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コロナで東京から地方移住

会話のない日々

コロナでパニックだった2020年、夏。
ちょうど私が、一人で生きると決めて東京へ来て6年目だった。
石川県金沢市のゲストハウスに1ヶ月半移住した話である。

職場は寡黙で雑談もせず淡々と仕事をする人たちばかりだった。
転職で東京にきた私にとって、職場の人間関係が全てで、そこでは挨拶以外の会話はない。
ほとんど誰とも話さず、仕事と家の往復をする6年だった。
スーパーのレジで袋入りますか?と聞かれて
「いりません」と声を出したのが4日ぶりとかが普通にあった。
そんな中、新型コロナが大流行し、
人と接する機会が減って、鬱や適応障害が増えたというニュースも流れた。
コロナ前から自粛生活だったから、皆が同じ状況になってて孤独感が消され安心感もあった。

そんな中で、全てが嫌になり「もう休みたい。」の一心だった。
その頃、恋愛も散々で何もかも嫌になっていて、
コロナをきっかけに社長からパワハラにも遭い、数年かけて立て続けに何人もの裏切りで人を信じれなくなっていた。
社長にはコロナで仕事がなくなっても、緊急事態宣言下の中で出社は強制、無視をし続けられていて、給付金が入ったら「それが給料」と突然解雇された。
窮地に立たされた時の人の本性を見た。
話し相手もいない、高円寺のマンションの最上階ベランダで泣きながら1人でシャボン玉を吹いた。
今年1年で死のう、と、具体的に死ぬ日を決めた。
SNSも五月蝿くて、みなくなった。

とにかくもう東京なんか嫌だ

息をするのに必死だった

気付いたら、石川県金沢市のゲストハウスに1ヶ月半の滞在予約を入れていた。
なぜ金沢にしたかというと、石川県は伝統工芸文化が盛んで、この機会に学ぼうと思ったのだった。
コロナが本格化する前、一人旅で来て、その時に金沢の雰囲気が気に入ってもう一度ゆっくり来たいなと思っていたからだ。
出発の一週間前、自分が担当していた仕事が突然復活した。
社長はずっと無視していたのに、私しかできない仕事が来たら猫撫で声で、協力して、家族だよ!と擦り寄り、
同僚も、どうせコミュ障で人が苦手なんだから帰りたくなると言った。

休む=仕事が全部なくなるとずっと脅されて説教されて仕事をしていたけど、将来なんてどうでもいい、もう知らない。
予定は変更せずリモートで対応すると返事し金沢へ出発した。

最期の1年は好きな事をたくさんすると決めたのだ。

金沢のゲストハウス

行きの新幹線で悔しさで少し泣いて、気付いたら金沢に到着していた。
機材も持っていたのでタクシーでゲストハウスに向かった。
そんなに夜遅くなかったけど、街がすぐ眠ってしまい
その日は共有のキッチンで、カップ麺を独り温めて食べた。

コロナ無症状かもしれないと思い、自主隔離した。
一週間近くルームメイトと話さず、部屋に篭って本を読む、絵を描く、音楽を聴き、陽が落ちたら買い物に行ったりしていた。
東京と同じ生活で、どこに行っても孤独だなーと思った。
でも嫌な人達と顔を合わせないだけで心が晴れやかだった。

暫くしてルームメイト達と話すようになり、晩御飯をみんなで食べたりしていた。
仕事の隙間時間に、喋ったり遊んだりしていて
「あれ?私って人と話せるんだ」と驚いた。
職場で話しかけても無反応で、相手から反応が返ってきても、話題を取られてマシンガントークだったり、
言語以外のニュアンスが伝わらず、
噛み砕いて意味を説明しないと会話が成り立たなかったりと疲弊していた。
自分がおかしいんだと諦めて6年過ごしていた。
友人や恋人にも、頭がおかしい、変、お前はだからダメなんだと言われていて
「ああ自分って、頭が弱くてダメなやつなんだ。」
と本気で思っていたから大発見だった。

(今もうそんな人達とは縁切りしました)

目まぐるしい日々

各々日中は仕事をして、夜は一緒にご飯食べる。
自分が作った料理を人に分けたり、人の為に作ったり、作ってもらったり
ルームメイトの台湾人に中国語を教えてもらったり、
みんなでオープン前の温泉宿のお手伝いをして、温泉に入った。
入れ替わりで宿泊にくるお客さんや外国人と話したりもした。
初めて取れたお盆休みには、
初対面の人に竹をもらって、流しそうめんしたり、花火、海水浴、水族館、車を出してもらって恐竜博物館に行ったりした。
仕事の待機中に、映画でもののけ姫を見に行ったりした。
人生で初めて、仕事以外で忙しい日々を送った。

竹をもらった

あの場所に居続けたら出会わなかった人とたくさん出会った。

海外での暮らしや留学経験者が多く、英語で会話している人もいた。
同じ日を過ごす事はなくて毎日が楽しかった。
ネガティブで否定的な話題をする人がおらず、
出会った人達は最低限のお金を稼ぎ、好きな事をし、贅沢は出来ないけど、みんなで集まってご飯を食べたり暗い顔なんてしてなかった。
本当に人生の〃今〃を楽しんでいた
お金の事も、将来の事も何も考えずに楽しんだ。
田舎なので何をするにも、誰かと協力した方がより早く解決したし、これが共同体になって孤独や孤立を防いでいるのかなとも思った。

死ぬ日を決めたら、悩む暇もなく毎日が充実しだした。

愛想を振り、相槌を打ち、良い反応し
職場で若い女の性を消費している感覚がずっとあった。
セクハラも沢山あったからだろう。
愛想を振らず、自然体で自分を主張する人達を見て無理にニコニコしなくていいんだと思った。
目の前の人達は、ちゃんと生きれている。
ビジネスでは愛想がある方が良いだろうが、
表面的な繋がりで、職場の人間関係しかない私は本音を誰にも話せず、誰も信用できなかった。
ゲストハウスのみんなは、自然体の素で話しているのを感じた。
人は無意識で考えている事が相手にも伝わったりするんだなと思った。
あの環境で自分の気持ちも感情もわからなくなっていたんだなと思った。
「仕事、復活してよかったね」
とみんなが言ってくれたけど、本当によかったのかな?あの環境に戻りたくないと思った。

その時に思い出したのが、
環境を変えるだけで、自分に合うところが必ずあるという言葉だった。
思い返せば、都会に育ち、競争社会で過ごしていて
特に女性は出産をするなら早めにキャリアを積み、子持ちは社会復帰しづらいと聞いていたから必死に働いていたし、進路も将来が困らないように手に職をつける為の進学もした。
やりたい事よりも、やれる事を優先し続けていた。
けれども、無理矢理頭の中でやりたい事をやっていると言い聞かせ誤魔化し続けていた気がする。
でもその誤魔化しは、10年で限界が来たのだった。

ゲストハウスにてインド人にインドカレーを作ってもらった

同僚と一緒じゃないと進まない仕事が沢山あって、同僚が昼夜逆転生活で出社が18時からで(フレックスタイムの会社)
その間は仕事が進められず、ひたすら待機していた。
終電ダッシュやタクシー帰りに当たり前のように付き合っていて、私も朝5時に寝て昼夜逆転させて夕方から出社時間を合わせないと体力が持たず仕事も進まなかった。
何度かもう少し早く来て欲しいと頼んだが、改善しなかった。

体は怠いし、鬱っぽくなるし、頭は回らず悪循環だった。

必死だった。

孤独と孤立

金沢に滞在し距離が取れて、
社長の雑談内容すら否定と説教も、終電ダッシュもタクシー帰りも付き合わなくて済み、
待機時間はルームメイト達と過ごす時間になり、みんなと他の事もできるようになった。
仕事がなくなる恐怖で、変な時間に連絡がきても返信をして付き合いを大事にしていたけど、
この人非常識だな。とやめたら
毎日23時には寝て朝6時に起きれるようになった。
そうすると、体の倦怠感や憂鬱な気分もほとんどなくなった。
毎日5人以上は対面で誰かと会話した。
私は孤独なんじゃなくて孤立していたんだと気付いた。
そしてふと、コロナが流行して鬱が増えたというニュースを思い出した。

人は孤立しては生きられない、調子が悪くなるのは当たり前だったんだな。

1ヶ月半経ち、帰京

元々は伝統工芸を学びに金沢へ行ったのに、
美術館に行ったくらいで創作も全くせず、仕事はセーブし遊べるだけ遊んだ。
でも結果は同じだった。
反対に今までの自分は必死で、一体なんだったんだろうと感じた。
頑張らなくていいじゃん。
創作しなくていいじゃん。

創作もしなくても幸せでいられる自分を発見して、人に大事にされる新しい感覚もあった。
休止中、SNSのフォロワーはすごく減ったけど、創作は最初は好きでやっていたのに、いつの間にか孤独感や暇つぶしにやっていたのかなと思える。
なんのためにやっていたのかな。
幸せだと思っていたけど、本当に幸せだったのかな。

正気に戻り、心身元気になって私は東京へ帰った。
次の日、目を覚ますとうるさい街の音が聞こえてきた。
一人暮らしの静かな部屋でうつらうつら、あの1ヶ月半は夢だったのかも、と本気で思った。

「おはよう」と言い合うルームメイト達は、居なかった。

2週間でまた昼夜逆転・終電帰りの日々に戻った。
けれど、
自分にはここ以外の居場所や人間関係もある
世界はここだけじゃない、沢山の生き方がある

とわかったことが大きくて、
嫌なことを言ってくる仕事の人や友人の断捨離を少しずつ始めた。
自分の事を棚に上げて、あんまり話した事もないのに裏で癖が強いとか言ってた友人もいらない。
酷い事を言ってきたのに、何事もなかったかのように連絡をしてきた人が数名いたけど、無視して連絡先を消した。

嫌なことを言われて我慢しなくても、大事にしてくれる人が他にたくさんいる。

死ぬ日を決めたら、嫌なことを言う人に使う時間や仕事は潔く捨てて直感で動けるようになった。
それで失敗しようが、納得感があって後悔しなくなった。
死ぬのに、嫌な気分に時間使っていいのかな
自分が美しい楽しいと思うものを見て死んでいきたい。

そう思った。

負けてもよくない?

あれから2年、仕事を0時過ぎまでするのは辞め、セーブしたまま健康的な生活を送っている。
いろんな世界や人間関係が広がって、仕事外で人と話す事が増えた。
そうすると、自分の事を大事にしてくれている人と、そうじゃない人の違いも感じるようになった。
でも、今までずっと仕事だけの生活を6年もしていたから、金沢から帰ってきてから職場では一層
そんなのじゃ1番になれない、売れない、負けるぞ
常に勉強し成長してお金稼がなきゃいけない
現状維持はダメだ!もっと上へ
今のままではダメだよね?
と、ずっと言われた。

個人的に契約した別のシェアオフィスに行ったり、
大事にしてくれる友人達との時間も取るようになったら、あっちこっち行ってて集中力散漫とか散々言われた。
今までみたいに仕事だけを終電までやって欲しいのはわかっていた。
ここだけの世界で働いてたときは、
休みも仕事、GW・お盆・年末年始なんていう空気感も季節感もなく毎日同じで納期が終わったらまた納期、の繰り返しだった。
それが満足で生きがいの人たちもいる。
それはそれでいいと思う。
自分は違うかった。
負けても別に何も問題ないし、負ける事は実は重要かもしれない。

都会では会社が村

私は私の生き方があるし、違う人間関係で仕事をしたいと思った。
別の生き方や居場所があるとわかってダメージが0になった。
ずっと、その世界にどっぷり浸かっていて働いて生きるってこうなんだと思ってた。

仕事は代わりはいくらでもいるけど、
自分の代わりはいないから大事にしたい。
ようやく自分は大事だと思えるようになった。

東京が嫌になったんじゃなくて、
自分の小さい世界(村)での人間関係が嫌になっただけで、
今までのいろんな活動・恋愛もその状況から逃げたくて焦っていただけだと痛感する。
独断と偏見で職場でも否定され、恋人友人に否定され嫌な事を言われても
気にしてない顔をして、まあ仕方ないよな、と諦めていた。
自分の事を大事にせず諦めて生きていた。
大事にしないと、大事にしない人達が集まってきて都合よく利用されると一つ勉強になった。
自分の気持ちを素直に聴くようにしてならは、違和感のある人を避けるようになって、支配的な人は近寄って来なくなった。


もうその職場も辞めて、あーだこーだ言う村人達とも距離を置いて、
今では、素敵な友達も沢山いて東京は気に入っています。
東京にも、猫を散歩させてたり、田舎と変わらずゆったりとした空気感の暮らしができる地域もあっていいなと思う。

人の評価なんて千差万別で案外適当だしどうでもよい。
同じ行動をしても村によって、評価も変わって当てにならない。
ただその村と合わなかっただけだと思った。
田舎も都会も、結局は人間関係だからどこに行っても村社会だなと思った。

6年間の孤立を経験してわかったのは、
独りだと、全部自分でしなきゃいけないから凄く大変だし時間もかかる。
だから他人が見返りを求めず自分に与えてくれる事の、ありがたさが深くわかるようになった。
そして、それは永遠でもないという事。

自由と孤独

持ちつ持たれつとはよく言うもので、与えられて受け取り続けるのが許されるのは親子関係だけなのかなあと思ったりもする。
自由で居たいなら孤独だし、全部自分でやる事になるから、大変な道のりになるだろう。
私はなんでも独りで行動する事の、視野と世界の狭さに限界を感じた。
6年も何をするにも1人行動していたから、考え方もパターン化するのを感じていた。

独り旅行と、誰かと旅行するのとでは、
自分が気付かなかった所を他人は見ていたりして、自分が見えなかった世界を発見したりする。
その価値観の違いを共有するのも楽しいし、視野も世界も考え方も広がるなあと思った。
独りでずっと居ると、目の前の世界しか見えなくなってどんどん世界が小さくなった。

他人が存在するから、自分も存在するんだろうな。

おわりに

コロナ禍で、いろんな人の素の人間性が出た。
渦中にリモートワークになり、お世話になった方が亡くなって会わずじまいになってしまった。
人と会う時や話すその瞬間も、もう二度と戻って来ないから大事にしたいと思っている。

自分がいなくなるのもあっという間なんだろうな。
後悔のない人生と選択を。

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