【私的総集】Vtuber論考:「バーチャル」、「Vtuber」及び「現実」とは何か、そして「バーチャリズム」の提唱

この記事は、私のらくらが考える「バーチャル」、そして「Vtuber」の構造と「バーチャリズム」についての現時点での全てを記した内容となっております。そのため、前回記事と一部重複する内容も含まれています。
 先日「バーチャリズム」についての記事を投稿してから、多くの人の記事を目にし、参考にさせて頂いた上での総集編的な内容です。

 非常に長く、かつブログに投稿するつもりの記事であったので、文章が硬めになっております。それでもお付き合いしてくださる方は、どうぞ。

バーチャリズムについてわかりやすい記事はこちら

序文:バーチャル世界の確立とバーチャリズム

 インターネットに幽霊が出た。バーチャルYouTuberという幽霊が。現代のこの幽霊は様々な奇異、好奇の目を向けられつつ、あるいは一過性のブームに終わるかと思われた。

 しかし、バーチャルYouTuberという単語が登場した二〇一七年から既に三年ほどが経ち、今なお、あるいは今をもって益々さらに、バーチャルYouTuber(あるいはYouTubeという配信プラットフォームに依らないため「Vtuber」と呼ばれることもある。幅広いバーチャルの世界を正しく捉えるためここではより広義と思われる「Vtuber」と以下からは呼称する)という世界は益々広がりを見せ、「Vtuber」という「表現手段」は今後も、ブームこそ多少なりとも下火になることがあれども、残り続けるであろう。

Vtuberという幽霊はもはや「virtual(虚像)」ではない。あるいは幽霊でもない。一つの文化である。

 この現代においてVtuberは新たな「表現手段」として発明され、確立し、その領域が益々の広がりを見せるにあたって、「バーチャル世界」という一つの個別的世界がそれそのものとして確立しつつあることは、明白である。

 筆者は、広がり続けるVtuber界隈を追う中で、この「バーチャル」に、一つ欠けている物があると考えた。それは「思想」である。
 
界隈において、普遍的な、妥当性をもった思想を定義づければ、この「バーチャル」が、「確立」し、「存続」する上で、一定の支えになると信じ、筆者はひとつの思想を提唱した。それが「バーチャリズム/ヴァーチャリズム(virtualism)」である。

 普遍性を伴った存在は、時代を超えて存続する。あるいは一度は忘却されても、再発見される。さて存在においての普遍性とは自然に見いだされるものであろうか、あるいは創り出されるものであろうか。少なくともVtuberは前者の普遍性は既に兼ね備えている。Vtuberというコンテンツ、あるいは「バーチャル世界」は「現実に囚われない、自由な表現手段」として、今後未来においても恐らく人を惹き付ける普遍性を有する。

 では後者はどうだろうか。存在において、創り出され、付け加えられる普遍性、それこそが「思想」である。普遍性、妥当性を兼ね備えた確固たる「思想」が存在することで、存在はただそこに存在するものではなく、あるいは無秩序に広がり続ける「何か」ではなく、より具体性をもったものとして「確立」すると、少なくとも筆者はそう信じている。

Vtuberとは何か/Vtuber構造論

 今後の説明をわかり易く、円滑なものにする為に、ここでは一つ、そもそもVtuberとは何かということを考えてみたい。

 Vtuberとは何か。簡単に答えが見いだせそうであって、考えてみると実際にはかなり定義付けが難しい問題である。あるいはVtuberの多様性を考えれば、定義しないことがそもそもの魅力であって、定義付けという行為そのものが無粋で不要なのかも知れない。だが、ここで筆者がVtuberというものを論考し、そして筆者がバーチャリズムを提唱するにあたって、この事は、やはり一定程度は定義しておかなければならない。

 ここで一旦現実的に、メタ的視点から、実際に行われている現象としてVtuberを総括する。いささか無粋かつ、筆者としても気が進まない内容ではあるが、前提として、どうしても行っておかねばならない。

 Vtuberという活動を現象として捉えるならば、「現実における個人、あるいは団体(パーソン)が、バーチャル世界上でアバターを使用し、Vtuberとして振る舞う」行為であると言える。
 現実には誰かがいる。俗に「中の人」と言われるものである。これ自体は「現象」としては否定できないものである。現実に「パーソン」が存在し、画面を通して「パーソン」とは異なった「ペルソナ」として振る舞う。メタ的視点から見れば、Vtuberの構造とはこのことに尽きる。

 だが、安易に現実と結びつけ、「中の人」が「振る舞う」こととして片付けるのは、Vtuberというものを考えるには甚だ不十分である。確かに現実はどこかにあるかもしれない。しかし「どこかに」なのである。重要なのは、「キャラクター」として、我々の目の前で「活動を行っている」ことである。
 まず我々は目の前のものをそのまま捉える。画面に映る、「その人」がいる。それは感性である。そして、そこから理性によって「中の人」がいることを認識するのである。感じたものを感じたままに受け止めれば、それは「そこにいる」「その人」と認識できるわけである。これがVtuberの特殊性である。

 Vtuberはフィクションではない。正確に言えば「フィクションでありつつフィクションではない」という両面性を持つ。それはやはり「中の人」がいることによって、リアルタイムで双方向的な「人間的」コミュニケーションを実際に行うことが出来るという点と、我々が画面を通して見る「キャラクター」は非実在であるというフィクションが、折り重なって想像されることによる現象としての認識に基づく事実である。

 さて、Vtuberという界隈においてはしばしば「中の人」あるいは「現実におけるパーソン」という認識は遠ざけられた。婉曲的、便宜的に、「」という言葉が使われることも多い。多くの人にとって、画面に映る「キャラクター」「その人」をそのまま捉え、現実を遠ざける為に、どうしても「演者」なるものの存在は差し障りになり、そこで「」とか、あえてなるべく分かり難い表現を用いることで、一定程度の現実との距離を置こうとしたものだとも考えられる。

 しかし、実際「魂」とは的を得た表現でもある。目の前に「アバター(肉体)」がある。そこに「魂」が宿ることによって、それは独立した人間存在として、リアルタイムで双方向的なコミュニケーションを行うことに説明をつける。実際腑に落ちる表現である。

 ここで、Vtuberにおける「魂」とは何か、という事を筆者なりに定義づけてみたい。Vtuberにおける「魂」とは、言うまでもないことかも知れないが、一般的な「魂」の意味とは異なる。
 筆者の定義では、Vtuberにおける「魂」とは「キャラクター(character)」を生み出す精神の源泉である。「魂」は一つだが、「キャラクター」は可分なものである。「魂」が「キャラクター」あるいは「パーソナリティ」を生み出し、アバターという肉体に宿り、一つのバーチャル存在を生み出す。「魂」からは「現実」における「キャラクター」が生み出されているかもしれないし、実際に我々が画面に目にするVtuberとしての「キャラクター」も生み出される。以上が筆者なりの「魂」の定義である。

さて、ここまでに書いた事を概観して、「Vtuber」とは何か? という定義を考えてみたい。
 非常に広義に捉えるならば、インターネットというバーチャル世界で活動を行う「キャラクター」全てである。もっともこれでは、普段インターネットを利用し、あるいはインターネット上で「現実とは違った振る舞い」を行う人全てが「Vtuber」になってしまう。もっともバーチャリズムという事を考える上で、このような人の振る舞い全てを「バーチャル・キャラクター」として捉えることは意義がある。

 あるいは主観的に、自分が「Vtuber」であると捉えている存在は全てVtuberであるとも言える。実際の活動形態がどうあれ、少なくともインターネットというバーチャル空間を通し、なんらかの発信を「Vtuber」として行うならば、それはすでに「Vtuber」なのであるとも捉えられる。

 そして、上記二つを踏まえて、中程度の範囲の定義を行うならば、「自らが「Vtuber」であると認識し、何らかのアバター(イラスト・3Dモデルに限らず、現実とは違う形の自分であればどのようなアバターでも)を使用して、活動を行う存在」とも言える。

 重要なのは自分が「Vtuber」であるという認識である。外部からあれこれと定義するのではなく、「私は」、「Vtuber」あるいは「バーチャルな存在」であるという自己認識こそが重要なのである。

 そして、「魂」や「アバター」俗に言えば「ガワ」といった構造は、Vtuberを見るにあたっては真に重要ではない。

 Vtuberにおいて、感性による理解と、理性による理解という両面は、一つ考えておかなければならない重要な点である。
 とらじぇでぃさんという方の記事に詳しいのだが、氏は西田幾多郎の「純粋経験」、「主客未分」という概念を取り上げて、Vtuberにおける「心身未分」という概念を用いている。

 つまり、我々が感性によって受け取るVtuberの「未分存在」、素直な感動として、感動のままに受け取るものは、主体や客体に分けて考えられるものではないし、パーソンであるとかフィクションであるとか「魂」であるとか、そういった理性の後付けによる構造論を超えた、純粋な感性による感情なのである。そういう意味では、Vtuberとは「無形の構造」を持つとも言える。

 これらのことを書くにあたって、筆者は思い起こす事例が一つある。それはVtuberブームの最初期、「キズナアイ」が話題になった際、知らない人は「本当に「AI」なのかと思った」と口にした事である。「思った」ということは、今はそうではなくて「中の人」の存在を知ったということだが、重要なのは、何の前提知識もなく、初めてVtuberを目にした時、少なくない人々は、そこにいた「AIキズナアイ」をそのまま受け取り、感じたのである。これはまさに、Vtuberという定義が存在しなかった黎明期において、「キズナアイ」という存在が登場した事に対する、あるいは「キズナアイ」を基点としたVtuberという存在そのものに対する、今日ではある意味難しくなった、純粋な感情の表れとも言える。

バーチャリズムの提唱

 さて、筆者はVtuberという存在を絶対的に独立した「主体」として捉えたいと常々考えていた。それは、現実という要素が一切想定されない、現実におけるパーソンであるとかあるいはフィクションであるとか、そういった認識を超えて、我々が目にする「そのままの存在」、「主体」・Vtuberを「独立」して捉えるという試みである。

 筆者が提唱するのはバーチャリズム/ヴァーチャリズム(Virtualism)という思想である。一言で言えば「バーチャル至上主義」である。

 我々が現実を排し、あるいは、Vtuberという存在をかつて我々が感性のままに受け取った時の感情を再現するための、そしてVtuber、あるいは広く「バーチャル存在」を「主体」として確固たるものにするための思想である。様々な人が論考し、悩んできた問題を名前のついた「思想」として形成しある種の決着を図る。それが筆者の究極的目標である。

 バーチャリズムにおいては、バーチャル・キャラクター(アニメキャラクターやVtuber、また、バーチャル世界でバーチャル存在として振る舞う全ての人)を見る時に、現実というものを、一切、全く完全に、想定しない。この事がバーチャリズム全ての基礎である。そこにいる「その人」をただ「そのまま」見るという思想である。
 
バーチャリズムにおいて重要なのは、「Vtuberとして振る舞う一つのキャラクターと言う存在を重視し、その人格そのものの独立性を重視することである。
 言い換えれば、「現実とは違う「バーチャル世界」において異なる振る舞いをしているキャラクター(人格)」そのものの現実を前提としない独立を主張する思想である。

 だが、現段階の世界においては、その事はやや難しい。我々は、バーチャル・キャラクターを見る時に、なぜ現実を想定してしまうか、なおかつ現実を想定しないという試みが、現実逃避的に聞こえてしまう所以は、現段階の世界では、「現実」という一つの世界が絶対的なものとして、我々の足元に横たわり、「インターネット」であっても「バーチャル」であっても、それが現実の延長上に存在する現実に従属的な世界であり、現実世界を木の幹として例えれば、「バーチャル」は枝でしかないからである。

 そこで筆者は、バーチャリズムの思想の最終目標として、「バーチャル世界」そのものを「現実」から独立させる事を主張する。現実からの「独立」、実際的な、特に人々の精神的な独立を目指す。それは、さながら幹から落ちた枝が地面に埋もれ、そこから新たな木として芽吹くような、現実とバーチャル世界の並立である。この事を成し遂げた上で、我々は、バーチャル・キャラクターがバーチャル世界に確固として存在する一つの人間として、捉えることが出来るようになるのである。

 いささか夢想的であると思われるかもしれない。しかし、ここで目指すのは、人々の精神的な側面での独立という意味合いが強い。そもそも、この世界の人間社会において、極論すれば「独立」とはみな精神的問題である。

 歴史の話をする。
 アメリカ合衆国がイギリスから独立した時に、はたして13植民地であった大地が物理的に何か変わったのか。無論変わってはいない。変わったのはそこに立つ旗、土地の名前、要するに人々の意識である。紆余曲折を経てアメリカ合衆国はアメリカ合衆国であると、人々がそう認識したから、アメリカ合衆国は独立したのである。あるいは、明治維新にて江戸幕府が消滅し、新たに明治政府になった時、日本の大地はなにか変わったのか。否である。人々が、そう認識したからこそ、新たな社会が形作られたのである。
 あるいは、吉本隆明風に言うならば、この「世界」における歴史的問題と回答はみな、一種の「共同幻想」である。全ては人々の価値観に根ざす精神的問題、あるいは「幻想」である。

 つまり、バーチャリズムとは、空想的な世界観を述べる思想ではなく、バーチャル・キャラクターを見る側の価値観に訴えかけ、「バーチャル」に対しての精神的な変革を行うための思想なのである。
 そしてそのために、この思想が説得力を持ち、妥当性を持った、多くの人にとって魅力あるものとして完成させる事が、筆者の目的である。

バーチャリズムの意義

 我々は、生まれながらの姿かたちに規定されて生きている。それを肯定的に受け止められる人間もいれば、そうでない人間もいるであろう。大なり小なり、生まれながらの身体的制約に苦しめられている人間は、この世の中は数多くいる。

 しかしバーチャルは自由である。姿かたちは思うままに、人種、性別、あるいは人間すらも越えたかたちになれる。そして、バーチャリズムはこの振る舞いを絶対的に肯定し、尊重する。

 バーチャリズムにおいては、「アバター」による「バーチャル・キャラクター」としての振る舞いを、一つの独立した「人間存在」として、絶対的に尊重する。そして、バーチャリズムの唱える、現実からの「バーチャル世界」の独立によって、真に人々は生まれながらの身体的制約から開放される。これこそがバーチャリズムの意義である。

 現段階の世界ではすでに、「VRChat」に代表されるような、バーチャル空間における「アバター」による自由な振る舞いが一定程度実現している。そして、バーチャリズムはこれらのことを思想的に肯定し、独立した存在として定義づける。

 しかし、課題もある。「振る舞いを絶対的に肯定する」と述べたが、無論、法や、一般的倫理に反する行為は認められない。しかし、法はともかく、倫理的とは何かということは重大な問題である。

 倫理とは何か。そもそもバーチャルの世界において既存の倫理観をそのまま適用することは不十分であるから、「バーチャル倫理」なるものを新たに形作らなければならない。
 この内容に関しては、思惟かねさんという方の「アバターを皆が使う社会での「表現の倫理」を考える:表現の自由と見たくない物を見ない自由」という記事に詳しい。「バーチャル世界」における倫理、姿形に対するフィルタリングという行為に対する危険性、フィルタリングを行うのであれば、その具体的内容など、深く考察を行われている。

 さてここで、バーチャリズムという思想において、この「バーチャル倫理」をも包括すべきなのか?という事は、筆者にとって重要な課題である。思想は倫理観をも説くものであろうか。

 筆者としては、思想というものは一種の建築であり、地面の下の土台や基礎にはいくらでも多くの既存の思想、哲学などを用いて盤石にすべきだと思うが、肝心の建物に対してあれこれと後付けをして、新たなものを後付けて定義すればするほど、それに対しての補強が必要になる。そうして違法建築的な歪さを呈していく事は、思想そのもののシンプルさを失いかねない。それ故に、こういった問題には慎重になりたいのである。

 現時点での筆者の回答は、バーチャリズムと「バーチャル倫理」は別々に分け隔てるべきものであると考える。というのも、倫理というものは果たして思想によって規定されるべきものであるか。「バーチャル世界」が益々の拡大を見せていく中で、「倫理」は自然に形成されていくであろう。バーチャリズムはあくまで、基礎でありたい。

 それと同時に、「バーチャル世界」における、極限までの自由主義、許容される限りのあらゆる姿形と振る舞いの表現の自由、その絶対的な尊重という立場は、このバーチャリズムの基礎として、繰り返すが、はっきりと位置づけておきたい。

 そしてさらにもう一つ、バーチャリズムによる意義がある。それはVtuberと言う存在に対して、便宜的な「魂」や「アバター」、「ガワ」といった説明付けをする必要がないという点である。
 バーチャリズムは極めて実存主義的な立場に立つ。バーチャリズムの価値観を平易に述べるのであれば、「そこにいる」「その人を」「そのまま見る」ということに尽きる。
 つまり、バーチャリズム的な視点から考えれば、わざわざ「そこにいる」目の前の人間に対して、「魂」があるから、といったような説明は不要なのである。「魂」という説明は便利だが、結局のところそれは婉曲的な「パーソン」に対する表現である。バーチャリズムという価値観に基づけば、我々はVtuberにおいて「魂」を想定する必要はない。
 我々は本質を求める必要はない。「実存は本質に先立つ」のである。

バーチャリズムの抱える根本的ジレンマとその回答

 さて、バーチャリズムはシンプルな、基礎であるものでありたいという考えを先述したが、その分、思想に内在する矛盾や問題はなるべく取り除いていきたい。

 バーチャリズムには、根本的なジレンマがある。それは現実という問題、甚だ厄介な問題に関してである。

 つまり「バーチャリズムにおいては現実を一切、完全に想定しない」と述べたが、「現実を想定しない」という事を考えている時に、すでにその時点で、「現実を想定している」のである。

 細かい事のように思われるかも知れないが、これは重大な問題である。バーチャリズムが思想である以上は、思想というものは、なるべく絶対的な一貫性を持たなければならないと考える。思想の根本に矛盾があるのであれば、何かのきっかけに思想そのものが音を立てて崩れ落ちかねないのである。このジレンマはなんとしてでも解決しなければならない。
 あるいは、これはバーチャリズムをバーチャリズムとして思想的に位置づけてしまったがために起こったジレンマである。先述の「心身未分」を尊重し、その状態に留める事を重視すれば、このような問題は問題とはならなかった。奇しくもバーチャリズムという思想を提唱するにあたって、具体性を伴った定義付けを行う上で、発生してしまい、避けて通ることの出来なくなったジレンマである。

 さしあたって筆者は三つの解決策を考えた。

一つは、安易な解決策である。度々述べるようだが、「バーチャリズム」の最終目標は、現実からの「バーチャル世界」の独立であり、度々述べるようだが、これは精神的な「独立」である。これは、バーチャリズムが思想として一定程度広く認知され、思想として一定の力を持つようになれば、それは可能だと考える。つまり、思想が思想である以上、最終的には多くの人間に認知され、一般化されることを目指すわけである。
 そして、人々に広く認知され、その価値観がもはや当たり前の事となり、わざわざ問い直されることのない段階に至って、バーチャリズムは「忘却される」事を目指すのである。つまりしばらくの間、ジレンマを抱えたバーチャリズムは「一過程」のものと容認して、「現実を想定しない」「バーチャル世界の独立」という価値観が浸透し、わざわざバーチャリズムが再考されるまでもない状況になって、バーチャリズムは忘却される。このことによって、バーチャリズムは真に完成し、ジレンマは解消されるというわけである。
しかし、筆者自身これは先に述べたように、いささか安易な解決策であり、「一過程」においてもジレンマを容認し続ける事はやはり問題があると考える。

 第二の解決策は、少々間接的な解決策である。逆に「現実」そのものを、思想、哲学によって、相対化し、今現在我々の前に絶対的に横たわる世界の根幹である「現実」を矮小化させることによって、「現実」そのものを問い直すという策である。
 
つまり、我々が「想定してしまう」現実を、今一度疑い直し、相対的に「バーチャル世界」の地位を高めるというものである。
 今の所、バーチャリズムを、哲学のトピックである「実存主義」およびマルクス・ガブリエルの「新実存主義」と関連付ける事によって、この第二の解決策を推し進めようとしている。

 第三の解決策は、逆説的な問いかけである。それは、「私達が想定するであろう「パーソン」はイコール「現実」なのか?」という問である。
 我々がどこかに「パーソン」を考える時。インターネットという「バーチャル世界」を通して、「その人」を見る時、「パーソン」を想定してしまうとしよう。しかし、この「パーソン」は「現実」なのであろうか。これだけではいささか分かり難いであろうから、詳しく述べる。

 さて、我々は普段から場所場面ごとによって異なるキャラクター(ペルソナ)を演じ分けている。それは「バーチャル世界」にとどまらず、あるいは「インターネットという匿名空間」でも、「現実」における様々な場面でも、多かれ少なかれ無数のキャラクターを場面ごとに演じ分けている。そういう意味では、現段階の世界にはインターネット上に既に無数の「バーチャル・キャラクター」が存在する。
 はたして、我々が、「バーチャル・キャラクター」に何らかの「パーソン」を想定してしまったとして、それは現実においていかなる「キャラクター」であるのかという事は、甚だ不明瞭である。存在するであろう無数の「キャラクター」あるいは「ペルソナ」、その中から、およそ「現実」に属するであろう「ペルソナ」を曖昧に想定しているに過ぎないのではないか。

 もっと言えば、我々は何をもって「パーソン」を想定するか。例えばどんな顔をしてどんな振る舞いをしているのか。
 だが、顔、つまりルックスが気になるというのは、言ってしまえば、邪推であるというか、やや邪な感情でしかない。それを排しても、何ら問題はないわけであるから、このことについては、我々の邪な好奇心の産物であると言える。
 もっと言えば、我々が収まっている身体というものは、たまたま生まれついた箱でしかない。そしてVtuber、および「バーチャル存在」として、もう一つの「アバター」という箱に収まる。どちらが本当なのだろうか? どちらも本当なのであると考える。だからこそ、「バーチャル存在」として、その箱を前面にした存在に対して、もう一つの顔を暴くという行為は、道徳的に問題がある。
 ここで道徳という言葉についてもきちんと定義しておかなければならない。
 道徳的とは二種類あると考える。すなわち、我々が、感性によって身につける道徳と、理性によって後付けされる道徳である。「人間は社会的動物である」というのは、アリストテレスの言葉であるが、我々人間は、大脳の発達によって、一定程度の理性を有する。この事に基づく、他者に対する「加害的欲求」を抑える理性が、自然的、普遍的道徳であると考える。
 一方で、それを越えた、もっと何か、より「立派な人間」として、足し算的に求められる、しばしば生まれついた社会集団の価値観に基づく、後天的道徳は、必ずしも強制され、なおかつ堅持すべきものではないと考える。そのことは、しばしば別の社会集団に対して衝突を招く事があるからである。
 では、人の隠しているもう一つの顔を暴くという行為に対する道徳とは、どちらに属するか。これは前者の自然的、普遍的道徳であると考える。即ち、それは自身の知的好奇心というエゴイズムを他者に押し付ける事による「加害的欲求」であり、なおかつ、それを排したところで、自身には何らの損はないからである。
 これらのことから、筆者は、わざわざ、他者のもう一つの顔を暴くという行為については、はっきりと批判する。
 
 やや話がそれたが、本題に戻る。
 もう一つ、我々が気になるという「振る舞い」という面については、我々が「想定してしまうパーソン」、「求めてしまう、知りたいパーソン」とは、イコール現実ではなくて、そのキャラクターの「正体」なのではないか。
 つまり、いわゆるその「キャラクター」における「素の人格」ではないだろうか。

 だが、果たして人間に、「素の人格」、あるいは「正体」などあるのだろうか。

 あるいは、「インターネット」、「バーチャル世界」においての姿形にとらわれない自由な振る舞いこそが、その人間にとってのもっとも「素」に近い振る舞いなのかも知れないのではないか。現実の振る舞いこそが、何かを演じている姿なのかもしれないのではないか。そういったことを考えた時、はたして「パーソン」とは何か。非常に曖昧なのではないか。我々が目の前の「キャラクター」がわからなくなった時に、理性によって、とりあえず「現実」における「パーソン」という、「現実」の存在の絶対性に根ざした確からしい何かを求めているだけなのではないか。

 我々の理性は、曖昧さを嫌う。感性によって得たものを、理性によって説明しようとする。わからないものをわからないままに、曖昧にしておくことは理性にとって難しいのである。だからこそ、バーチャル・キャラクターに、その向こうにいる何かを求めようとする。正体を求めようとする。しかし「正体」などあるのだろうか。何が人間の正体か? 常にそれは相対的なものでしかない。

 そしてそもそも「現実」そのものが疑わしいものであるということを、筆者は考えたい。それは次節にて、詳しく述べる。

「現実」とは何か ~甚だ不明瞭な「現実」~

 バーチャリズムを考える上では、「現実」そのものを疑い、問い直さなければならない。それは決して現実逃避ではない。むしろ我々がこれまで生きていた中で、「とりあえず所属していた世界という名の領域」でしかない「現実」に対して、現在において「バーチャル世界」というもう一つの世界が形作られていくのにあたり、翻って現実世界そのものを疑い直すことは、むしろ自然なことではないのかと筆者は考える。

 我々が日頃目にし、捉えている「現実」および「世界」とは、非常に近視眼的で、曖昧な何かである。「胡蝶の夢」や「水槽の脳」ではないが、そういった哲学的思考実験を行うまでもなく、我々が「現実」及び「世界」を認識する構造というものは、歴史的に変遷し続けてきた。

 実存主義的に考えてみよう。「現実」とは何か。物質世界のことであろうか。しかし、我々の認識する「現実」とは、もっと人間にとって都合の良い存在である。なぜならば、我々は「現実」を認識する時に、「現実」と言われる物質世界の構成要素、あるいは全世界を捉えることはしないし、出来ないからである。

 人間の認識する「現実」とは価値観によるものであり、あるいは人々が物理的技術的、あるいは個人が有する感覚によってに認識可能な「世界」の範囲による。あるいは、科学技術の発展において、物理的法則が発見されつつあった近代によって、初めて物質世界イコール「現実」という「現実」の絶対性が担保されたとも言える。

 前近代、交通網、情報網の発達による「世界の一体化」以前においては、いくつもの世界が並立していた。「東アジア世界」「ヨーロッパ世界」「中東世界」と言った、いくつもの個別的な世界の中で、当然価値観による「世界」あるいは「現実」に対する捉え方も異なっていた。
 また、様々な宗教的価値観に基づく、天国であるとか地獄であるとか、来世だとか前世だとかといった複数の「世界」が人々にとって真剣に想定されていた。前近代の価値観において、彼らが、そういったもう一つの「世界」を考え続けていたのは、現実逃避であろうか。否、彼らの価値観に照らし合わせれば、それは自然なことであった。
 来世や前世、それらは証明不可能なものであるが、そもそもそれが証明不可能なものであると考え出されたのは、近代における発明である。ニーチェの唱えた「神の死」あるいはM.ウェーバーの言うところの「世界の脱魔術化」によるものである。

 「現実」と呼ばれる物質世界が我々人類の目の前に常に横たわり続けたのは事実であるが、その絶対性は、時代によって揺れ動いてきた。
 絶対性を伴った「現実」というものは「近代」に発明された産物である。我々が「現実」というものの絶対性を信じて―それは幸か不幸かはわからないが―生きていられたのは、近代という時代のたった二、三百年という人類の長い歴史のなかの一瞬ではないのか。

 「世界」は、「現実」は必ずしも一つである必要ではない。一つである、一つであるべきであるという考えこそが、近代における合理主義、理性主義による産物である。

 今現在、「バーチャル世界」という、証明不可能ではない、確かにそこにある新しい世界が形成されつつある。
 「バーチャル世界」の特殊性とは、明確な人間の意志によって形作られたものであるという点である。そういう意味では、我々の認識する「現実世界」などという曖昧な、雑多な、そして不明瞭な「世界」よりも、よほど我々が、本質を求めるにしても実存を求めるにしても、適した「世界」だと考える。

 ともかく今や再び世界は一つではなくなり、現実の絶対性が揺らぐ段階に、人類は紆余曲折を経て戻ってきた。価値観は常に変遷する。現代は「歴史の終わり」ではない。依然として価値観は変わっていくであろう。

 「バーチャル世界」の登場によって、ようやく長い近代は終わった。そして、現代という時代の課題として、我々は「現実」というものの存在を、今一度疑い直す段階に入ったのではないか。

バーチャリズムの描く未来

 インターネットが登場した時から、我々は「バーチャル世界」で多かれ少なかれ現実とは違った振る舞いを行ってきた。現実ではないものの価値は、近年において、ますます高まり続けている。
 紆余曲折を経て現代において現実社会に残されたものはなにか。物質主義と競争社会、実利主義でしかない。そういう意味では、もっと何か、もっと違う何かを現実でない世界に求める事は、必然的な流れであると考える。それを現実からの落伍と考えるか? 否、そうではない時代がやってくる。そしてバーチャリズムはその事を肯定する。

 筆者が思い描くバーチャリズムによる未来とは、ドラスティックな「バーチャル革命」である。「バーチャル」とは何か? それは全てであると、そう言い表される時代が来る。それは突飛な発想であろうか? いや、現段階で既に世界はそうなりつつあると考える。
 それと同時に、現在の世界における価値観の多様化、個人の尊重という潮流に合わせて、我々が想定する現実という何かは、個人の数だけ現実があるという考えが浸透すれば、ますますその不明瞭さを増していく。相対的に、いやむしろ「バーチャル」は逆に、技術的な確立とともに、「バーチャル」こそますますその存在感を増していく。
 少し空想してみれば、「現実」を「バーチャル」が追い越した未来の世界では、我々は普段「バーチャル」に生きて、たまたま、気まぐれにゴーグルを外した時に、不明瞭な現実という何かを目にして、夢を見ているかのように、その存在に疑問を抱くのではないだろうか。

 さて、技術的発展を概観すれば、IT技術、特にバーチャルと「人工知能」に関連する技術はますます発展していくであろう。特に来る「人工知能時代」、第四次産業革命とも言われるこの現象は、我々の社会を根本から揺るがす可能性を秘めている。「技術的特異点」、いわゆる「シンギュラリティ」というものがやってくるかはともかく、遅かれ早かれ人工知能は少なくとも「人間と同程度の能力」を有するまでには進歩するであろう。そうなれば、人類の大半は失業し、必然的に現段階の資本主義社会は見直されざるを得なくなる。

 問題なのは、その後の世界である。現段階において、「その後の世界」に対しては、楽観的なものから悲観的なものまで様々である。
 その後の世界が、我々にとってユートピアになるためには、従来の価値基準を覆すに値するだけの確固たる思想が必要であると考える。何らの道しるべもなしに、我々が「革命」を迎えれば、その後に待つのは大混乱であろう。我々は予め、魅力的な世界のロードマップを描き、準備しておかなければならない。その答えの一つが、「バーチャル世界の独立」、つまり「バーチャリズム」である。

 来たる近未来、「人工知能革命」と「バーチャル革命」という二つの革命が起こる。予測された「革命」など、今までにあっただろうか。遅かれ早かれやってくる「革命」を、我々は受け入れる準備をしなければならない。なるべくならば肯定的に。

参考サイト

文中で既に貼ったものは省略する。


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