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Dr. Scott Ross: どうやって映画産業で1億円を稼ぐか?(その3)

This is a Japanese translation of Dr. Scott Ross's blog. Please check out the original article to verify the translation. (この記事はスコット・ロス氏の2012年に書かれたブログの翻訳です。翻訳の正確さは保証致しかねますが、日本人にとっても興味深い内容で非常に面白い読み物だと思います。)

 (その2より続く) ウネさんに私が会ったのは80年代の前半で、彼女は慎重が122センチ程度で、ヨーダにそっくりだった。彼女が現れた時、ショッピングカートにプラスチックの容器に入った水と、2、30個の小さなグラスのコップそして、ショッピングバッグにいっぱいのプレゼントを持ってきてくれていた。彼女は体に有り余るエネルギーを備えていたのだ。

 アケミさんがウネさんの話を通訳してくれた。第2次大戦の最後の1ヶ月、ウネさんは広島の市街地の方にある質素な住宅の中で、何十人もの孤児達の世話をしていた。配給や食料はなかなか得られず、子供達は柱の間にかけられたハンモックの中で寝たり、さつま芋をふかしてつくられたミルクを与えられたりしていた。

 1945年8月6日の朝、ウネさんが50人ほどの幼い子供達の世話をしている時だった。空から何千もの太陽に照り返されたような気がした。その途端、台風のような風に吹き飛ばされた。何時間も彼女は意識がなかった。気がついた時、彼女は防空壕の下に埋もれていた。何とか顔を地上に出して見上げると、空は赤く茶色くなっていた。彼女は子供達を探そうとしたが、人が住んでいたところはすでに跡形もなくなっていた。必死の思いで子供達を探し続けた。しかし彼女が見つけることができたのは、焼けて黒こげになった遺体ばかりだった。

 彼女はショックで気が遠くなりながら、帰り道を見つけようと歩き出した。しかし見たことのあるものは何一つなかった。数時間前にはあった建物はすでになく、破壊されたトローリーが線路から何ヤードも離れたところに転がっていた。ウネさんがどこへいっても、堪え難いほどの熱で生き残っていた人たちが水を求めていた。骨からは焼けただれた肉がぶら下がっていた。広島に現れたゾンビが、そこで何が起きたのかを物語っていた。彼女は何時間もさまよい続けた。水ください、水ください、という悲壮な声を聞きながら。

 戦争が終わってから何年もたってから、ウネさんは日に2回、お参りをすることに決めた。1945年の悲惨な日に死んだ人たち記念に建てられた像に水の入ったコップを置くためだった。彼女は67年間1日も欠かすことなく93歳で亡くなるまで続けた。

 ロスアンゼルスに戻るフライトの中で私は、「千羽鶴」というストーリーのあらすじを書いた。千羽の鶴を折り紙を折ると、願いが叶うという言い伝えが日本の文化の中にある。ロスに降り立った時、この脚本と取材にどのように投資してもらおうかと考え始めた。そしてダイチ大学の地下壕には理由があったことが判明した。ツヅキさん自身が生き残りの被爆者だったのである。

 次の日、私はオフィスに戻った。DD(デジタル・ドメイン、ロス氏のVFXスタジオ)の経営者からオフィスに、DDの講座にツヅキ学園から1.7億の入金があったと問い合わせたがあった。まだ私は一羽も折り鶴を折ってはいなかったが。

 そこからが旅の始まりだった。2億近いお金をもらって、完全な脚本家を探し出すことにした。映画にはラブストーリーが必要だったし、物語は繊細でインスピレーションを与えられるものでなければならなかった。いろいろなエージェントを呼び出してみたし、私の要望に答えてくれたエージェントも居た。彼らのアシスタントに、私がジェームス・キャメロン(映画「タイタニック」の監督)と仕事をしていると言ったのが良かったのだろう。でもそれは話の一部でしかない。すべての主要なエージェントと話をしてみたものの、ある一つだけが15年ほど経ってもまだ印象深い存在のままでいた。

その当時UTA(ユナイテッドタレントエージェンシー)のチーフだったDan Ahloneのオフィスへと連絡した。2、3日の間、電話して名前と電話番号を残し続けたが、まったく連絡をくれなかった。何週間も経ってから、仕事から家に帰るドライブの途中、夜の8時頃のPacific Coast ハイウェイで携帯電話が着信した。

「もしもしスコットです。」いつもの通り丁寧に電話に出た。

「Dan Ahloniです。1分お待ちください。」と女性の声がした。

何分間も、一方の手でモトローラの携帯電話、もう一方の手でハンドルを交互に握るはめになった。

「誰だって?」いきなり怒鳴られた。

「もしもし、スコットロスですが、どなたですか?」

「誰だと聞いてるんだが?」怒鳴り返された。

「えっと、デジタル・ドメインのCEOであるスコットロスですが。」と答えた。

「分った。で、話は何だ?」また怒鳴られた。

「Dan Ahloniさんですか?」と尋ねた。

「そうだ、Dan Ahloniだ。で、これ以上話すのは時間の無駄だと思ってるんだが!」Dan Ahloniは怒鳴り続けていた。

「脚本家を探してるんですけどね...。」我慢して答えた。

「時間がないんでね。」Dan Ahloniは電話を切った。

うーん、これは思ったより大変かもしれない。つまり、自分が非常に重要だと考えている映画の製作に2億円近くも投じたのに、エージェントは私と話をする暇がないんだ、と。ビジネスってやつだよ!

 何十ものサンプルとなる脚本を読んでみたが、そのほとんどは酷いものだった。CAAエージェントが、ある脚本を読む価値がある本だとして送ってきた。有名かつ印象的な人生を基に書かれたものだった。それを書いた脚本家はメキシコ人のアーティストFrieda Kahloの生活を描いた素晴らしい映画、「フリーダ」の脚本家でもあった。彼女のエージェントに連絡して、ミーティングがセットされた。Diane LakeがDDに現れて、僕らはすぐに意気投合した。彼女は僕のストーリーを気に入ってくれたし、彼女が成熟した大人の女性でロマンスと歴史に精通していることに僕は好感をいだいた。私は彼女を日本に連れて行き、2週間をそこで過ごした。彼女をウネさんに紹介して、古い旅館に滞在し、広島市長に会い、他の被爆者とも話をし、神道のお寺を訪ね、一般的な日本文化を彼女にすべて紹介した。彼女のエージェントと交渉し、2度契約書を作成し、練り直し、彼女の作品に支払いをすることが出来た。

 Dianeには書き始める準備が出来ていた。彼女はそれを一人で行った。私が書いたあらすじを基にして、彼女の日本での経験をスパイスとし、私は彼女が「ロミオとジュリエット」以来の最高のラブストーリーに仕立て上げてくれることを望んでいた。時々Dianeと連絡を取り、私が未熟ながらもプロデューサとして、何ページあるいはいくつのシーンあるいは何幕を書き上げたのか尋ねた。でも「脚本家はその質問には答えない」と言われただけだった。「プロセスの最後に出来上がった食事を召し上がりください。プロデューサは台所には立ち入り禁止なのです」と。

 3ヶ月かかって、とうとうDianeの「千羽鶴」を試食することができた。本当に待ち遠しかったし、期待しすぎてヨダレが出そうな思いだった。彼女は最初のドラフトを渡してくれて、それは200ページに及んだ。今日では、ほとんどの脚本が120ページ以内に収まる。130ページに渡るドラマを見たのは一度切りだ。でもほとんど200ページもあったんだ!普通の食事じゃない、12のコースを食べなきゃならないんだ。

 読んだ...。全部読んでみた...。そして結末まで来たところで、私はあっけに取られた。私にとってはこれはまったく違う物語に思われた。そこで紙と鉛筆を取り出して、大幅に改変することにした。Dianeと話をした。(彼女は本当に素晴らしい女性であり脚本家だった。)これは私が思っていたのと違うと説明した。彼女は必死になって、これを書き直してくれた。合計6ヶ月もこの脚本に捧げたのだ。彼女はプロだったし、傷を舐めながら座ってやり直してくれた。結局、私には到底これが使い物になるとは思わなかった。彼女に相当額を支払って、またやり直すことにした。

 ここに来て私は、このプロジェクトは世界でも最高の脚本家、アカデミー賞を受賞するような、有名な脚本が必要だと感じ始めていた。他人のお金を大量に預かっていると、こんな気持ちになるのは容易い。

何年もかかって、オスカーを受賞した脚本家に何人も会った。そのうちの二人は、「千羽鶴」のような物語を書くの適した完璧な才覚を持っていると思えた。Jan Sardi (SHINE) とJohn Patrick Shanley (MOONSTRUCK) の二人が適任だと思った。二人の脚本家と彼らのエージェントと何回か電話で話をしてみたところ、Shanleyだけが脚本を必要としている時間内に書いてくれそうなことが分った。

 Shanleyと私は、彼が"JOE VS THE VOLCANO"を監督している間に多少話をしたことがあった。彼はILMで視覚効果の作業をしていたし、そこで何回かミーティングをした。Shanleyは世界的に知られた演劇の脚本家で、20以上の舞台の脚本を書いていたし、"DOUBT: A PARABLE" でピューリッツア賞を受賞したことでも知られていた。もっと重要なことに、彼はかなりの日本通でもあり、私の物語を気に入ってくれたようだった。Diane Lakeの書いた脚本を彼にも送って、電話で何回も話をした。でもやらなければならないのはCAAと彼の脚本の値段を交渉することだった。Diane Lakeの脚本の値段をCAAと交渉した時には、金額は納得のいくものだった。そのせいで、アカデミー賞を受賞した脚本家に幾ら支払うべきか、気にも留めていなかった。しかし何てこった!彼らはメジャーリーグのプレーヤーでまさに大金を手にしているんだ!もちろん資金はあるけど、Shanleyと契約してしまったらずいぶん減ってしまう。

一方でShanleyは、彼の契約交渉の間は何も手につけることを許されていなかった。彼が「千羽鶴」を書くことのできる時間は限られていたし、彼はただちに仕事に取りかかった。彼は仕事が満足のいくものになるという確信があったことだろう。その通り、何時間かと思える程度の短い時間でShanleyの草稿は私の机の上に届いた。

私は脚本を大急ぎで読んだ。そしてそれが終わった後、再び落胆した。書かれていたものはもちろん素晴らしかった。でも何かが足りなかった。Shanleyに電話をして私が気になった点について説明すると、彼は納得していた。彼が最初の草稿を書くのにほとんど私の意見を聞き入れなかったことには腹がたった。私の頭の中にあったストーリーはどのページにも書かれていなかった。Shanleyに変更を伝えると、親切にも修正に応じてくれた。短い時間で第2草稿が完成した。読んだ。また駄目だった。すくなくとも私には。

この時点で、脚本にかけられるお金のほとんどを使い尽くしていた。脚本は私の欲しいものには近づくことなく2年が経っていた。私は熱心に折り鶴を折り始めていた。(続く)

※タイトル画像は後にデジタルドメインが製作を開始する映画「The Legend of Tembo」のShawn (Xiaogang) Zhu氏によるコンセプトアート。(本文とは無関係。) その1に映画の説明があります。


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