【映画評】「シンドラーのリスト」(1993) しょせん善人、たかが善行

「シンドラーのリスト」(スティーヴン・スピルバーグ、1993)

評価:☆☆★★★

 「シン・ゴジラ」
 「シン・ウルトラマン」
 「シン・仮面ライダー」
に先立つ「シン」シリーズの原点が、「シン・ドラーのリスト」である。原作「ドラーのリスト」を知らなくても大丈夫、ストーリーはものすごくシンプルだ。
 一言で言えば、善人が良いことをする話である。
 特に後半、これでもかというくらい主人公オスカー・シンドラーが「良いこと」をやってやってやりまくる。どうせまた何か「良いこと」をやるんだろうな――と思いながら観ていたらやっぱりそうなる、という展開の繰り返し以外は、おまけみたいなものである。
 内実としては、ナチスの極悪非道さを教育するためのプロパガンダ映画である。なんのことはない、シン(親)・イスラエルだ。
 なんとかして、ただの英雄譚ではない「重厚な社会派映画」として作品を完成させられないものか、スピルバーグ監督自身、苦心していた形跡は随所にある。映画をモノクロで撮ったのも、きっと苦肉の策の一つである。だって、その方が「重厚な社会派」っぽいじゃん。ついでに少女のコートだけ赤く色付けして、黒澤にもオマージュだぜ!
 しかし、どれだけ「名作映画」っぽさを上手に寄せ集めたところで、結局、最後には、すべての要素が、「シンドラーの善行」と「ナチスの悪行」という単純な構図へと回収されていくのだから、物語の奥深さなんて望むべくもない。
 利潤を追求する実業家シンドラーが、いつの間にか「正義の人」と化していく歴史の皮肉。そして、凡人だったかもしれない収容所の所長アーモン・ゲートが、凶悪な殺人鬼へと変身していく戦争の悲惨。――そんな、単純な「善」にも単純な「悪」にも分類できない複雑なキャラクターたちの織りなすドラマを、スピルバーグは本当は描きたかったのだろう。それを描ききらない限り、単なる娯楽やプロパガンダではない「名作映画」は成立しないからだ。
 しかし、この映画は、シンドラーやゲートが「複雑な人物」なのだということを描くために、単純なエピソードを単発的に提示することしかしない。
 例えば前半、シンドラーが、右腕のユダヤ人会計士イザック・シュターンを貨車から救い出す場面。主人公が、特権に物を言わせ、兵士に手伝わせてユダヤ人を救出するという、観客にとって紛れもなく爽快な場面である。だが、これだけでは、シンドラーがあまりにも単純な善人に見えてしまう。
 いかん!
 慌てて、自分はそんなに単純ではないのだ、「複雑な人物」なのだと言い訳するかのように、シンドラーのセリフが挟まれる――自分はただ、有能な会計士が必要だっただけだ、云々。
 しかし、シンドラーが、いわゆる「善良さ」とは別の理路で動く人物なのだと描きたいのであれば、取ってつけたような言い訳を言わせるだけでは不十分だったはずだ。このときのシンドラーは、ユダヤ人全体の運命など気にかけない冷徹な人物だったのか? それとも、想像力の足りない愚かな人物だったのか? それとも、葛藤しながらもさらなる行動に踏み出せずにいる善良な人物だったのか? 爽快なユダヤ人救出劇、そして言い訳のようなセリフ、と、単発的に差し出されるだけでは、観客にはシンドラーの内面がさっぱり分からない。
 映画の前半は、ずっとこの調子である。そして後半になると、特に整合性もないまま、シンドラーは「ただの善人」へと堕落していく。
 シンドラーと対をなすナチスの悪人、ゲートの描き方も同様だ。
 例えば、ゲートは、「許すこと」の大切さをシンドラーから諭され、一時的に囚人への制裁をやめたりする。そして、すぐにまた囚人を殺すようになったりする。
 あるいは、ユダヤ人女性ヘレン・ヒルシュに執着し、一瞬だけ優しくして、直後に激しい暴力を振るったりする。
 いずれも、とりあえずゲートが葛藤する場面も入れてみました、という感じの唐突さだ。他の場面でゲートの葛藤が掘り下げられるわけでもないので、一貫したキャラクターとしての説得力は皆無である。
 もしもこの映画が、単純な善悪に回収しきれないキャラクターたちのドラマを描き得ていたなら、そこからは、奥深いテーマが立ち現れていたはずだ。すなわち――、善人を「善人」たらしめ、悪人を「悪人」たらしめるものは、想像以上に不確実なのではないか、というテーマである。
 映画に描かれる「被害者のユダヤ人たち」というイメージを通じて、そこから浮かび上がっていたかもしれないものを読み取ってみよう。
 まず、映画の中で、ユダヤ人たちは、ナチスの悪行の前に「なされるがまま」である。つまり、ユダヤ人たちは客体的である。だが、ユダヤ人という客体の前で「悪」をなすゲートの主体性は、ゲート個人のものだろうか、ナチスのものだろうか。ナチスのものだとすれば、ゲートが直接手を下した悪逆非道な行為は免罪されるだろうか。「悪」の主体性をめぐる問いが、そこから浮かび上がっていたかもしれない。
 ナチスの悪行の前に「なされるがまま」であるのと同様、ユダヤ人たちは、シンドラーの善行の前にも「なされるがまま」である。「良いこと」を行うことは、時には、大量に死んでいく人々から一人だけを自分の都合で救い出すような、独りよがりなことでもあるのではないか。
 そして更に、ユダヤ人たちは、観客の視線の前で「観られるがまま」でもある。ユダヤ人たちは、観客が「こうであってくれれば良いな」と思う被害者像を、一方的に与えられているわけだ。
 映画の中のユダヤ人たちは、3重に客体的である。
 特権を持った善人によるユダヤ人救出劇という、いかにもエンターテインメント映画らしい心地よさを、道徳的な判断へと単純に重ね合わせてよいのだろうか――と、観客を葛藤させられるかどうかが、作品が「名作映画」になれるかどうかの大きい分かれ道の一つだった。そこでは、「善人」の主体的な働きに都合よく、被害者たちに客体性を強いることの暴力性すら問われていたかもしれない。そして、そこで問われる客体性は、ナチスがユダヤ人に強いた客体性、さらに、イスラエルの史観がパレスチナ人民に強いる客体性とすら、相通じていただろう。
 実際に出来上がった「シンドラーのリスト」にも、単純な勧善懲悪から外れようとした形跡は随所にある。が、最終的には、物語の着地点は極めてシンプルだ。シンドラーが、「もっとたくさんのユダヤ人を救えたはずなのに」などと泣きながら懺悔し始めるのだから、冗談でやっているのかと言いたくなるくらい白々しい。散々「重厚な社会派」っぽい思わせぶりな描写を重ねた挙句、オチがこれかよ!
 そりゃ、たくさんの人命を助けたのはご立派なことである。しかし、立派な人が立派なことをやるだけの物語なんて、わざわざ映画にするほどの価値はあったかな?

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