでお話をさせていただいています。

前編の続きからお話をさせていただきますので、
ぜひ、前編をご覧になってから、見てくださいね!



今回は、
わが国の森林の歴史
わが国がおかれている状況についてお話をしていきたいと思います。

よろしくお願いいたします。







1)我が国は「森林」とどのようにかかわってきたのか?





日本人が森を使って暮らし始めたのは、縄文時代と言われています。

人々は火を燃やすために木を伐採し、
森で採れる山菜やキノコ、
あく抜きしたドングリやトチの実などを食料にしていました。

また、
クリやウルシを栽培して利用していたことが、
青森県の三内丸山遺跡から確認されています。

森林を刈り開いて火をつけ、
その焼け跡に作物の種を蒔く「焼き畑」も縄文時代に始まりました。

火入れ後には雑穀や野菜の種のみならず、樹木の苗も植えられていました。





弥生時代に入ると、
水田耕作の肥料としても森が使われるようになりました。

落ち葉や草木の若芽・若葉を刈り取り、
田の中に踏み込んで腐らせる「刈敷」がそれです。

『風土記』には、
松脂、榧子(かやのみ)など様々な草木が
薬用に使われていたことが記されており、
人々の知恵による森活用の幅が広がって来たことがわかります。

その一方で、
建築用の木材需要増加や水田開拓のために森林乱伐が進みました。

『日本書紀』によると、
天武天皇が、飛鳥川上流の畿内の草木採取と畿内山野の伐木を
禁止する勅を発令(676年)。

これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされています。

平城京、平安京の建設、寺社仏閣の建築ブームなども相まって、
800年代までには畿内の森林の相当部分が失われ、
600年〜850年は日本の森林が荒廃した第一期とも言われています。

同じ頃、マツの木が定着して来たという記述があります。
古代から窯業がさかんだった大阪市の泉北丘陵で見つかった木炭の調査に
よると、
窯に使われた木炭は、
それ以前がカシなど広葉樹で占められていたのに対し、
6世紀後半からアカマツが増え始め、
7世紀後半になるとほとんど全部がアカマツになったそうです。
これは、
周辺の照葉樹林が荒廃して次第にマツ林に代わったと考えられます。




室町時代には、
天竜の犬居町秋葉神社でのスギ、ヒノキの植林、
奈良県吉野川上郡でスギの植林が開始されました。

このあたりが本格的な人工造林の最も古い記録とされています。
また、
1550年頃から山林の荒廃・洪水の害を防止するために植林が奨励され、

安土桃山時代には、
武蔵国高麗郡で数万本の苗を植え、
かつ数十町歩の原野を切り開いて木を増殖した史実もあります。

このような植林推進の一方で、
戦乱後の復興や安土桃山文化の絢爛たる建築物の建造などに
森林資源が使い尽くされました。

江戸時代に入っても森林破壊は留まることなく、
1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で
伐採出来るものの大半は消失したとされています。

森林資源の過剰利用により、
日本列島の各地に「禿げ山」が生じ、
木材供給の逼迫のみならず河川氾濫や台風被害などの
災厄をもたらしました。




禿げ山は度重なる洪水の原因ともなり、
江戸時代になると幕府と諸藩は河川の付け替えなどの
治水事業と森林の保全に乗り出しました。

森林の保全は、
禁伐林などを指定する保護林政策と伐採禁止、
植栽、土砂留工事などを組み合わせて行われ、
とりわけ保護林政策が厳しくなって行きました。

江戸時代の森林は、
藩有林、村持山、社寺・豪族などの私有林に大別され、
原則、森林の管理は藩に任されていました。

江戸幕府は代官所に村々での植樹・造林を命じ、
また、1661年、幕府と諸藩は林産資源保続のため
「御林」(下草から枯れ枝まで採集を禁じた直轄林)を設けました。

一方、17世紀後半以降、
海岸を有する多くの藩でいっせいに「海岸林」の造成が行われました。

その理由は、
江戸時代初頭の急激な国土開発による山地・森林荒廃の影響として、
海岸で飛砂害が激化したことへの対策。

河川上流の森林が劣化したことにより、
流出した大量の土砂が沿岸流によって各地の砂浜海岸に到達し、
それによって飛砂が発生したとされています。

江戸幕府の厳しい伐採・流通規制、
森林再生促進など森林保護政策の結果として、日本列島の森林資源は回復に転じました。

荒廃した日本の森がなんとか 破滅せずに存続したのは、
雨の多い湿潤な気候、人が立ち入れない急峻な奥山や聖域としての森
(鎮守の杜など)があったなどの理由もありますが、
江戸幕府による積極的な植林事業に負うところが大きいようです。

人口100万人の江戸の街には、
武家屋敷の周囲を囲む屋敷林、寺社が所有する森が広がり、
江戸市域全体の緑被地率は42.9%と世界でもまれに見る
緑豊かな都市だったとされています。




天下泰平の時代が終わり明治維新を迎えると、
政治的混乱の中、至るところで官林の盗伐や民林の乱伐が行われ、
再び里山の森林が荒廃へ向かいました。

また、
近代産業の発展により燃料としての薪炭、
開発にともなう建築材などの需要は増える一方。

森林の伐採は進み、
明治中期は日本で過去もっとも山地・森林が荒廃していたとの
推定もあるほどです。

このような状況下で明治政府は、
1897年、保安林制度と営林監督制度を二本柱とする「森林法」を制定。

禿げ山に対する山腹工事、植栽も各地で展開され、
こうした治山事業を柱とする国土保全、
また、増大する木材需要への対応として林業強化政策が進められました。

その後、
社会の安定とともに山林保護規制が課せられ、
国や民間による造林も盛んに行われるようになりました。

1929年には造林推奨規則が公布され、
初めて私有林まで補助対象を拡大するといった動きもありました。




ところが、
1941年に太平洋戦争が始まると、大量の木材や木炭が必要となり、
平地林は造船・建築・杭木・薪炭用材としてことごとく伐採され、
奥山 の国有林からも軍需造船用材その他に用材として多くの大木が
伐られました。

最終的には、
風致林、社寺林、防風林、そして幼齢林まで伐採。
全国各地の山が禿げ山と化したそうです。

終戦後、
全国各地でそれまでなかったような大水害が発生し、
これらを阻止すべく荒廃林地への植林が国家再建の重要課題になります。

そして、
1950年、緑化運動推進母体として「国土緑化推進委員会」結成。
森林資源を造成し、国土の保全と水源かん養を図り、
生活環境の緑化が推進されました。



昭和20年〜30年代には戦後の復興等のため木材需要が急増し、
政府は、
広葉樹からなる天然林の伐採跡地などを針葉樹中心の人工林に
置き換える「拡大造林政策」を実施。

伐採跡地への造林のみならず、
里山の雑木林や奥山の急峻な天然林までが伐採され、
代わりにスギやヒノキなど成長が早い針葉樹の人工林に
置き換えられました。

当時は、建築用材となるスギやヒノキの経済価値は高く、
需要増加に伴い価格は急騰し、一大造林ブームとなりました。

ところが、
その後外国産の木材輸入が自由化され、
価格の高い国産材よりも外材の需要が高くなりました。
と同時に、家庭用燃料が薪炭から化石燃料へと置き換わり、
日本の森林資源は、建材としても燃料としても価値を失い、林業は衰退。

利用されずに放置された人工林は、
必要な間伐などの手入れが行われないために森としての健全性が失われ、
荒廃してしまいました。


【出典:日本の森の歴史:2.日本人と森:森学ベーシック|私の森.jp 〜森と暮らしと心をつなぐ〜 (watashinomori.jp)



2)日本社会が忘れたもの~人と人との和~





物質的には現代日本の方が幕末よりもはるかに豊かな暮らしをしています。
しかし、
現代日本は、幕末よりもはるかに失ってしまったものが2つあります。

まず一つが、「共同体の和」です。

「共同体の和」とは、家族や地域に包まれた暮らしです。

幼児からお年寄りまで家族と地域に包まれ、
その中で支え合って暮らしていく。
そのような人々の和が、幕末までの日本文明にはありました。

現代の若者が明日の収入にも不安を抱き、
結婚もできずに寂しくワンルームマンションに住み、
一人でコンビニ弁当を食べ、
職場では仲間との付き合いも希薄で、
短期目標のストレスばかり受けている。
そういう暮らしには共同体がありません。

家庭を持っていても、
職場は遠く離れ、
家族は互いにどんな職場で働いているのかも知りません。

一日の大部分を通勤と職場で過ごすため、
住んでいる地域の人々とも疎遠になっていきます。

進化人類学は、
人間は群れの中で暮らしてきた生物として
進化してきたことを示しています。

群れの中で和を維持して生きていくために、
人間は他者への思いやりを本能として発達させました。

人間が生きがいを持って幸福に暮らすには、
共同体の中で支え合って生きていくことが不可欠なのです。



3)日本社会が忘れたもの~自然との和~





もう一つが、「自然との和」です。

自然は、
時には暴風雨や洪水など自然災害となって
私たちの命を奪うかもしれません。

それでも、
家族と地域の共同体は、自然の中で生かされ、
自然に感謝し、自然をおそれ敬って生きています。

この「自然との和」も西洋化した近代物質文明によって
疎遠になってしまいました。

密閉されたマンションや会社の中で、
エアコンで一定温度が保たれ、通り雨にも気づきません。

スーパーに行けば、季節に関わりなく、
南半球から運ばれた、またはハウス栽培で作られた果物がいつでも買うことができます。
かつての日本文明でのエネルギー源は、近くの里山からとってきた薪でしたが、
グローバル化によって中東から運ばれる石油に代わりました。
朝食も近郊でとれる旬の野菜や魚はほとんどなくなり、
外国から輸入した小麦で焼いたパンになっています。

もともと人間は、大自然の一部として進化してきた生物なので、
これだけ自然と断絶されると、精神的なストレスにさいなまれます。

それを和らげるために、インテリア植物を飾りますが、それは西洋の自然観に基づいた人が管理する自然のミニチュアなのです。

西洋の植民地化に対応するために、西洋文明を取り入れたことが、
150年以上の時間をかけて私たちを苦しめているのです。



4)世界のグローバル化のトップを走る日本社会の問題




こうして我が国は、明治の「文明開化」以来、
近代物質文明による国づくりに邁進して、
一時は世界第二位の経済大国を築き上げました。

しかし、
近代物質文明が進むほど、
新たに得られる経済的なメリットは次第に小さくなり、
共同体の崩壊や自然との断絶という課題が大きくなっています。

すでに、
我が国はグローバル化と都市化という面では、
世界の最先進国になっています。





例えば、「都市化」に対して、
『主要都市人口が全人口に占める割合』を見ると、


東京圏が28.8%に対し、
パリは18.2%
ロンドンは13.4%
ニューヨークは7.4%
ベルリンは4.3%となっています。


日本に比べれば相当程度の人口がまだ地方の中小都市に分散し、
そのため通勤時間もはるかに短く、
それだけ家族や地域の共同体の中で過ごす時間も長くとることができます。





グローバル化の面でも我が国は独走状態です。

例えば、
「エネルギー自給率」

2017年のエネルギー自給率はわずか9.6%と
OECD加盟国36カ国中34位となっています。




このように、
経済全体の停滞も、
都市化やグローバル化の行き過ぎが一因になっていると考えます。

「都市化」が進みすぎると、
住宅費や生活費が過重となり、通勤に時間を取られるので、
新たな文化や事業を生み出すべき若者の生活に余裕がなくなります。

「グローバル化」によって農林水産業への打撃を受け続けた地方も疲弊し、
独自の文化も生み出すことが難しくなります。




人々の「和」
人と自然との「和」

そのような人間と自然が和して支え合う姿が、持続可能性を回復して、
美しい日本を次世代に受け継ぐためには欠かすことができません。



では、
具体的に、我が国の「林業」はどのような状況になっているのでしょうか?

次回に、詳しく見ていきましょう。


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自分や自分の家族の幸せだけを願っていた僕が、この日本国に生まれ、日本人として生きることができ、本当に幸せだな。誇りに思うことができるようになりました。


だから、あなたにも知ってほしいのです。


私たちが生まれた日本国が本当に目指していたものを。日本国が本当に素敵な国だということを。


そして、今日まで、私たちが豊かな暮らしを営むことができるこのすてきな国が続いているのは、日本国を、私たちを命がけで守ってくださった先人たちのおかげであるということを。


先人たちが大切にしてきた精神性。

僕たちの心の中に眠っている精神性。

『和の精神』を呼び覚まし、再び日本を皆がよろこびあふれる豊かな国にしたい。

自分を、自分の国を堂々と語り、誇りに思ってほしい。

子どもたちが希望を感じ、いきいきと輝くことができる国にしたい。


それが今、我が国に生きる僕たち大人の役割だと思うのです。


一緒に、日本を学びませんか?


最後まで、お読みいただきありがとうございました。








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