紙幣刷新、福沢諭吉と渋沢栄一は仲が悪かった?
2024年7月3日からいよいよ新紙幣が流通開始となりましたね。
前回の紙幣切り替えは2004年11月のことでしたから約20年ぶり。
一万円札に描かれてきた福沢諭吉に関しては1984年11月に聖徳太子から変わって以来でしたから、実に40年に渡って日本の最高紙幣の文字通り「顔」として親しまれてきたことになります。
福沢諭吉といえば『学問ノススメ』や慶應義塾大学創設、「天の上に人を作らず、人の上に人を作らず」などの名言でも知られる幕末~明治時代を代表する教育者であり、啓蒙*思想家の一人でもあります。
今回は1万円札の肖像画に長く描かれてきた福沢諭吉と、新一万円札の肖像画に描かれることになった渋沢栄一。
2人の幕末から明治時代にかけて歩んできた半生と接点を、時代背景と共に振り返ってみたいと思います。
福沢諭吉
幼年期~青年期
福沢諭吉は大阪・堂島で豊前国中津藩(現:大分県中津市)の下級武士(勘定方で儒学者)の五人兄姉の次男として生まれました。中津藩は身分に厳しい藩で、父:百助は殆ど出世することなく、諭吉が1歳の頃に45歳の若さで急死。
苦しい生活の中でもどうすれば良い藩政が行えるかを儒学に見出そうとした百助が弟のように可愛がっていたのが儒学仲間で、自分より14歳年下の中村栗園でした。
百助は中村栗園を高名な儒学者たちに引き合わせ、水口藩(現:滋賀県甲賀市)の儒者に推薦したのも百助ら仲間の推薦があってのことだったとされています。
中村栗園にとって百助の存在は兄のごとく大きく、福沢家の遺族が百助の遺骨を抱えて帰る際、まだ幼かった諭吉を抱きかかえていたとされています。
百助亡き後、中村栗園は福沢家の幼子たちにとって親代わりに支援してくれたとされています。中村に子がなく、自分を慕う諭吉を養子に迎えたほどです。
こうした幼い頃の経験が、後に欧米で生まれた相互扶助の仕組み「保険」(請負)を日本に紹介した福沢諭吉の原点と考えると非常に感慨深いものがあります。
福沢諭吉は19歳の頃に兄の勧めで長崎へ遊学し、蘭学と出逢います。
オランダは当時、スペインから独立をして海運力で制海権を支配していました。
世界初の株式会社とされる東インド会社はイギリスとされることがありますが、オランダの東インド会社は英国の東インド会社のように航海のたびに解散せず、資本をそのまま次の航海に投じる「複利」の効果を用いて急成長していました。
日本では当時ペリーが来航するなどによって日本中が開国か、外国と戦争が始まるのかと危機感を感じていた時代。
諭吉もオランダ流砲術や鉄砲の設計この頃にアルファベットも同時に学んだとされています。
20歳で蘭学者:緒方洪庵が大阪船場に開いた「適塾*」で学んでいる時、21歳の時に兄が他界。
諭吉は福沢家の家督を引き継ぎますが、中津藩に戻っても未来はないと家族の反対を押し切って父の蔵書や家財一式を売り払い、家族の借金を清算した後で再び大阪へ出て、儒学の先輩らから借金をして住み込みで適塾で学びます。
諭吉は22歳の時、適塾の最年少塾頭となり頭角を現すようになると、翌年、江戸ではわずか石高40石の旗本だった勝海舟が幕府から長崎海軍伝習所の通訳として登用された話を聞き、自分にも通訳としての仕事のチャンスが巡って来るかもしれないと江戸の中津藩邸に出府。
江戸までの道中、中村栗園のいる水口藩を通ることになり諭吉が屋敷に顔を出すと我が子の成長を喜ぶように歓迎して泊めてくれ、幼かった頃の話、殆ど記憶にない父の事をたくさん聴かせてくれたとされています。
江戸に出ると福沢諭吉は佐久間象山の影響を受けて築地にあった中屋敷で蘭学塾「一小家塾」を開塾。
これが慶應義塾大学の前身となり、この安政5(1858)年には安政の大獄が行われています。
幕府による弾圧「安政の大獄」
安政の大獄は、大老:井伊直弼が反幕府勢力を弾圧した出来事です。
外国を打ち払って入国させない外国人の排斥を主張する「攘夷派」として水戸藩主:徳川斉昭やその息子:一橋慶喜(後の徳川慶喜)、吉田松陰をはじめとした志士、更には皇族や公家まで100名以上が弾圧された事件です。
13代将軍:徳川家定は病弱だった上に、妻の天璋院篤姫との間に子はなく、徳川家は継嗣問題で不安がささやかれていた時代。
現将軍から見てまだ13歳とはいえ、従兄弟にあたる徳川慶福(後の家茂)は一橋慶喜と並んで後継者として擁立されます。
井伊直弼率いる「南紀派」(紀州)は200年以上続いた徳川幕府の体制を維持し、外国に対しても保守的・穏健派。
彦根藩主だった井伊直弼や譜代大名、大奥などは血筋からも慶福を正統な後継者と推していました。
一方で水戸藩主:徳川斉昭、薩摩藩主:島津斉彬、越前藩主:松平慶永、土佐藩主:山内豊信など多くの外様大名が支持したのは一橋慶喜でした。慶喜を推す彼らは「一橋派」と呼ばれました。
慶喜は徳川家の血筋ではありますが、それは徳川家康まで遡ったらの話。家康の十一男:徳川頼房(水戸藩初代藩主)の子孫です。当代将軍からすればかなり遠い親戚にあたりました。
当の慶喜自身も周囲の期待とは裏腹に、将軍になる気はさらさらなく、南紀派は肩透かしをくらったことでしょう。
しかし一橋派はそれでも慶喜こそ次期将軍にふさわしいと推しました。
一つには慶喜は当時、日本最大の藩校として名高い弘道館で文武を学び、その血筋から「家康の再来」と讃えられる英明さを発揮していました。
また慶喜の母は有栖川宮織仁親王の娘、つまり慶喜は朝廷と徳川両方の血が流れているからでした。
朝廷と将軍家が対立した際、両方から挟まれてとても難しい判断を迫られることは必至。ましてや時代は攘夷か、開国かで大いに揺れていた時代…そんな面倒な責任は負いたくありません。
こうした背景によって水戸藩は朝廷の意思を重んじる「尊王」を掲げ、徳川御三家(紀伊、尾張、水戸)の中では格下として重用されることが少なかったのです。
南紀派と一橋派での激しい政争の結果、南紀派が勝利し徳川慶福改め徳川家茂が第14代将軍となることが決まります。
南紀派を率いた井伊直弼は家定からの信頼を勝ち取り、大老に任命を受けます。家定の体調不安によって事実上、幕府のトップとなります。
日米修好通商条約における将軍家からの委任を任され、朝廷からの勅許を得ようと働きかけますが、異国嫌いだった孝明天皇は「和親」は時代の流れとして許したものの、「通商*」は許可してくれませんでした。
ペリーの来航から半年後、約束通りアメリカはやって来て、新たな交渉役としてタウンゼント・ハリスが世界情勢を盾に開国を迫ってきました。
この時、既に海を挟んだ中国ではアヘン戦争によって、清国はボロボロの状態でした。
アヘン戦争では清国に2万人の死者が出た一方で、英印両軍の死者数数は計69人…海戦史上稀に見る大敗によって国家存亡が危ぶまれている中で、今度は英仏連合軍がいちゃもんをつけて中国を植民地化しようとするアロー戦争(第二次アヘン戦争)が始まっていました。
ハリスは日本が英仏に侵略されないためにも、米国がこれらより先に日本と友好な関係になる必要があると迫ってきました。
米軍の船の中で署名を迫られた交渉担当の井上清直と岩瀬忠震は、井伊直弼から「できる限り引き延ばせ」と命じられていました。
一方で、「いよいよやむなしとなった場合は是非に及ばず」とも回答していました。
なかなか決断をできない幕府側に、ハリスらがイラつき始めるとアロー戦争が一時停戦をしたとの連絡が入り、ハリスは「英仏がいよいよ日本に攻め込んでくるかもしれない…」と脅し揺さぶりをかけました。
こうして1858年6月19日に日米修好通商条約は締結され、ハリスが初代駐日領事に就任。井伊直弼の元にその報が届きます。
驚いた井伊は幕府の実質的トップである大老の職を辞して責任を取ろうとしますが、一橋派が盛り返すことを恐れ周囲から止められたとされています。
そして勅許を得ないまま条約に調印したことを嵩に、一橋派が幕府を批判することをさせないために弾圧という方法を取ることにします。
同年6月24日、一橋派の越前藩主:松平慶永は井伊直弼の屋敷を尋ね、勅許のないままの条約調印と将軍継嗣問題について言及。
更に水戸藩主の徳川斉昭とその長男の徳川慶篤、尾張藩主の徳川慶勝らと江戸城に登城し、井伊直弼や老中たちを批判・詰問。江戸城は大混乱に陥ります。
しかし井伊直弼らはこれをのらりくらりと交わし、当時の江戸城は登城日が定められており、この日は事前の許可なく登城してはいけない日でした。
逆に江戸城を混乱させた不始末を一橋派に問い、謹慎、隠居、当面の登城禁止をする旨を言い渡します。またこれに端を発し、南紀派に反対・抵抗する公卿・大名ら尊王攘夷*派の志士に至るまで弾圧、処刑されました。
一橋慶喜も井伊直弼のこうした決定に対して物言いをしました。
調印をしたことそのものではなく、朝廷に報告するにあたって、使者を遣わせることもせず、手紙だけで報告に留めるのはいかがなものか、と。
その一方で一橋慶喜は井伊直弼を「才略に乏しいが、決断に富む」と評し、自分自身にはない決断力を羨んでいるとも思える評価をしています。
安政の大獄はその1年半後の1860年、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されるまで続きました。その間の犠牲者は100名以上とされ、日本史上稀に見る弾圧事件とされています。
またこの弾圧下、幕府の通訳方として二度の渡欧・渡米を果たした福沢諭吉は29歳を迎え、大阪に帰る途中で水口藩の中村栗園邸の前にさしかかりました。
中村栗園は当時58歳。既に晩年を迎え、あちこち飛び回っている福沢諭吉とはあれから6年も会っていません。
今や中村栗園は水口藩の儒者として、軍備強化を提言。列強が開国を迫ってくる中において藩校である翼輪堂を開校し、文武両道を目指し多くの後進を育てていました。
血気盛んな青年藩士の中には武力行使に出る者もいて、改革派は家老を暗殺したりすることもありました。
京都にほど近い水口藩はこうした藩士たちをまとめ尊王攘夷を掲げて京都御所9つの門の一つ下立売御門を警護するなどの役を担いました。
また水口藩は幕府から天誅組の鎮圧命令を受けても消極的な態度を示し、長州再征を促されても、その従軍を拒否していました。
水口藩の方針は尊王攘夷…あくまでも朝廷こそが仕える守るべき側で、外国勢力は排除しようという動きの中で、若い藩士たちが暴動を起こさないようにギリギリまとめていました。
もしここに、幕府の通訳方を務める福沢諭吉が中村栗園を尋ねたらどうなるだろうか?
中村は6年前と同様にきっと歓迎してくれるだろう…けれど、出入りしている若い藩士たちはどうだろうか?何をしでかすか分からない。
「立ち寄ればとても助からぬと思って、不本意ながらその門前を素通りし」たとされています。
その後、福沢諭吉が中村栗園と会う機会には恵まれず、この時、門前を素通りしたことは生涯心残りな出来事になってしまいます。
中村栗園はその後、明治2(1869)年に版籍奉還によって水口藩主が藩知事になると、大参事(現:副知事)に任命され、明治初期の藩政にあたりました。
藩校:翼輪堂は尚志館と改称。
四書五経のみならず、福沢諭吉の著した『西洋事情』などを教え、「他国ニ出ル者ナシ」と言われたほどでした。
※尚志館は明治5(1872)年の学制頒布*をもって廃校。
中村栗園はその後、職を失った多くの士族を小学校の教員として推薦し、彼らの生活を救います。
明治11(1878)年と明治13(1880)年、明治天皇が水口を通過する際に拝謁を賜り、明治14(1881)年に病気のため76歳で亡くなりました。
渋沢栄一
一方、渋沢栄一は1840年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)で農家の長男として生まれました。
幼年期~青年期
父:市郎右衛門は血洗島の有力農家だった渋沢家の分家で決して裕福な家ではありませんでしたが、近隣農民を束ねて農業に加えて藍玉の製造・販売、養蚕、米・麦、野菜などの生産・商売を始めました。
これによって家勢を取り戻し、姉の嫁いだ尾高家の窮状を支援するまでとなり、藩から苗字帯刀が認められ村役人にまで昇進します。
通常の農業に加え、算盤をはじく商売の才覚が求められる生家のこうした環境が”日本の資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一を育てたのかもしれません。
市郎右衛門は四書五経、漢詩、俳諧などを親しみ、栄一に5歳の頃から教えていたとされています。
10歳年上の従兄にあたる尾高惇忠が『論語*』を始めとした四書五経や『日本外史』に詳しく、学ぶために尾高家に通っていたとされています。
そこで1歳年下の尾高千代とお互いに意識するようになり、18歳の時に結婚。当時としては珍しい恋愛結婚だったとされています。
21歳の頃に江戸に出て徳川300年屈指の儒学者と呼ばれた海保 漁村の門下生となり、また剣術では北辰一刀流の千葉道場へ入門。勤皇の志士と交友を深めます。
この頃、惇忠は水戸学の影響を大きく受け、強烈な尊王攘夷思想を持っていました。栄一も江戸遊学下でこれに感化され、幕府というよりは朝廷を重んじる外国人排斥に傾倒。今でいえばクーデターやテロに近いことも従弟らと試みますが、惇忠の弟:尾高長七郎の説得により中止。
それでも親族に迷惑をかけないようにするために父から勘当を受けた体裁を取り、従弟の渋沢喜作と京都へ上洛。
時代は桜田門外の変で尊王攘夷派が井伊直弼を失い混乱をしていた時期。
一橋家は自前の兵力を持っていなかったこともあり、江戸遊学の頃から交際のあった一橋家の家臣:平岡円四郎の推挙により、渋沢栄一・喜作は共に一橋慶喜に仕えて、一橋家領内の農民に声をかけ農兵を結成し朝廷の警護にあたりました。
渡欧~帰国
しかし第14代将軍:徳川家茂が20歳で急死すると、一橋慶喜改め徳川慶喜が第15代将軍として将軍となります。
慶喜のお抱えだった栄一らは幕臣となり、慶応2(1866)年の暮れに慶喜の弟:徳川昭武の随員としてフランスで開かれた第2回パリ万博へ随行の機会を得ます。
この時にヨーロッパを歴訪し、その際に通訳を担ったアレクサンダー・シーボルト*から西欧の様々な事情を学びます。
シーボルトによる案内で各地を回り、先進的な産業・諸制度を見聞。近代社会の在り方を目の当たりに感銘を受けた渋沢栄一は日本の近代化に必要なものは何かを考えるようになります。
徳川昭武はこのままパリに留学をする予定でしたが、慶応4(1867)年に大政奉還を受けて帰国することが命じられ、栄一らとともに帰国。
1年半の滞欧中にすっかり西欧に感化された渋沢栄一は髷を切り、和装から洋装へと姿を変えており、パリから送られてきた写真を見て妻:千代は嘆いたとされています。
滞欧中に栄一が特に気に入ったのは写真にもある山高帽で、後に日本でもこの帽子が作れる技術が欲しいと日本制帽(後の東京制帽、現:オーベクス)を設立しています。
大蔵省時代
帰国後、駿府(現静岡市葵区)で謹慎をしていた徳川慶喜を尋ねた渋沢栄一は、「これからは自分の道を行きなさい」と言葉を掛けられ、これまでの恩に報いるために静岡藩に出仕し、フランスで学んだ株式会社制度の実践、新政府から石高を70万石に減らされ財政悪化していた静岡藩の借入金返済のために奔走。
1869(明治2)年、官民合同の出資を募って「商法会所」を設立。ここで渋沢栄一は他の地域の穀物などを買付、静岡からは特産品の茶などを販売して流通を拡大させる現代でいえば商社のビジネスモデルをいち早く実現。
しかも商法会所は、商品を担保にそれぞれの農家や販売先に資金貸出を担う「銀行」としての役割も兼ねており、会所の収益は出資金に応じて分配されるまさに株式会社そのものの仕組みを体現。静岡藩の経済復興に大きな役割を果たします。
商法会所の船出と同年、29歳の時に明治政府から静岡藩に出向者を出すよう促された際に、元駿府藩の藩政を担っていた旧幕臣(中老)の一人で東京府知事だった大久保一翁*に相談。
一度は断りますが、再度通告をしてきた大隈重信に促される形で自らが東京府(大政奉還の翌年に江戸から改称)へ出向きます。
大隈重信は大蔵官僚で幕末に貿易を担った郷純造による推挙で徳川昭武と共に渡仏した渋沢栄一と杉浦譲、後に「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密らを登用しました。
渋沢栄一は大久保一翁によって新政府の民部省*(現:財務省)の改正掛に配属されます。
改正掛は明治政府に制度の提言を担う部署で、ここで度量衡の統一、電信や鉄道の整備計画、郵便制度の創設、殖産興業の推進、廃藩置県の提言が行われ、実現しなかったものの遷都、戸籍法や地租改正、身分解放なども提唱・議論が交わされました。
この当時(1860年代)、ヨーロッパでは産業革命によって絹などの製糸業の工業化が急速に進んでいましたがこの中心地だったフランスでは蚕が感染する伝染病(微粒子病と軟化病)でほぼ壊滅状態となっていました。
フランスの基幹産業であった製糸業が危ぶまれていたところに、日本の蚕は病気に強く、また品質が高い事が分かりました。
パリで観たあの美しいシルクの生地、あれを日本であれば作れるかもしれない…渋沢栄一は群馬県の蚕を養殖するのに適した気候と環境に白羽の矢を立て官営の富岡製糸場の建設を提唱、設立に携わりました。
官僚として権限を持った渋沢栄一は戊辰戦争で旧幕府陣営として投獄された従弟の渋沢喜作を出獄を引き受け、自らフランスから技師を手配して立ち上げた富岡製糸場の初代場長として従兄の尾高惇忠を指名しました。
前島密
渋沢栄一と共に登用された前島密は、郷純造と共に郵便制度を確立。
郵便に関わる「切手」「葉書」「手紙」「小包」「為替」「書留」などの命名を行いました。
郵便事業の開始から4年後の明治8(1875)年には郵便為替、同年には郵便貯金を開始し、今日の日本郵便の基礎が確立します。
また国内ではまだ前例のなかった鉄道建設に、登用から僅か2年後に開業した新橋(現:汐留)~横浜(現:桜木町)までの鉄道建設費と収支の見積もりを苦心して作成。外国人技術師たちが合流するとその綿密で的確な計画案に驚いたとされています。
明治4(1871)年、欧米社会を参考に広く世間の出来事を伝える新聞が日本国内でも重要であると考え、郵便事業における新聞雑誌の低料金での取り扱いを開始。更に出版社を誘致して郵便報知新聞(現:報知新聞)を創刊させるなどにも携わりました。
その他にも、郵便事業を補完するために明治5(1872)年には陸運元会社を創設、これは現在の日本通運株式会社の前身となります。
また海運でも同年に岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社(三菱商会)を大久保利通を通じて支援し、この会社は今日の日本郵船となっています。
前島密は大隈重信の発意によって設立された東京専門学校(現:早稲田大学)を支援し、明治20(1887)年には校長に就任。まだ私学が社会に広く認知されていなかった学校経営の財源も乏しかった時代にこれを退いたのちも支援し続けました。
榎本武揚
明治23(1890)年、東京-横浜間で国内初の電話交換業務が開始されました。
この時の電話事業は郵便事業と同じ逓信省管轄で、大臣は榎本武揚。
榎本に依頼されて前島密が逓信次官に就任すると、官営に向けた合意で電話事業が開始されました。
これがのちの電信電話公社の原型で、現在のNTTの前身になります。
戊辰戦争(函館戦争)で蝦夷共和国初代総裁となり、英仏と外交を重ね味方に引き込もうとし、土方歳三と共に戦った反政府陣営で活躍した人物でした。
函館戦争後、東京へ護送され投獄。長州藩出身者らから厳罰が求められている中で、榎本武揚の統率力や政治手腕を評価して助命活動を行った一人が福沢諭吉でした。
榎本武揚と福沢諭吉には面識はありませんでしたが、榎本武揚は福沢諭吉と遠縁の関係。しかも福沢諭吉の元上司にあたる外国奉行:江連堯則の妻は榎本の妹という間柄でもあり、糾問所(現在の裁判所)に掛け合ったとされています。
特赦により出獄、そして謹慎を経て放免されると、福沢諭吉と共に助命を求めた薩摩藩出身の黒田清隆*は榎本を北海道開拓使に任命。
榎本は北海道鉱山検査巡回を命じられると石狩炭田などの発見につながり、日本の昭和中期まで続く資源採掘に大きな光をともします。
明治7(1874)年に閣議でロシアとの領土交渉使節に任命され、駐露特命全権公使へ。更に日本最初の海軍中将に明示され、パリ、オランダ、ベルリンを経てロシア・サンクトペテルブルクに着任。
ロシアの外務大臣と交渉を重ねて樺太・千島交換条約を締結するなど今日まで続く大きな外交面での功績も残しています。
銀行家として
民部省が大蔵省と統合(合併)された後、大久保利通や大隈重信の予算編成と対立して退官した渋沢栄一は、官僚時代に井上肇やアレクサンダー・シーボルト、その弟のハインリヒ・シーボルトらと共に自ら設立を指導した第一国立銀行(現:みずほ銀行)の総監役に就任。
日本初の銀行の創業に伴って、三井組(現:三井住友フィナンシャル)や小野組など当時の豪商を大株主に引き込み資本を出資させて設立。
しかし小野組が政府の急進的な為替に対する担保の引き上げなどを行ったことを受けて破綻すると、三井組による独占状態も危ぶまれる事態となりました。
この時に小野組の古川市兵衛が私財を投じてこれを収拾させるとなんとか窮地を乗り切り、渋沢栄一自らが第一銀行の頭取となり、民間への融資に基づく銀行業の基礎を確立します。
古川市兵衛はその後、古川財閥を作り足尾銅山買収やドイツ:シーメンスと協業で富士通を立ち上げ、明治から現代に続く大企業*を育てる土壌を育てていくことになります。
その後、渋沢栄一は全国で国立銀行が立ち上がると、それらの銀行に対する支援も第一銀行は行い、郷里である埼玉に熊谷銀行(埼玉銀行、現埼玉りそな銀行)が設立されると、これも支援しました。
全国にはこの当時、国から銀行業の免許を発行された順番で名前を付ける慣習がありました。これを「ナンバー銀行」と呼び、昨今の合併などによりでかなり数は少なくなりましたが今も存続している銀行もあります。
(宮城県の七十七銀行など)
更に半官半民の特殊銀行が設立されるようになると、日本勧業銀行(第一勧業銀行)、日本興業銀行、北海道拓殖銀行などいずれの設立委員として開業を指導。
これらは現在は全て「みずほ銀行」に統合されています。
みずほ銀行というとATMのシステム障害やトラブルで合併後に大きな混乱が有名ですが、それはそれぞれの銀行システムがそれぞれにバラバラなベンダーによって設計されていることが指摘されています。
しかし多くの銀行がそれぞれ独自にシステムを構築するという仕組みによって発展してきたものの統合が難しいのであれば、三菱UFJや三井住友銀行などの統合も相応の苦心はあったもののここまで長く尾を引いてはいません。
みずほフィナンシャルグループに限らずメガバンクは財閥系に分類する事のできます。
こうした財閥グループの力関係を考慮した時に、みずほフィナンシャルグループの経営陣はあっちにもこっちにも良い顔をしてシステム構築の全体像を主導するベンダーを絞り切れなかったことが未だ長引く大きな原因かもしれません。
自らが新紙幣の肖像画絵に選ばれ、その立ち上げた銀行が近年ATMなどにおけるシステムトラブルで大混乱に陥っている様子を渋沢栄一は草葉の陰から苦笑いしているかもしれません。
実業家として
銀行を次々に各地で立ち上げる支援をする一方で、渋沢栄一は大蔵省在職時から練っていた様々な事業を次々に設立。生涯で500以上もの企業の設立に携わりました。
あまりに関わった企業が多いため、Wikipediaを参考にしてください。
福沢諭吉と渋沢栄一
教育家であった福沢諭吉と実業家だった渋沢栄一の接点は実はあまり多くはありません。
しかし西欧文化の歴史を日本にいち早く紹介した福沢諭吉を、改正掛に任命された渋沢栄一が福沢諭吉を尋ねたことがあります。
福沢諭吉34歳、渋沢栄一29歳の頃でした。福沢諭吉は自身の『西洋事情旅案内』を持ち出し、西欧の様々な制度を教えようとしました。
しかし福沢諭吉と渋沢栄一はソリが合わなかったとされています。
福沢諭吉の思想は「天の上に人を造らず、人の下に人を造らず」に代表されるように人間平等という思想であるように語られていますが、ここには続きがあります。
福沢諭吉のこの「天は人の上に…」は欧米の人権宣言に触発された共和主義・民主主義を示し、勉強して豊かになることを説くものです。今風に言い換えれば資本主義と民主主義を指し、理想論的と言えます。
一方で、渋沢栄一にとって幼い頃から慣れ親しんた『論語』の人のあるべき姿とは対照的に身分格差というものは明治の時代に入っても歴然としてそこにあるものでした。
生まれた時代は将軍家が世を治める時代で、自分が仕え様々な面で支援してくれた将軍は将軍職を下ろされ、多くの尊王志士たちが命を落としたり、傷ついた先で代わってできた新政府は相も変わらず華族や貴族、薩長土肥出身者が支配する権力闘争の世界。
学問を修めれば豊かになれるという福沢諭吉の主張は、あまりに現実離れしていると受け止められたのです。
渋沢栄一は福沢諭吉に対して、あまり良い印象を持てなかったようで、その後長らく二人が会うことはなかったとされています。
教育者として
その後の明治8(1875)年、渋沢栄一が35歳になった頃に日本で実学教育を実践する場がないとして第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣となった森有礼が私塾として商法講習所*を設立。渋沢栄一は経営委員としてその運営を支援します。
また渋沢栄一自身も43歳(1883年)の時には東京大学で日本財政論を講義するなど実業家としての経験をもとに教育にも携わるようになります。
47歳(1887年)の頃には伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立。現在の東京女学館の母体となります。
48歳(1888年)の頃には工手学校(現:工学院大学)の設立に際しても賛助員となり支援。同年には新島襄の建学した同志社大学設立の基金募集や管理にも携わり、60歳(1900年)の頃には大倉商業学校(現:東京経済大学)の設立委員として実業教育の充実と発展を支援。また同年には台湾協会学校(現:拓殖大学)の学校設立委員会委員に就任。
また渋沢栄一は、漢学(儒学を含む中国の学問)の復興を志し、夏目漱石や犬養毅の母校である二松学舎を設立し、故郷の岡山に第八十六国立銀行(現:中国銀行)を創設した三島中洲が掲げる「義利合一論」と意気投合。
79歳(1919年)の頃には、二松学舎の三代目校長として就任し、『論語』の倫理的思想を現代風に大胆に解釈し、「道徳経済合一説*」を説きました。
渋沢栄一が晩年に語った自身の考えをまとめた『論語と算盤』という言い得て妙なタイトルは、渋沢栄一が70歳の時にプレゼントされた画帳の中に小山正太郎の一枚の絵が描かれていたとされています。
これを見た三島が我々の考えにぴったりだと話したことから名付けられています。
雪解けと協力
長く邂逅の機会のなかった渋沢栄一と福沢諭吉でしたが、1894(明治27)年にいよいよ日清戦争が避けようもない状況となっていました。
戦地で負傷や亡くなったりした兵士たちの慰安と遺族への補償が必要だとなった際に「出征兵士の家族の支援、戦病支社の慰問・聴聞計画」を立案し、実に久しぶりに渋沢栄一は『脱亜論』(1885)を唱える福沢諭吉を訪ねました。
すると福沢諭吉と意見が一致し、福沢諭吉は自らが関わっていた時事新報において文筆で訴え、渋沢栄一は資産家や企業に全国から寄付金を呼びかけました。
教育業界、また実業界など各方面に顔の広い二人がそれぞれの得意なことを通じて力を合わせたことで慈善事業計画は無事に達成。
後に渋沢栄一は福沢諭吉について「先生は見識が高く、何事にも屈せず恐れなかった。目の付け所が鋭い。学舎なのに『国の発達は富のチカラに依存する』と主張していた点は特に慶福に値する」、「机上の学問ではなく、実業に活かせる学問をせよという教えである。自らが民間のリーダーとなって西欧の先進的実業をお手本にして日本を発展させようと考えた」と讃えました。
一方の福沢諭吉も、1893(明治26)年『実業論』の中で、「渋沢栄一が、大蔵省の三等出仕を辞めて、民間企業に転じたのは今から20年ほど前になる。当時の氏の地位は今でいえば次官クラスだが、権力はそれ以上だった。今、えらくなっている連中の中には、当時渋沢の元にいたものが大勢いる。当時は官尊民卑の風潮が極めて強かったが、成功するかどうかわからない実業の世界に飛び込み、初心を貫き通して今日の地位を手に入れ、今や実業界で渋沢を知らないものはない。大変な栄誉である。もし、明治政府の一員と実業界の第一人者でどちらが栄誉かと尋ねる者がいたら、私は後者であると即答する」と互いの生き方を尊敬するとともに、互いの努力に最大限の賛辞を送りました。
それぞれの晩年
福沢諭吉は晩年、度々の脳出血で倒れ、何度も意識が危ぶまれることがありました。1901(明治34)年2月3日に66歳で死去。親族が献花を断ったが、早稲田大学設立のきっかけともなった盟友:大隈重信は涙ながらに花を持参し、遺族はそれを黙って受け取ったとされています。
慶応義塾の卒業生は財界、官僚など実に多岐にわたります。ライバル早稲田大学に医学部が存在しないことからも、日本の私学のトップをけん引しているのは慶応義塾大学という声に異論を唱える人は少ないかもしれません。
渋沢栄一はその後、1909(明治42)年に迎えた70歳(古稀)を機に実業家として引退。関東大震災、日露戦争などの国難の度に各方面に呼びかけ基金を作るなどに尽力。
民間外交として、中華民国の党首孫文を来日の際に出迎え日中経済界の提携のために中国を訪問することなども行いました。
日本国際児童親善会を設立し、青い目のアメリカ人形と日本人形を交換し、親善交流を深めることに尽力。
また通訳者として親交のあったアレクサンダー・シーボルトの弟ハインリッヒ・シーボルトと共に日本赤十字社の設立を支援。
北里柴三郎の日本結核予防協会にも評議員として参加し、聖路加病院病議会副会長などを務めたり、知的障害児の保護教育事業を行う滝乃川学園の理事長を務めました。
また貧困者や身寄りのない人を保護した「東京養育院」(現:東京都健康長寿医療センター)の設置など福祉・医療にも尽力しました。
1931(昭和6)年11月11日に91歳で老衰のため死去。訃報に際し、弔問客がひっきりなしに訪れ、当日午後には昭和天皇の勅使が遣わされ、葬儀の行われた15日には東京都北区の飛鳥山邸から青山葬儀場まで沿道から多くの人が見送ったとされています。
福沢諭吉と渋沢栄一、激動の時代を生きた二人の足跡の先に我々もまた過去を参考にできない資本主義と民主主義の危ぶまれる時代を生きています。
二人に共通する所
啓蒙思想家と実業家、同じ時代を生きて、全く異なる道を歩んで我が国の最高紙幣に描かれる偉人となった二人。
渋沢栄一から見た福沢諭吉は賢い人物だったのでしょう。
渋沢栄一が押し付けがましく感じた気持ちにはそうした人に対する嫉妬のようなものが感じられないでしょうか。
また福沢諭吉から見た晩年の渋沢栄一にも同じような感情があるように私には思えます。
そしてお互いの価値観の根底には孔子に始まる儒学思想が根強くあったのではないでしょうか。
これは欧米の資本主義的思考からすればどちらかといえば後回しにされたり、軽んじられることも少なくない部分かもしれません。
儲かれば良い、稼げれば良い、自分たちさえ良ければそれで良い…しかし、何でも欧米発のものが正しいのでしょうか?
個人としての在り方と国の在り方はその人やその国によって異なります。
それを選ぶのは一人一人であり、みんながやっているから自分も同調するのは楽ですが、それが長期的に良い結果をもたらすのかは別な話のように思えます。
彼らはそれぞれに自分の軸となる信じられる価値観を持ち、それに従って生きたから変化に折れる事なく対応して生きたのだとしたら、軸のない流されるばかりの人が何事かを成すことは変化の激しい時代にとても地に足のつかない不安と常に向き合う根無草のような生き方になってしまうのではないでしょうか。
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