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22回目の誕生日 in パラグアイのスラム

僕の22回目の誕生日はパラグアイで迎えた。
帰国への日数が少なかったこともあり、日曜日であったが仕事を入れた。自分の帰国後に現地でサポートをしてくれるパラグアイ人、アナ(仮名)に活動地域を紹介する仕事であった。
誕生日であることはもちろん黙っていた(笑)

当日の朝、アナが家の近くまで迎えに来てくれた。開口一番に出た言葉は“Buen día(おはよう)”ではなく、“なんで誕生日なの黙ってたの!”だった。
想像よりも怒っていた。どうやらFacebookの通知でバレたらしい。

そんな同僚を車内でなだめながら活動地域へと向かった。
向こうではカウンターパートが笑顔で待っていた。そしてやはり誕生日を隠していたことを不思議がりながらお祝いの言葉をくれた。

そんなやりとりを終えてから、アナをカウンターパートとともに、活動地域であるスラムを案内する。スラムの現状や我々が今後進めていこうとしてるプロジェクトの説明を行った。

「下手したら帰国前最後のコミュニティ巡回かな」なんて思っていると、急に子どもが声をかけてきた。
どうも僕の名前を呼んだみたいだった。
正直驚いた。申し訳ないことに僕はその子が誰だかも、どこで会ったかも思い出せなかった。後からカウンターパートに聞いたら以前そのコミュニティで開催したこどもの日のイベントに来ていた子どもだった。

それを聞いて、僕は安心した。
帰国直前の僕は少しナーバスになっていた。自分がパラグアイに、活動をしていたコミュニティにいったい何を残すことが出来たのか、自分に問いかけ不安に駆られていたからだ。

だから僕の顔と名前を覚えてくれて、声をかけてくれた。その事実が僕にちょっとだけ安心感をもたらしたのだ。
きっと国際協力の世界の人から見ればあまりにもちっぽけなことで、そんなことで満足するな、と怒られるようなことかもしれない。
僕自身も子どもに覚えられたくらいで満足する気などさらさら無い。
しかしたとえ小さいかもしれないがしっかりと最初の一歩を踏み出せたように感じた。
子どもが僕を呼んでくれたその瞬間は、僕にとって大きな誕生日プレゼントだった。

まがいなりにも一NPOスタッフとして働いていた人間として、しっかりと説明のできる結果を残さなければいけない自覚はあった。僕は今後も責任を持ってそのコミュニティの人たちに向き合っていかなければいけないと思っている。
その第一歩が僕にとって22回目の誕生日に訪れたのだ。

ちなみにその日は午前中に仕事を終え、昼にはアナが家のパーティーに招待してくれた。その日、パラグアイは父の日でもあった。
娘にお祝いしてもらえるはずが何処の馬の骨ともわからんアジア人を連れてきて、おとうさんもさぞ驚いたことであろう。あんな気まずい誕生日パーティーは今後経験できないに違いない。笑

そんな日本の反対側で迎えた、僕にとって22回目の誕生日であった。


お読みいただきありがとうございます。そのお気持ちに涙が出ます。