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考える力を高めるための一手『郷中教育』に学ぶ仁の教育観(後編)~「郷中教育」に学ぶ考える力を高める教育とは?~ー『日本人のこころ』16ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
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私事ですが、
4月に「高田城址公園観桜会」に参加してきました!
高田城址公園の桜は、上野、弘前と並んで
「日本三大夜桜」に数えられるほど有名なのです!
新潟県でもインバウンドが進み、
外国の方がかなりたくさんお見えになっていました。
やはり、我が国を代表する桜は美しいなあと
日本国に生まれてきて本当によかったなあとしみじみと感じました。
お花見という文化にも
我が国の先人たちが大切にしてきた知恵があるのですが、
興味がある方は、ぜひ、
をご覧ください!
さて、
今回は、「郷中教育」の内実について詳しく考えていきましょう!
最後までお付き合いいただけると嬉しく思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1712578915163-IHsxUGbhlO.jpg?width=800)
具体的に「郷中行育」はどのようなことを大切にしていたのでしょうか?
今回は、
「郷中教育」について詳しく見ていきましょう。
1)薩摩藩の教育の根底にある「人こそ国の宝」という考え
![](https://assets.st-note.com/img/1712578965963-lOkTcBZcFd.jpg?width=800)
薩摩藩で「日新いろは歌」と並んで大切にされたのは、
「誠を尽くす(3つの戒め)」ことです。
⑴「負けるな」
鹿児島出身の60台以上の男性ならば、
「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」(迷わずすぐに飛べ)
を今でもそらんじている人が多くいます。
勇敢に立ち向かって結果を出すことが人望を高めることになる
という教えです。
⑵「嘘をつくな」
嘘をつき人を欺けば、人望を失うという戒めです。
⑶「弱い者いじめをするな」
卑怯なことをするなと戒め、人望を失う言動を示しています。
![](https://assets.st-note.com/img/1712579061872-DqZOd0yxCV.jpg?width=800)
11代薩摩藩主の島津斉彬公は、
異世代間を交えた実践教育である「郷中教育」の利点を
重視して各地に郷校を整備しています。
郷中は、
区域ごとの縦割りの組織であったため、それぞれの掟がありました。
郷中同士はライバルのようなもので、
同じ郷中の親睦が重視されて他の郷中との交流を禁じました。
文武を奨励して、原則として藩の方針に従い、
婦女子との交際やいじめは厳禁とされていました。
郷中教育は、「ダメ出し教育」ではなく、
プラス発想が徹底されていたことが特徴です。
薩摩では、
男の子ができれば城に招き、殿様が祝いの言葉を述べたというくらい、
人を大切にする方針が藩内に浸透していました。
「人は宝」だからしっかりと育て、
よい世の中をつくのだという世界観が表れています。
2)「郷中教育」の実際とは?
![](https://assets.st-note.com/img/1712579121205-y7JhSsCoki.jpg?width=800)
郷中では、
青少年を「稚児(現在の小中学生)」と「二才にせ(高校1年生から25歳の青年まで)」に分けます。
・小稚児―6歳から10歳
・長稚児―11歳から15歳
・二才 ―15歳以上の元服後の青少年
その上で具体的な教育方法である
「武道修練」
「忠孝実践(島津日新斎『いろは歌』暗唱・薩摩義士伝輪読会など)」
「山坂達者(野遊びによる体力養成)」
「僉議(想定問答)」
などを通じて先輩である二才が後輩である稚児を指導することによって
強い身体力と不屈の精神力を兼ね備えることを目指します。
薩摩武士の能力として最も大切とされていた
「判断力」「発想力」「実践力」を持つ人材を育てようとする教育方法です。
薩摩武士の子供たちは、
四六時中、同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら心身を鍛え、
礼儀、武芸を身につけ、勉学にいそしんでいました。
![](https://assets.st-note.com/img/1712579233537-qxieK5mfEz.jpg?width=800)
早朝6時ごろから正午まで、
稚児らは自ら先生(二才)を選び、儒学書道などを学びます。
午後は4時ごろから
薬丸自顕流の武道稽古を夜の6時から8時頃まで行います。
剣術稽古は極めて単純で、
立木をひたすら打ち続けます。
立ち会いの特徴は先手必勝、
最初の一太刀ですべてを決します。
それを外されたら死ぬまでだという潔さが薩摩武士の誇りでもありました。
幕末に薩摩藩士と対峙した新選組の近藤勇は、
「薩摩藩士を相手にするときは、一の太刀をはずせ」と
配下の武士に徹底させていたと言います。
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大久保利通が19歳の時(1848年)6月28日の日記には、
夜を徹して仲間たちと切磋琢磨した様子が書かれています。
東郷平八郎の父の家で鎌倉時代の曽我兄弟かたき討ちをしのび、
法話を聴き、相撲を見て、謳会を催し、薩摩琵琶や天吹(竹笛の一種)などを演奏しています。
学びの後は車座になり、気づきを発表しあっていたそうです。
日記には、
「僉議段々これあり」と想定問答に熱中した様子がうかがわれています。
話す力、聞く力を高め、
リーダーに不可欠な発信力を高めていったのです。
このような異学年交流を通して、
「年長者は年少者を指導すること」
「年少者は年長者に敬意を払うこと」
「負けるな、嘘をつくな、弱い者いじめをするな」
などの人として生きていくうえで最も大切なことを「薩摩の教え」として学んでいきました。
ボーイスカウトの創設者であるロバート・ベーデン=パウエルは、
薩摩の郷中教育を基にして組織つくりをしたと証言し、
「薩英戦争における勇敢な薩摩青年らがどのように育成されたかったのかを知りたかった」と言っているほどでした。
3)郷中教育の魅力①教わる立場から教える立場への転換
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郷中教育は各地に点在した「寺子屋」のように
決まった教室があったわけではなく、専属の師がいたわけもありません。
教室に当たる学び舎は郷中の各家が交代で部屋をあてがい、
年長者が交代で授業を受けもちました。
誰しもが「教わる立場から教える立場へと」変わっていきます。
「教えながら学ぶ」実践の場としても、
年少者、年長者ともに大いに鍛えられる学びの場とすることができます。
子供たちは自分が教わった経験を基に、
教える立場になったらどう教えようかと工夫しながら自らも成長していくのです。
4)郷中教育の魅力②常識を疑う習慣
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郷中教育では、「常識」を否定するところから始まります。
薩摩には、「義を言うな」という有名な言葉がありますが、
「文句を言うな」「口ごたえをするな」という意味ではなく、
いったん決まったら素直に従おうという潔さを説く考え方を意味しています。
先輩たちが相手であっても、
結論が出るまではとことん意見を言いなさいと説いているのです。
明治維新の立役者として知られる西郷隆盛は、
島津久光が公武合体を図るべく上洛しようとしたとき、
「地五郎(礼儀知らず)だ」として計画を止めようとします。
激怒した久光から沖永良部島に流刑にされてしまいますが、
命懸けで言い切るのがリーダーの資質というものです。
西郷が反対した大きな理由が、久光には官位がないことでした。
西郷隆盛が島津久光にこのように対応したのは、
西郷が大変尊敬していた島津斉彬公が西郷に対して、
「藩主(トップ)の責任とは、家臣(部下)に道筋を示し、使命を自覚させることだ」という言葉を
大切にしていたからでした。
当時の情勢としては徳川幕府との対峙の仕方に藩の存続がかかっていました。
幕府から押し付けられる無理難題に対しても、
現代のビジネス界の最先端戦術論に匹敵する「僉議」を駆使し、
しのいで藩を守ってきました。
郷中教育では、絶対的な師匠をおかないため、
自ら最適解を選択することに迫られます。
だからこそ、思考力が鍛えられるのです。
5)郷中教育の魅力③状況を判断し、最適解を模索する学び
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郷中教育のリーダー人材育成で最も有効なのは、「僉議」です。
「僉議」は、相手の出方を想定して、
次の展開での最適解を求める学習です。
どれが正解だとか間違いだとかいうことは教えません。
敵と対峙した時、こちらの出方によって相手も対応を変えてきます。
すると、
こちらも相手の出方によって選択を変えていかなければなりません。
前もって相手を研究して、どのような考え方なのか。
過去にはどのような選択をしているのかも踏み込んで考え、
その上で対応策を考えていきます。
「僉議」での最適解は、
「勝つこと」ではなく、「負けないこと(家を守ること)」です。
負けなければ、引き分けでもいいのです。
負けさえしなければ、みじめな姿をさらしてもいいのです。
ケーススタディを繰り返すことによって、
後継者としての発想力、思考力が鍛えられ、
最善の結果の出し方をトレーニングしていたのです。
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「僉議」を理解するうえで、
「囚人のジレンマ」という考え方が役立ちます。
「囚人のジレンマ」とは、
当事者それぞれが最大利益の大きい選択肢を選んだ時、
協力した場合よりも悪い結果を招いてしまうケースを指します。
この例では、AとBという犯罪容疑者が登場します。
2人はある犯罪に関連した別件容疑で警察に逮捕されました。
罪を犯した可能性は高いのですが、
決定的な証拠がないため、2人は別々の部屋で尋問されています。
検事が2人の容疑者(AとB)に司法取引を提示します。
Aの立場で考えると、次のような選択があります。
①Aだけが自白 → Aは無罪放免
②両社黙秘 → 両者ともに懲役5年
③両社自白 → 両者ともに懲役10年
④Bだけが自白 → Aは懲役20年
AとBの選択肢は「自白するか」「自白しないか」の2つです。
2人とも自白した場合にはともに懲役10年。
2人とも自白しなければ、ともに懲役5年が予想されます。
また、一方が自白して他方が自白しなかった場合には、
自白したほうが司法取引の結果無罪となりますが、
自白しなかった方は懲役20年となります。
Aにしてみれば、自白すればもっとも罪が軽くなるのですが、
これはBにとっても同じです。
しかし、両者ともに自白してしまうと無罪にはなりません。
AとBの間において協力の約束ができていたとしても、
個別の立場では利益が少ない戦略を選ばざるを得ないため、
常に裏切りの動機を内包しています。
現実の社会では、
このような「囚人のジレンマ」はいやおうなしに起こり得ることです。
最善の結果が出ない限り、人望を失ってしまいます。
だからこそ、
リーダー人材の決断には慎重さ、丁寧さが求められるのです。
薩摩武士は、幼いころからこのような学習を行っていました。
だからこそ、考える力が身に付いていったのです。
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「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。
向こうから一艘の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の仇だった。
どうするか?」
「親の仇と主君の仇、どちらを先に探しに行くべきか?」
「早馬でも間に合わない急用を命じられたらどうするか?」
「道で侮辱されたら、どうするか?」
膨大なケーススタディが用意されていて、
それを毎日のように問答するのです。
子どもたちは思考力、判断力が鍛えられます。
「もしAならば、Bという結果を導くにはどうするか」と考えること。
このような時間・空間ともに起きてもいない可能性を想像する力、
「反実仮想力」を鍛える学習を続けていたからこそ、
薩摩武士は一人一人が強かったのです。
一人一人が
「この状況になったら自分ならどのような選択をするのか?」を
我が事として考える習慣。
今の学校教育の場でも取り入れたい学びです。
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
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「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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