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最近何もしたくないのは今が自己ベストだから。

先日、32歳を迎えた。
夫との自由な夫婦の時間を過ごし、日々の平凡な幸せを噛みしめている。

二年前に長年国際遠距離で付き合ってきた夫とようやく結婚。
一年前に新築の戸建てを都内に買い、大好きな夫と、遠距離ではできなかった普通の暮らしを実現。

小さな庭では、好きだったガーデニングを満喫。
庭でとれたハーブで作ったソースを春キャベツとベーコンに絡めたパスタを食べながら、差し込む日差しを浴びて、ベランダのモッコウバラを眺める日曜の昼。

全てお気に入りのもので買い揃えた、シンプルでいてオシャレなインテリア。

美味しいもの、食べたいものを作り、好きな事をできる範囲でする。

昔みたいに遊び=ショッピングという思考も薄れ、服を欲しいと思うことも無くなった。
化粧も夫の好みもあり、するのをやめて何年も経つ。
ありのままの自分でいい。

全部、自分で決め、自分で手に入れた生活。

最近どうにも何か新しいことや創作的な活動をしたいと思えなくなった。
在宅勤務も一年が過ぎ、結婚した分、家の仕事は増えたものの、何かやろうと思えば時間は結構ある。
それなのに、一向に何か始めようと思えない。

そろそろ子供を、とは考えているが、保育園の入園やら仕事との兼ね合いやらいろいろあるので、それはもう数ヶ月先にしようと思っている。

何か新しい創作的な活動をやりたい気持ちがあるにはあるが、いざやるとなるとかなり熱中してしまうことが分かっているからか、今そんな事を始めるタイミングではない、と自制が働く。

この状態が続いてしばらくは、消費するだけの生活ではつまらない、何か創作せねば、とそれでも何かやろうと考えていた。しかし行動には移せなかった。
強いて言えばこのnoteを始めたくらいだろうか。

なぜこんな状態なのだろう、としばらく自問自答していた。

でも、よく考えてみれば、今の状態に私は満足なのだ、ということに気づいた。

私は、学生のころ思い描いていた、なりたい自分に、ある程度なれた、と言える。
達成率で言うと、85%くらいだろうか。

私は、シングルマザーの貧しい家庭で育った。
給食費の支払いは毎月遅れていた。
電気もよく止まっていた。
母のタバコの煙にまみれたボロくて、ろくに掃除もされていなかったアパートで社会人になって数年まで生活していた。
正確には、そこまで貧しかったわけではないはずだけれど、支払いの優先順位の付け方がおかしく、欲しいものから買うという母のお金の管理に少し問題があった。

高校に入ると、アルバイトは禁止だったけれど、先輩に紹介してもらい、友人と一緒に始めた。
自分でお金を稼ぐ事ができるということが、とても嬉しかった。
アルバイトで毎月いくらか稼げるようになると、いつも給料日前に母から少し貸してくれ、と言われた。
あとで返してくれてはいたものの、自分の親から金を貸して欲しいと言われる事の、惨めさは、なんとも描写し難い。

高校の通学はバスで割と遠いところへ通っていたため、定期券も自分でアルバイト代から出すようになった。

進路は絶対に大学に行くと決めていた。
大学に行ってまともな企業に就職しなければ、このまま貧しいままだということは、高校生の私にも理解できた。

いや、正確に言うと、それに気づいたのは中学3年生だったか。

それまで、なぜ学校に行くのか、なぜ勉強して、なぜテストを受けるのか、それら諸々の意味が分からなかった。
そんなこと、誰も教えてくれなかった。

中学3年になると、みんなどの高校に行くかで話題は持ちきりになる。
小学校から中学校は勝手に選ばなくてもここに行きなさい、と決まっているから、何も考えず来たけれど、突然、ここにきて、高校どこに行くんですか?と問われていることに気づいた。

高校…?どこに行くんですか?
私が聞きたかった。

何も考えていなかった私は慌てて、県内の高校が全て載っている本を開いた。
どうやら公立と私立があって私立は比べ物にならないほど学費が高いらしい。無理だ、絶対に公立しかない。

公立で私が通えそうな高校はどこなのか。家から近ければそれだけ交通費も浮く。
しかし考慮しなければいけないのは距離だけではなかった。
偏差値である。
当時の私の偏差値はどのくらい低かっただろうか、おおよそ50くらいだったか。
家から近くて制服の可愛い高校はみな、私の偏差値では受かりそうにない、ということが分かった。
制服の件を諦めたとしても、家から近い高校はどれも偏差値が高く、私には無謀な選択だった。

この時、愕然とした。
私はこのままではいけない、このままでは一生貧しく、飢え死にするかもしれない、そんなのは絶対に嫌だ、と思った。

聞けば、公立の受験は一発勝負だと言うじゃないか。私立のように何校も掛け持ちはできない。
となれば、絶対に受かるレベルでなければ。
ということで、見事、偏差値が45くらいの家から電車とバスで1時間くらいの公立高校に通うことになったのである。

高校に入ると、私の人生の最初のターニングポイントが始まった。

中学では、周りには自分より頭の良い子しかいなかった。
少なくとも、私と交友のあった友達は私より遥かに頭の良い子ばかりだった。
自分は最底辺、そう感じていた。

しかし、自分の偏差値よりわずかに低いこの高校に来ると、世界は一変した。

一年の最初の中間テスト。
総合的な結果を担任から個別に聞かされた。

「あなたは学年一位でしたよ。」

目を疑った。
そんなことがあろうか。
この私が一位になるとは、どれだけこの学校の生徒はアホなのだろうか。

予想外だったが、成績優秀な生徒として扱われる感覚は悪くなかった。
人生で初めて、何か1番になった、そんな気がした。
それがたとえ、お山の大将だとしても、初めて掴んだ座を手放したくないと思った。

それからというもの、私は俄然やる気を出した。
今までテストなんてよくわからないけど受けなければいけないもの、だった。
それがこの時から、どうしたら高得点を取れるのか、どうしたら効率的に暗記できるか、ということを、自分の小さな脳みそで真剣に考えるようになった。

当たり前だが、テストの問題は全て、日頃の授業に出てきていることだ。
私はそれまで、ろくに授業を聞いていなかった。ノートは取っていたけど、それはみんながやっていたからとりあえずやっていただけで、なぜやるのか理解していなかかった。
黒板に描かれたことをひたすらノートに真似て書くだけ。
それを何のためにやっているのか、どういうことを先生が黒板に書いているのか、テストに出るかもしれない大事なポイントが黒板に書かれているということすら、知らなかった。

しかしテストを、意識するようになって、私の授業の受け方は180度変わった。
もうこれまでのようによく分からないまま、なんとなくやり過ごす状況に戻りたくない、そう強く思っていた。
だから、授業をまずよく聞くこと。これに徹した。
ただ聞くのではなく、頭で聞く。先生の言っていることを心から理解しようとした。
そうすると、それだけでどんどん授業の内容が分かるようになった。
今までずっとグレーの色をしていた学校の景色に急に極彩色で色が付いた、そんな感覚だった。

授業を本当に頭で、心で理解できるようになると、先生がテストに出すポイントを教える時は特定の書き方をしていることに気づいた。
例えば、赤で囲う、とか。板書で使われている色分けには意味があったんだ。
そうこうするうち、私も色分けを駆使してノートを取るようになった。
数学では、どの部分がどの数式である、とか、英語ではどの文がどんな構造になっている、とかが一眼でわかるように、自分なりに色分けを決めて、ノートを取っていくようになった。
テストの全ては授業で学んだことであるから、話を聞いていて重要だと思うことは何でも書いたし、テスト勉強でノートを使う事を意識して、とにかく自分にとって分かりやすいノート、これを心がけた。

実のところ、学校で勉強をすることの意義は、ここにあるのではないかと思っている。

つまり、実際に学ぶ数式やら歴史やら中身自体を学ぶことよりも、授業とテストを通して、人の話をしっかりと聴く、そして話を根本的に理解するための集中力、理解した内容を(ノートやテストで)アウトプットする訓練、テストという「本番」に向かって成功させるべくどう準備するかを自分の頭で考えて計画し、実行する力、こういったことを身につけることが重要であり、これこそが勉強する最大の目的なのではないかと。

こうして、高校に入って、私の勉強への考え方は天地逆転した。
最終的にできるだけ高い評点平均を稼いで大学入試で有利になる事を目標にしていた私は、評点平均4.9で卒業した。

つまり1科目以外全部5を取り続けた。
ちなみにこの5が取れなかった科目はと言うと、体育である。
私は全ての種目が苦手だったが、唯一持久走だけは、自分なりに呼吸法とマインドコントロールを工夫し、上位の方で走り終えることができた。

高校では2年目から専攻のようなものがあり、選択するようになっていたので、数ある科目の中でも目新しく、他の科目に比べて成績がまだ元々マシだった英語を学ぶクラスに進んでいた。
だから、大学でも英語を勉強しようと思い、英語が学べる学部を片っ端から探した。

しかし、私の学力では国公立大学は無理であることは明白だったため、私立しか選択肢は無かった。
自分の学力で行けそうな私立大学をひとつだけ受験することにした。
評点平均が良かったので高校が持っていた推薦枠で、小論文入試だった。
小論文は毎週放課後にトレーニングクラスが設けられていて、ひたすら書き方を学んだ。
とにかく、最初に結論、そのあとで起承転、これが王道だ。

ところで、学費をどうにかしなくてはいけない。
ここで進学せずに就職しては元の木阿弥だ。
必死に調べ、奨学金というものの力を借りることにした。
幸いにも、成績が良かったので、無利子で借りることができた。
毎年の学費はアルバイトと奨学金を貯めて、半年ごとの納入でなんとかなりそうだ。
しかし、問題は入学金だった。
これが100万以上したと思う。奨学金には一時金というのが別にあり、まとまったお金を一度に借りるものもあるが、その額ではあまりに足りなかった。
大学進学を諦めることだけはしたくなかったため、疎遠にしている父親にお願いし、この時ばかりは結果父親の両親に支払ってもらうことができた。

無事、希望していた大学に受かった。
英語専攻に進んだが、第二外国語を選択することになっていた。
いくつか言語があったのだが、就職に有利であることを目論んで、中国語を選択した。

大学に進んでも、高校の時に身につけた授業に対する姿勢は変わらず、むしろ講義の内容が全て板書されないばかりか、講師がぽろっと余談として話したことがテストにも出たりするから、より一字一句聞き逃さないよう、必死に聞いて、書き留めた。

アルバイトは高校からいくつか経験したが、この頃はコールセンターでの仕事をしていた。自宅近くにあり、時給もかなり良かったし、これは想定外だったが何より電話でのマナーを全て研修で網羅できたことは大きな収穫だった。

コールセンターを経験された方はわかるかもしれないが、正しい敬語や謙譲語というのをかなりみっちり勉強するし、相手に聞き取りやすい話し方だったり、スムーズな話の進め方だったり、とにかく社会人に必要な基礎はここで多いに勉強できたと思う。

社会に出た今でも、会社には電話のマナーが完璧ではない人はザラにいるなぁと感じるから、今でこそ電話というのは少なくなりつつあるかもしれないが、ある程度アドバンテージになると思う。

大学では、熱心に中国語を勉強していたため、ある教授から特別に中国へ短期留学に行かせてもらったし、その後は貯めたお金でオーストラリアへも短期留学し、ホームステイを経験した。

このオーストラリアのホームステイで、私の家族観は意図せずぶっ飛ぶことになる。いい意味で、だ。
私が滞在した家族は絵に描いたような学校の先生のお母さんに、ラジオ局で働くお父さん、娘が1人、息子が2人、そして猫2匹と犬1匹の大家族。
お父さんはラジオ局勤めで朝がとても早く、そのため夕方頃には寝る。
毎晩寝る前に家族全員とハグとキスをして、眠りにつく。このシーンが何と衝撃的で、そして最高に素敵で心温まるものであったか。
家族とは、こうあるべきだったのだと、私の中の何かが音を立てて崩れた。
私も、こうなりたい。
毎日愛の溢れる日々を好きな人と過ごして生きていきたい。
今思えば、私が西洋文化を持つ人との家庭を築きたいという夢を明確に持ったのはこの頃だったはずだ。
そして、私は実際、今フランス人の夫と暮らしている。正直、もう当たり前のことになっているけれど、それでもやっぱり挨拶のようにキスとハグが生活に存在するのは心地よい。
単純に、そういうコミュニケーションは家族にとって重要だと、私は思う。


大学生活は順調に過ぎていき、成績も引き続き1番良い評価をほとんどのクラスでもらうことができた。

就職を意識する大学3年になると、私もどんな業界に行こうか考え始めた。
もちろん英語専攻だし、何らかの形で英語を使う仕事がしたい。
できれば、外資系でバリバリ英語を使って働く、なんていうイメージに憧れていた。単純にかっこいいなぁ、と思っていたけれど、そんな実力はまだないと分かっていた。

私の業界選びはシンプルだった。
英語を使う機会がある、あるいは海外との繋がりのある業界、かつ、平均年収が600万以上ある業界、だった。

私の中でこの年収600万というのはひとつのボーダーだった。なぜかは分からないけれど、いろいろ見聞きした経験からこれくらいあれば私の思うまともな暮らしはできるに違いないし、母のようにお金に追われずに済むのでは、と思ったからだ。

そんな金欲にまみれた業界選びをしながら、貿易関連の業界なら条件に合いそうだな、と目星をつけた。
条件に合う企業の説明会は片っ端から受けたが、実際に応募に進むかは、あくまで企業の事業内容を理解してそこで働きたいと思えたら、であった。
と言うのも、学生の頃はどの業界にどんな構図が出来上がっていて、どんな種類の企業があるのか完全には分からない。だから、説明を聞いてみて、この手の事業には興味はないな、と思ったらそこへ応募するのはやめた。

最終的に、希望の業界の中の、さらに希望する事業形態の企業で特に行きたいと思う外資系の企業に就職できた。
選考方法は試験はなく、書類、面接、そして自由な資料を用いたセルフプレゼンというスタイルだったので、かなり斬新なアイデアで面接官に印象付けることができた。
入社してからも、あの時の面接1番印象に残っている、と言われたくらいだ。

晴れて、私は貧しさの負のスパイラルから抜けることができた。
奨学金の返済は今でも続いているが、大学に行かなければ今私はこの生活を手に入れてはいなかっただろう。

別の記事で、不動産を二度購入した話をしたが、新卒で入社した会社は激務のため一度転職したものの、現在も収入は安定しており、念願だった600万の壁も数年前に叶い、継続できている。

さらに有難いことに現在働いている会社は、新卒で入った企業とは違い(アジア資本の会社だった)、コテコテのパリに本社を置く外資系で、英語で世界各地とやりとりが日常業務だ。
数年前まではヨーロッパ人の上司がいて、毎日日本語より英語の方が会話量が多い日もザラだった。
そのおかけで、自信のなかった英語での会話も、いつからか言いたいことはすらすらと出るようになっていた。
これは、ある意味で私が憧れていた外資系で働く、のイメージにとても近い。

そんなこんなで、

-貧困スパイラルから抜け、自分の求めていた年収を手に入れたこと。

-西洋文化を持つ夫と出会い、思い描いていた楽しく温かい生活ができていること。

-自分の家を持つことができたこと。

-これから家族を増やし、オーストラリアで出会った家族のように温かく愛の溢れる家庭を持てそうなこと。

-学生の頃、漠然と憧れていた外資系企業でバリバリ働くというイメージ像にかなり近い状態で仕事ができていること。(実際には今ではバリバリ働きたいと言う気持ちはなく、やることをしっかり時間内でこなす、が私のモットーだが)

以上のことを実現できた。
だから、大体願ったことの85%くらいは叶えられたんじゃないかな、と思う。

ちなみに夫との経緯も波瀾万丈であった。あまりにコンテンツ過多のため別の記事、マガジンにしようとおもっているのでここでは詳しくは書かないが、人並みでは実現し得なかったであろう状況で、最終的に時間をかけて結婚、同居できた。

叶わなかったことは、例えば以前は夫の母国で暮らしたいと思っていたこと、だろうか。
でもこれはよく総合的に考えたら、日本で良かったと心底思っているので、何の未練もない。
あとはそもそもを言えば、もっとアーティスティックな仕事をして生きたかったのはある。
もともとデザインや絵を描くのが好きだったのだ。けれど、そういう道は私にはリスクがあり過ぎると思ったし、そもそも進むのに多額の資金が必要であるから、私の行く道ではない、と思ったのである。
もし仮にそうしていたら、どうなっていたかは分からない。今よりもしかしたら、経済的に豊かになっていたかもしれないし、極貧に堕ちていたかもしれない。
どちらにせよ、今の生活、今私が立っているこの場所は、これまでの人生の行動と思考の総合的な結果である。
全てが繋がり、いま、私はここにいる。

そして、私はこの場所をひどく気に入っている。それはこれまで持っていた向上心を打ち消してしまうほどに。

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