祝50周年!矢沢永吉の音楽家としての凄さを語りたい!Part2

TBSラジオで毎週金曜日8時30分~午後1時まで放送の「金曜ボイスログ」
シンガーソングライターの臼井ミトンがパーソナリティを務める番組です。
 
このnote.では番組内の人気コーナー
「臼井ミトンのミュージックログ」の内容を書き起こし。
ちなみにyoutube版では動画も公開しているのでそちらも是非。

キャロルからソロアーティスト「矢沢永吉」に転身 

先週矢沢永吉さんについて話そうと思ったらソロデビュー前で時間切れになってしまったもので、本日はソロデビュー後の話でございます。
 
キャロルというバンドで一躍スターダムにのし上がった永ちゃんですが、
たった3年くらいの活動でこのバンドは解散してしまいます。
メンバー間で確執があったとか、音楽性の違いとか、まぁおそらく当事者にしかわからないような色々なことがあったんでしょう。
 
1975年にキャロルは日比谷野音で華々しく解散ライヴをやりまして永ちゃんはソロアーティストに転身します。
先週のキャロルの話では、ロックンロールという音楽に日本語を乗せたという点でキャロルはパイオニアである。という話をしましたけども・・・
ソロアーティストとして再出発した永ちゃん。ソロ時代はソロ時代で非常にエポックメイキングなことに取り組んでいまして、主に2点あります

1つは矢沢永吉が自分自身で権利を管理したこと

まず一つ目は、肖像権とか印税とか、そういうアーティストとしての権利を自分自身でちゃんと管理をしたという点。
 
バンドが解散してソロデビューする際に、彼は事務所をやめてレコード会社も移籍しました。これは何故かというと、キャロル時代にかなり不利な契約を結ばされていたことにあとになって気づいたからなんですね。

以前このコーナーでElvisの話をしましたけど、やっぱり芸事の才能を持っている人、タレントが、芸能界や音楽業界に搾取されるっていうのは古今東西問わず、よくある話なんですね。
 
でも永ちゃんは、かなり早い段階で、自分が業界の大人たちに搾取されているということに気付いた。だからこそ、事務所スタッフも総入れ替えして、レコード会社にも手切金を払ってキッパリとやめてもっと条件の良いところへ移籍したんです。
 
それと、いわゆるグッズ販売。永ちゃんと言えばE.Yazawaと書かれたタオルが有名ですが最初は人任せにしていたみたいなんですよ。
でも、あるとき、自分に渡される取り分がとても少ないということを知って、グッズ販売も全部自分で仕切るようになる。
 
さらにはコンサートの興行打つのも地方のイベンターに丸投げにしないで、自分の会社で制作を仕切る。これもやっぱり、最初は間に入った会社に中間マージンを騙し取っていたり、そう言う自分自身での失敗経験があって、
こういうことを全部自分で管理し始める。

これって、Elvisの映画を観た人にはよくわかると思うんですけど、全部マネージャーのパーカー大佐に搾取されていた部分なんですよね。あるいは最近サブスク問題で山下達郎さんが嘆いていた、創作活動に直接関わらない人ばっかりが儲けているのが許せないっていう、この芸能の世界におけるクラシックな問題点を彼は、自らビジネスマンとして手腕を奮うことで解決していった、と。

今でこそアーティスト自身がグッズ販売とかオンラインサロンとかインディペンデントに多角経営して利益を生むっていう形は当たり前になりつつありますけど、70年代当時の古式ゆかしい日本の芸能の世界、音楽業界でこういうことをやるっていうのは物凄く革新的なことだった。
 
ビジネスマンとしてお金周りもしっかり取り仕切る彼の姿をみて、こんなのロックスターじゃない。って言うふうに批判的に見たロックファンも多かったみたいですけど、そういう大きな業界のシキタリとか慣習に堂々とNoを突きつけて、新しい枠組みを作ってゆくっていう彼の姿勢こそがロックそのものなんですよ。
既存の枠組みへの反抗。業界のしきたりにただ文句を言うだけじゃなくて、自ら行動を起こしてそれをブチ壊していくっていう、これぞロックンロールですよ。 

もう一つが海外進出を狙ったこと

そして、僕がもう一つ永ちゃんがパイオニアだな~と思うのは、
海外進出を狙ったと言う点ですね。
 
実は、キャロルの解散ライヴと並行して、既にソロキャリアの青写真を色々と描いていた永ちゃんは、キャロルでの活動で得た印税やギャラを全てブチ込んで、さらには移籍先のCBSソニーからギャラを前借りして、全部自費でロサンゼルスでソロアルバムを制作するんですね。
 
それが1975年の話で、もちろんこの頃っていうのは日本の経済が右肩上がりで、海外でレコーディングするアーティストっていうのもチラホラ出て来てる頃ではありました。
五輪真弓さんとか、赤い鳥とか。でも、それってあくまでも、レコード会社が御膳立てして、お金もレコード会社が出してやっていたことなんですね。あるいは山下達郎さんがSugar Babeを解散しソロアルバムを出すにあたり、契約の条件として海外でレコーディングさせてくれって提示していたのがちょうど1975年。
 
そういう時代において、リーゼントと革ジャン着てロックンロール歌って
自分で稼いだお金を全部つぎ込んでロサンゼルスにソロデビューアルバムを録りに行くっていうその心意気ですよ。
 
ちなみにキャロル時代の不良ロックンロールを期待していたファンからは、このロサンゼルスで録って来たちょっと大人びた都会的なウェストコースト風味のロックっていうのは大ブーイングを浴びたんですが、彼はへこたれなかったんですね。
 
海外デビューっていう条件を提示したワーナーパイオニアというレーベルに移籍します。このレーベルの親会社はアメリカのワーナーブラザーズで、
そのコネを活かしてアメリカでもレコードを出してあげるよっていう条件を永ちゃん側に提示して、永ちゃんはそれに飛びつく。

そして、その本国のワーナー所属のバンドであるDoobie BrothersとかLittle Featの面々と永ちゃんは全編英語詞のアルバムを制作して、全米でもデビューすることになる。
 
ところが、このアルバムはアメリカでは残念ながら全く売れませんでした。この音楽コラムで以前お話ししたように、アメリカのショービズ界というのは英語の発音に対して異常なまでに保守的でして、アクセント(つまり訛り)を一切認めないっていう土壌はもちろん、そもそもワーナーは永ちゃんの
アルバムを流通してあげただけで、プロモーションは全然ちゃんとやってくれなかったんですね。
 
永ちゃんのアメリカ進出は商業的に決して成功はしなかったけれども、
でも多くの日本人アーティストがバブルのジャパンマネーで海外でレコーディングして、それをただ持ち帰って来て日本で売っていた時代に、英語での歌唱を必死で勉強してアメリカのマーケットに向けてアルバムを何枚もリリースしたっていうのは、やっぱりシンプルにその姿勢がカッコいいですよ。
まぁYMOみたいにハナから歌なしで勝負するっていうのもクレバーな手だとは思いますけどね。

しかも、永ちゃんはLAのレコーディングメンバーで日本でライヴツアーをするために、わざわざ海外のミュージシャンを招聘するためのビザ発給手続きのライセンスまで自分の会社で取得しんです。
本当に本当に、どこまでも彼は音楽に対して誠実なんですよね。
 
ちなみに僕がロサンゼルスでめちゃくちゃお世話になっている、
Sheldon Gombergというグラミー賞受賞プロデューサーがいるんですが、
彼は何故か僕と出会ったときから異常によくしてくれて、日本食とか日本の地名にも詳しいし、大変な親日家なんですね。

で、ワケを聞いたら、永ちゃんのバンドで長年ベースを弾いていたそうで、永ちゃんのバンドではとにかく良い思い出しかない、と。
だから日本のミュージシャンはみんな良いやつ、ミトン、お前も友達!
みたいな言い分なんです。
 
永ちゃんが切り拓いた海外への道で、こんな末席のミュージシャンでさえ
恩恵を受けているってわけなんです。
 
今日は、矢沢永吉全米リリース第二弾のアルバム、「It’s Just RocknRoll」から、Doobie BrothersのJohn McFeeが作詞作曲したウェストコースト感溢れる曲を聴いてお別れです。

矢沢永吉で、「Rockin’ My Heart」

youtube版では動画で同様の内容をご覧いただけます。

 

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