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ボイストレーナーの矜持…「正しさ」を超えた先の「本質」を追求し、分かりやすく伝える

ボイストレーナーの浜渦です。ボイトレ業界も、高い声がとりあえず出て、カラオケの点数が良くて、流行りの歌い方ができれば良い…という考え方が蔓延しています。その方が分かりやすいからでしょう。

自己責任社会が定着したせいか、新自由主義社会の結果でしょうか。物事を本質や善悪よりも「正しいという解釈ができるか」「正当化できるか」という世の中になってしまったように思います。そのため、私たちも「一般化されたもの」や「普通でありたい」という願望に冒されやすくなっているように思うのです。

善悪は、哲学の先にあり、その先に本質が見えると思うのだけれど…。哲学といっても、一介のボイストレーナーである私が言うそれはたいしたものではなく、ただ単に「なぜ」を考え続けることです。

「生きることは素晴らしい」「感謝することは大切」…当たり前なようで、なぜそれらが大切なのか?それが「こういう理由で」と明文化できるものでもなく、誰かに教えられるようなものでも、世の中の規範に照らし合わせたものでもない。「ああ、これが感謝の気持ちか」「だから生きるってるすばらしいのか」と自分の底から湧き上がってくるような感覚こそ本質であって、それは「なぜ」「なぜ」と、続けていないと出てこないものだと思うのです。

私は、ボイストレーナーですが、高い声・カラオケの点数・流行りの歌い方…という考え方、実は教えるほうにこそ蔓延しています。その方がビジネスになるからでしょう。しかし、それではまるで、学校の「点数をつけやすくするための記憶力テスト的な英語のテスト対策」のようではありませんか…

「昔からそういうものだから」「世間ではそうだから」「他の誰かに比べて」では、それこそ常に誰かのうわべをなぞる人生であり、知らない間にアイデンティティを失い、マインドコントロールされたような生き方になるのではないでしょうか。それは表現の世界ではもっとも不遜なことだ思います。

なぜ声を出すのか?想いがどうのように声になるのか?それがなぜ高い声に至るのか?…そんな追求の先に、想いと肉体とが一体となって生み出されるものこそ、個人・個性の溢れる表現であると思うのです。個性とは、奇をてらったものであってはいけません。その人だけの、その人にしかできないものでありながら、動物としてのバランスや人間としてのギリギリの品格や特性は残さねばなりません。

…と、言いましても、それが精神論や根性論になっては論外ですし、だからと言って「こうやったら上手く聞こえる」みたいな、個性を殺すような教え方は(非常に容易ではありますが)それこそ、不遜、善悪の悪だと思います。表現の本質をレッスンでお伝えするのは、容易ではありませんが、ボイストレーナーの技であり、矜持であり、責任であり、いま私にできることだと思うのです。

私の場合、どうすればそういう人間の「底力」や「論理では説明のつかないような感動」が溢れるような表現に繋がるか、驚きの再現や、人が実生活で取り得る行動の再現、ジェスチャーなどで呼吸の見える化などで具体化して、そのあとに論理で「実はいま体はこんな動きをしていたんですよ、それを一般には〇〇発声などと言われているんですよ」と説明をします。実は、この教え方は、初心者ほど「分かりやすい」といってくださる一方、長年、歌の世界でいろんな常識を持たされてしまった方こそ必要なことなんです。

…やがて生徒さんが個性溢れる、すばらしい表現ができるようになり「私って本当はすごい!?」「ああ、歌うって、本当はこういうことだったんだ」「歌は嫌いだったけど、なんか歌わずにはいられない気持ちになってきた」と私に言ってくれた時「ああ、この道を追求してきてよかったな」と心底思えるのです。

…自分の個性とからだを生かして気持ちを伝え、たくさんの人と主義主張を超えて空間を共有できる…そんな人が増えたら、そんな世の中はきっと素晴らしい…それを歌や声を通じて呼吸を通じて、分かりやすくお伝えしていければ…。

さて「検察庁法改正の強行採決」がいよいよです。どうすれば「これが正しいことと解釈できるか」という動きなら、それは本質から外れた、善ではない行動ではないだろうか…個人的にはそう思うのです。※さきほど「週内の衆院通過を見送る方針」との速報が出ました。(5月14日現在)


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