【サーフィン小説】ビジタリズム|第23話
23ラウンド目 Have To Go
誰にも気づかれないように、少しずつ少しずつ高度を下げていた初夏の太陽は、午後5時を超えると一気にその光の色合いを赤みがかったものに変えた。
「今日はやったわ、久しぶりに。やりきった」
セットを待つ間、ボードから降りて風呂にでも浸かるように体を海中に沈めた和虎が、天を仰ぎながら大袈裟に呟いた。
「マエノリくんも、さすがに疲れたっしょ」
「まあね。でも、こんな波めったにないからさ」
結局、和虎が朝宣言していた通り、昼寝を挟んでの4ラウンド目に突入していた。
それまでに二人とも1年分とも思えるほどいい波を掴んでいたし、本当は3ラウンドで終わろうかとも話していたのだが、一向に落ちる気配のないコンディションが、二人をその場に繋ぎ止めたのだ。
「餃子もうまかったしなあ、あれで300円って、値段バグってるでしょ」
和虎が言うように、午前中の2ラウンドを終えて食べた万里餃子は、文句なしに美味かった。カリッと香ばしい焼き目のついた皮は、一般的な町中華の餃子と比べるともっちりと分厚く、それでいて重量感たっぷりに包まれた餡からは、椎茸や筍の旨味と相まった肉汁が一口ごとに滴るのだ。
そんな餃子が、春麗妹によって10個も紙パックに詰め込まれたのを見た時は、力丸も冗談かと思った。余計なお世話だが、これで商売が成り立っているのが信じられない。
「しかもミキタさんのビールと一緒に食べられるなんて超贅沢だし」
もちろん和虎は、力丸がすすめるまでもなく、万里餃子のカウンターにアフターサーフのロゴが冠されたタップを目ざとく見つけ、迷わずオーダーしたのだった。
「ビールもうまかったね」
「だべ?アレですよ、夏の波乗りの後に飲むべきビールは。スタイル的にはパシフィックエールなんだけど、日本だとなかなか飲めるところがないんだよなあ。メジャーなビールは基本ピルスナーばっかりだし、クラフトビールカテゴリーだとIPAが多くなるしね。それに」
「ああ、わかったわかった。カズとビールの話すると長くなるから嫌なんだよ」
「おっとマエノリくん、せっかく君に新しい経験の扉を開いてあげたと言うのにその言い方はないっしょ」
確かに、あんなビールを飲んだのは初めてだったし、あまりの美味しさに、またすぐにでも飲みたいと思ったのも事実だった。
「で、カズはこのあと行くの?その、ミキタさんのブルワリーに」
「愚問でしょ。行くに決まってんじゃん」
「やっぱりかあ」
あのビールが心底美味しかったからこそ、自分だけブルワリーでビールを飲めないことが悔しくなっていた。
しかし一方で、この万里という土地で、あんなに鮮烈なビールを造り、なおかつサーフボードシェイパーであり、極め付けに、あのナミノリの父親だというレジェンドに会ってみたいという気持ちが自然と湧き上がっていたから、ブルワリーに行くこと自体に反対する気持ちは全くなくなっていた。
「昼寝も最高だったなあ。やっぱ、マエノリくんの初めてのマイカーにはステップワゴンという俺の選択は正解だったね」
「よくいうよ、車で昼寝したの、結局今日が初めてだったじゃん」
和虎が、一日の出来事を反芻するかのように逐一振り返っていることが、今日という日の充実ぶりを物語っている。
それにしても、昼寝も確かに最高だった。
餃子で腹を満たした後、窓を開け放した力丸のステップワゴンで惰眠を貪ると、引き続きゆるいまま吹き続いていたオフショアが時折肌を撫でて通り過ぎていき、なんとも言えないスローな時間を実感できた。
そして、ようやく目覚めた午後も3時を過ぎると、明らかにピークが空き始めたように見えたことも、二人を4ラウンド目に向かわせた大きな要因である。
「ああ、今日が終わってほしくないねえ、これは」
「うん」
和虎の言う通り、この時間が永遠に続けばいいのに、と、本気で思った。確かに疲れてはいたが、心地よさの方がはるかに勝っていた。こんな瞬間は1年を通じてもそうそう味わえるものではないが、だからこそ、サーフィンをやっていてよかった、と心底思える瞬間でもあった。
「マエノリくん、その板も調子良さそうじゃん?」
やや間があってから、和虎は話題をボードの話に転換した。
「うん、ボード変えるとこんなに感覚が違うものなんだね」
サーフィンを始めて、マイボードを手に入れてからこれまで、ずっと同じボードに乗り続けてきた力丸にとって新しいボードの乗り味は新鮮だった。そして、悔しいが鬼瓦の見立てが良かったのか、ポケットソケットは力丸の足元にしっくりと収まり、波の上で行きたい理想的なポジションへ瞬時に身体を運んでくれる感覚があった。まさに名前の通りだ、と思った。
加えて、いつもなら捕まりそうな崩れたスープのセクションも難なく乗り越えて、目の前に頃合いのショルダーが現れたときにはちょっと感動すら覚えた。
このボードなら、オフザリップ成功までの時間を圧倒的に短くしてくれるという確かな手応えを感じる。
「マエノリくん、もうそれ買うしかないっしょ」
「うーん、そうだなあ……」
和虎に言われるまでもなく、力丸はポケットソケットをすでに欲しくなっていたが、まだ渋っているフリをした。一体全体、誰に対する体裁を繕っているのか自分でも分からないのだけれど。
和虎との会話が途切れ、力丸は南端のピークに視線を向けた。
西陽はさらにその高度を下げ、紫外線が和らいだ丸みのある光でピークを照らしている。
気づけば、そこにラインナップするサーファーの数は明らかに減っていた。そして、2、3本続くセットに一人、また一人とテイクオフすると、皆そのまま腹ばいで岸に向かって滑っていく。
気がつけば、今や波待ちしているのは和虎と力丸、それから少しインサイドに見えるのは、今朝力丸に声をかけてきた気さくなオージー——確か、グレッグだ——の3人のみとなっている。
波は少し落ち着き始めた雰囲気だったが、力丸にとっては充分なサイズとパワーを保っていた。
和虎が目配せしてきた。
「チャンスターイム!これ、どピーク行くでしょ」
「うん、行こう行こう!」
聞かれるまでもない。こんな千載一遇のチャンスを逃す手はないだろう。二人は嬉々として南端にノーズを向けた。
まだラストライトが消失するまで1時間以上ありそうだったが、雰囲気としては、今から誰かがエントリーしてくる可能性は限りなく低いように思えた。
力丸は、あれほど近付き難かった南端のピークに、ついに辿り着いた。これは1日粘り倒したご褒美だろうか、文字通り貸切だ。
今から目の前に現れるであろう波は、すべて今この場にいる3人だけでシェアできるのだ。信じられない。なぜだろう、誰もいないのに緊張する。いや、これは静かな興奮なのかもしれない。
(こんな気持ち、サーファー以外の誰も共感してくれないんだろうな)
奇妙な感慨に耽りながら岸側に目をやると、西陽が逆光となり、こぢんまりとした万里の街をシルエットに変えていた。
万里浜、悪くないな——
最初は全くいい印象を持っていなかったポイントだが、今日1日だけで随分と印象が変わった。
ローカルサーファーのクセが多少強いのは否めない。しかし、ここに根を下ろす色とりどりの人々と一気に交わったおかげで、既に自分が万里浜の一部に属せたという、自信のようなものが芽生えていた。別に万里の波を乗りこなしたわけでもないのに、不思議なものだ。
(ここに、また来ていいんだ。何しろ、俺には受注した仕事がある——)
元々の印象がネガティブだっただけに、そう思えることは、喜びもひとしおだった。
誰でもいいから、全国のサーファーに自慢したい。Twitterで、万里は怖いと噂していたサーファーたちに対して、声高に叫びたい。
全然、そんなことないんですよ、と——。
セットが、入ってきた。
反射的に左を見ると、そこにいた和虎が口笛を鳴らした。
「ヒュウ!マエノリくんの波でしょ!」
右に首を振ると、もちろん、そこには誰もいなかった。
ノーズを反転させてボードに腹這いになる。水を掻こうとすると、いつの間にかピークのインサイドに寄ってきていたグレッグと目が合った。
「ゴーゴー!」
グレッグが叫ぶのを合図に、力丸はリラックスして水を掻いた——
——と、ダブルアップし始めたピークの波は思ったよりも大きく、そしてブレイクするタイミングが早かった。
パーリングの予感が全身を駆け抜け、力丸は思わずをボードを引いた。
(あちゃあ、やっちゃったよ)
まあ、いいか。この人数なら、またすぐにセットの波に乗れるわけだし。それにしても、今の波はかなり良さそうだったな。
名残惜しげにインサイドまで規則正しくブレイクしていく波をアウトから見送っていると、再び、グレッグと目が合った。
「いや〜、ミスっちゃいましたよ〜」
力丸は、おちゃらけた照れ笑いを作って見せた。ご丁寧に頭を掻く仕草付きだ。
その時である。これまで温厚を絵に描いたようなグレッグの表情が妙に硬いことに気が付いた。
(あれ……?)
力丸が違和感を覚えると同時に、グレッグが憤怒の形相で吠えた。
「ファアアアアアアック! You’re gonna have to go! 」
「えっ……」
あまりに予想外の怒りの質量に圧倒され、力丸は言葉を失った。
グレッグは怒りが収まらない様子で続けて捲し立てる。
「オマエのボード、もう走り始めてたよ!なんで引いた!?怖いんだったらいますぐ家帰れ!Coward!」
「そ、ソーリー……ごめんなさい」
(き、今日は波にチャージしても怒られ、チャージしなくても怒られたな……)
反射的に頭を下げながら、力丸は、やはり万里浜のことをナメてはいけないのだと、改めて気を引き締めるのだった。
〜〜第一部 完〜〜
第二部へとつづく >
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