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個を生かす教育を実現するための一手『松下村塾』に学ぶ和の教育観(後編)~松下村塾ではどのような教育が行われていたのか?~ー『日本人のこころ』8ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。




先日、
沖縄県の尖閣諸島沖の日本の排他的経済水域(EEZ)内で、
中国のブイが漂流しているのを海上保安庁の巡視船が見つけました。

ブイは数日後に見当たらなくなりました。
政府は、海中に沈んだとみている。
中国外務省は「長江の河口付近に設置していたブイが故障し、漂流した」
と説明しました。

明らかに中国が尖閣への侵犯を進めようとすることの
表われです。

我が国の外務省は、
ブイの撤去が国連海洋法条約に違反していないかと
弱腰になっています。

明らかに中国の方が条約違反を犯しているのに
やはり力の失った国はもろいものだなと
危機感を強めました。

我が国の国土と領土を守るのは、
国家議員の存在意義であり、
我が国の国益にかなう働きをすることこそ
官僚の存在意義だと思います。

やはり、
国家観をもち、
我が国を守り抜こうとする人材の育成が急務です。

さて、
個を生かす教育の提案もいよいよ後編です。

我が国を支えた教育の実態に迫っていきます。

最後までお付き合いいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。








前回までは、
江戸時代の「寺子屋教育」に主眼をおいてお話をしてきました。

先人の教育から私たちはまだまだ多くのことを学び取る必要がありますが、
あの明治時代を支えた我が国の伝統的な教育のかたちは幕末の「私塾」にも表れています。

今回は、
我が国の「私塾」での教育のかたちについて考えていきたいと思います。



1)明治日本の躍進を支えた『松下村塾』とは?




江戸時代末期、
長州藩(山口県)萩城下の松本村に
ポツンと身を構えた木造平屋建ての私塾がありました。


松下村塾


です。




松下村塾の指導者は、吉田松陰先生。

当時25歳。

激動し始めた国内にあって世界の情勢を自らの眼で見る必要がある、

としてアメリカに渡ろうと企てました。

しかし、
失敗し、獄に入った先生は、
それまでの全国行脚や学問によって得た知識をもとに、
当時の国際情勢について話をする機会が増えていきました。

この頃から、
先生が一方的に話をするのではなく、
囚人との問答のかたちで話を進めていました。

自分が語るだけではなく、
囚人のうち、俳諧や所に通じる人物に
「句会」や「書道」の勉強会を開くことを提案しました。

先生の出獄までの一年余りの間に読んだ本は、
500冊を超えています。出獄後も3年で約1500冊を読んでいます。

そして、
出獄した安政2年2月。

家族や親せきに講義をしようとしたことをきっかけに
単なる言葉や内容の説明にとどまらず、
自らの意見を加えながらの講義は、面白く、ためになる。
と好評で、その評判は、松本村へと広がっていきます。

塾生は知識や教養を得て帰郷し、
それぞれの職業を通して、地域を活性化させる。

そのうえでおのおのが天下国家に熱い思いを持つ人材になることで、
国を正しい方向に導いていく。


このようにして、
松下村塾での学びが始まったのです。




吉田松陰先生が松下村塾を主宰したのは、
わずか1年半。

その間に学んだ門弟が明治期における我が国の礎をつくっていくのです。


松下村塾では、


人間として、日本人としてのすばらしさを学び、
自分の存在価値を自覚し、
自分の目指す人間像を確立し、誇りをもって社会に貢献する人間


を育てていきます。

そのために、

何より大切にしたことは、
「個性尊重の教育」
「心通わせ、ともに励まし合う教育」
の実践です。



2)『松下村塾』で行われた個を生かす教育とは?




松陰先生の教育は、
立志を核にした個性身長の実践教育が基本となりました。

松陰先生は、
個人観察に優れ、一人一人の個性を見抜き、
その個性を伸ばす個人尊重の教育を主眼としていました。

授業では、会読・対読が中心で、
討論会や野外活動などを通じて、
対話や意見交換を重んじました。

また、
各人に対し送る言葉や書簡、名字説を与えることで、
自覚を高めていきました。


このように松下村塾では、
それぞれの個性を重んじながら対話と意見交換の機会を多くし、
実践力重視の教育を行っていきました。




また、
松下村塾は、
身分の上下や学問の深浅は問わず、
学びたい人は誰でも共に学べる場所でした。

松陰先生は、本はもとより、
米をつくことや畑仕事、武技も同じように精進せよと説きました。

時には、塾舎から外に出て兵学演習を行うこともありました。
その時には、
長幼を交えた班をつくり、
助け合いながら時間を決めて目的地を目指すようにしました。

それを通して、
誰かが病気や困難に苦しむときや労役を要する場合も、
互いに助け合うことを学ばせたのです。

こうして松下村塾では、
松陰先生が一方的に教えるのではなく、
松陰先生と塾生同士が、互いに親しみ助け合う心の通う教育
目指したのです。




松下村塾の学びの特徴は、主に6つです。

まずは、

①完全個別学習です。


松下村塾では、各々の学力と関心に応じて学習分野と教科書を選びました。
能力、関心に応じた一人一人異なる学習指導を行ったのです。


次に、

②自主性の尊重です。


塾生の一人一人が持っている才能を自分自身で発見し、
刺激、展開させ実践にまで駆りたてました。
講義の始まる時間も特に決まっておらず、
塾生が塾に来ると始められました。


次に、

③先入観を捨てた指導です。


松下村塾では、身分、年齢、経歴などの夜先入観には一切とらわれず、
これを認め、各々の長所を見つけて引き出して、
やる気を奮い立たせるように努めました。

また、
「教師と生徒」という立場を超えて、
「共に学ぶ同志」として塾生と接しました。




④インプット学習です。


書物に書かれている内容を理解する能力を高めるために、
何よりも熟読を大切にしました。

問題を解く前に、
要点やポイントを読み取り、
内容を理解する力を育むことに力を入れました。


⑤アウトプット学習です。


四を読むときはその精力の半分を筆記
(漢字やことを抜き書き)することに費やすべきで、
読書をしながら盛んに筆記をすることを通して、
内容を深く理解するように努めました。


⑥情報教育です。


松下村塾には、『飛耳長目』と記された帳面があり、
松陰先生が見聞きしたことや遊学中の塾生や友人から送られてくる
様々な情報を記録し、情報を何よりも大切にしました。




この6つを大切を軸にして、様々な学習方法がとられていました。



⑴講釈:松陰先生の講義

⑵会読:「大学会」「孟子会」のように教科書の内容によってグループごとに分かれて読み合いました。

⑶順読:「輪読」ともいい、塾生が講義をして、質問に答える演習形式の学びです。

⑷討論:さまざまな内容を主題にして、お互いの意見をぶつけ合わせました。

⑸対読:松陰先生と塾生、読書力のある先輩と弟子が机を隔てて一対一で向かい合って読み合う個人教授です。

⑹看書:自習のことです。

⑺対策:塾に課題を与えて答案を書かせ、松陰先生が批評し、添削しまし
た。

⑻私業:任意の読書で、読了後にみんなの前で書簡を述べて批評を受けるものです。




松陰先生は、
塾生と接するときに3つのことを大切にしていたとされています。

一つ目が、
「徹底的にほめる」というものです。

ほめるときは、オーバーな表現を使って讃えました。
その結果、
塾生たちは、本人たちすら気づいていない潜在能力を引き出され、
様々な分野で優れた功績を残す人物へと成長しました。

二つ目が、
「学ぶ姿を見せる」というものです。

松陰先生は、
「勉強しなさい」というよりも勉強している姿を自らが見せることを
していきました。
自分の人生を一生懸命に生きているからこそ、輝いて見える。
自らの学ぶ姿勢から塾生を鼓舞したのです。

三つ目が、
「心から信じて励ます」というものです。

最初からうまくいくことは少ないです。
だからこそ、うまくいかなかったときにどう出直すか、
どのように挑戦するのか。
それを教えることが教育の大切な部分です。
教育とは励ますことである。

松陰先生は失敗に負けないチャレンジ精神を
心から信じて励ますことで実現させようとしたのです。



3)吉田松陰先生に学ぶ教育者としての在り方




松下村塾は、
学校としての規模や教育システムにおいても
同時代の私塾と比べてとりたてて特異なものはありませんでした。

それにもかかわらず、
松下村塾が今日においても、
理想的な教育を実現した近世を代表する私塾
というように取り上げられるのは、
教育者としての松陰先生の個性と生きざまに
よるところが大きいと考えます。

教育は知識だけを伝えても意味がない。

教える者の生き方が、
学ぶ者を感化してはじめてその成果が得られる。

だからこそ、

松陰先生は、


「いかに生きるかという志さえ立てることができれば、
人生そのものが学問に変わり、

あとは生徒が勝手に学んでくれる」


と信じていました。

一人一人を弟子としてではなく、友人として接し、
お互いの目標について同じ目線で真剣に語り合い、
入塾を希望する少年には、
「教えるというようなことはできませんが、ともに学びましょう!」
と話したと言います。


一人でいれば、読書をして自分と向き合う。
仲間といれば、議論をぶつけて志を語り合う。


常に全体を見渡し、
個としての自分はどう動くべきかを見定めながら、
たとえ旅の途中であろうとも、
牢獄に入れられようとも、
死を目前にしようとも、
松陰先生は自分が信じる生き方を最期まで突き通したのです。



先人たちから日本国のバトンを受け継いだ私たちが
松陰先生の生きざま、教育観から
学ぶべきことはどのようなことなのでしょうか?


完結編では、
吉田松陰先生の教育観から学んでいきたいと思います。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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