「教育」について考える


誰でも子を持つ親になる前は、「教育」についてほとんど考えたことがないというのが普通であると思う。
しかし、子どもの親になれば、誰もが教育について考えざるを得なくなる。そしてやがて、いったい「教育」というものは何かと考えざるを得なくなる。
しかし実はそれは、なかなか困難なことである。
それは、教育にはいくつもの深い要素が絡んでいるからである。

教育について考えるためには、哲学が必要である。

教育について考えるためには、科学が必要である。

教育について考えるためには、社会学が必要である。

教育について考えるためには、歴史学が必要である。

教育について考えるためには、言語学が必要である。

教育について考えるためには、芸術学が必要である。

このほか数え上げれば切りがない。
多くの人は、教育について考えるとき、まず自分たちの受けてきた「教育」との比較を考え、それと自分たちの持つに至った社会価値観をすり合わせ、自らの取るべき道を決定しようとするが、その前に以上のようなことの考察が必要だから、結果的に世間周囲がしているのとだいたい同じことをするという選択になる。

「教育」について考えることは難しい。
教育について実行することも難しい。
「教育」は未来のためにある。
「教育」について考えるためには、未来社会をどのように想定するかということも関わってくる。
戦争で大きな損失を受けその中から再興し、豊かな社会実現を目指す。
これはわかりやすい。多くの人が共有することが可能である。
貧しい状態、困難な状態からなんとか抜け出そうとするときには、そこに大きなエネルギーを投入することができる。
そこでは我慢して困苦を乗り越え、何かを獲得していこうとする前向きの精神が自ずと起こるものである。
そこでは「努力」という言葉が金文字になっていた。「根性」というのもあった。
しかし、豊かさを超えて息詰まった社会で、人は何をバネに未来のためのエネルギーを放出することができるのか。
必要以上の豊富な物資流通、便利さ、情報、娯楽、そして労働。そして少子化。
親は別としても、子は生活に困らないだけではない、物や情報ならなんでもたいてい手に入る。

こうした社会で、子どもを単なる「強制」で学ばせることは限りなく不可能な時代になってくる。

そこには困難な状態から抜け出そうとするときに放出される「エネルギー」がない。

大人が学ばせようとするのではなく、子どもの方から学んでいくような教育環境設定が必要になってくる。



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