【サーフィン小説】ビジタリズム|第17話
17ラウンド目 一掃
鬼瓦に押し込められた小さな部屋は、いかにも事務室といった体で雑然としていた。
部屋のちょうど中央にグレーのオフィスデスクが二つ向かい合って並んでいる。鬼瓦は、その一方のデスクに力丸を強引に座らせたと思うと、再び部屋の外へと足を向けた。
「前野くん、ちょっとここで待っといてよ」
「はあ……」
鬼瓦が部屋を出て行ってしまうと、残された力丸は、落ち着きなく部屋の中を見渡した。
開放的な空間に仕上がっていた店内とは対照的に、この小部屋に窓はなく、壁面を埋め尽くしたスチール性のラックには、おそらく各種サーフィン用品メーカーのカタログやオーダーシートなどなのだろう、ぎっしりとファイル類が並んでいる。
サーフショップの表側は、来店客に夢を見させる空間。そしてここには、ビジネスとしてのサーフショップの現実が詰まっているのだ。
それにしても、狭い小部屋の中央に一人座らされていると——もちろん実際に入ったことはないのだが——取調室にいるような気分になってくる。
まさか取って食おうというわけじゃないだろうが、鬼瓦は一体なにを企んでいるのだろう?
先程までは自分にサーフボードを売りつけようとしているのではと感じていたが、この部屋に連れ込まれたのは全く別の理由に違いない。
力丸があれこれ考えを巡らしているうちに、再びドアが開き、鬼瓦が、ぬっと姿を現した。その手には大きめのグラスが握られている。
「ほい、1ラウンドやった後だから喉乾いちゃってるでしょ」
どん、と目の前に置かれたグラスに並々と注がれている液体は、霞がかった黄金色で、その上層部はキメの細やかな泡で覆われていた。
「こ、これって……」
「ん?ビール」
「でも、麦茶って……」
「こんなん麦茶みたいなもんでしょ。まあ、やっちゃって」
力丸は、得体の知れない危機感を覚えた。このビールに口をつけたら最後、それが何かは分からないが、とにかく後戻りはできないような気がする。
しかし、実際喉は乾いていた。それなりに激しい運動を2時間ほどしているし、まだ朝とはいえ、気温はだいぶ上がってきている。
それに、目の前のビールは、なんとも言えない引力を放っていた。力丸の知っているビールといえば、ジョッキに注がれたクリアな液体だが、これは見た目からして全く違う。
力丸は吸い付けられるようにグラスを手に取った。
(車だけど……まあ、もう1ラウンドやれば大丈夫だろ)
グラスを口に近づけると、マンゴーやパッションフルーツ、そして柑橘類を思わせる爽やかな芳香が立ち上り、力丸の鼻腔をくすぐった。
(な、なんだこれ……!)
液体を喉に流し込む。
(!)
力丸の喉仏が動くのを見届けると、鬼瓦がニヤリと右の口角を持ち上げた。
「イケるでしょ?これ」
「はい、こんなビール飲んだことないです……フルーティで、軽いんだけど、ちゃんと濃い、というか……」
「実際、度数も軽いんだよ。3.5%とかかな。サーフィンの後に飲むように造られてるから」
「え?そんなビールあるんですか?」
鬼瓦がまた満足そうにニヤリと笑う。
「アフターサーフブルーイングのサンライズコシハラエールってんだけどさ。万里でしか飲めないよ、これは」
鬼瓦の一言で、力丸はピンと来た。これはきっと、和虎が後で行こうと目論んでいる、レジェンドサーファーのナントカさん……ええと、そうだ、イイナさんが造っているというビールだ。まさか、自分が先に味わうことになろうとは。しかも、ヤツが言うように、これは確かに一口でビールの概念が覆るような味わいである。
なぜそんなレアなビールがサーフショップで飲めるのかは分からないが、とにかくこれは後で和虎に自慢してやろう、などと考えていると、鬼瓦が急に表情を引き締めた。ここからが本題、ということだろう。
「前野くんさあ、ウチのロゴを作ってくれないかなあ」
鬼瓦は、予想以上に単刀直入に切り込んできた。
「えっ……と、ロ、ロゴ、ですか?」
「うん、ワイプアウトのロゴ」
(やっぱりそういう話か……)
正直なところ、部屋に通された時から、薄々こんなことじゃなかろうかとは感じていた。何しろ、力丸がデザイナーだと告げた途端に、鬼瓦の目の色が変わったのだ。でも、こんなにいきなり制作物を依頼されるとは思ってもみなかった。
「ぼ、僕が作るんですか?」
「うん。前野くん以外誰がいるのよ。ビール飲んだの前野くんでしょ?」
い、いや、ビールはあなたが勝手に……という言葉を飲み込んで、力丸は疑問に感じたことをぶつけてみた。
「で、でも、なんで僕のデザインを?」
だってそうじゃないか。誰かにデザインを頼む場合、普通なら、その人のデザインが好きだとか、他の仕事を見て気になった、とか、そういうのがあるはずだろう。力丸は、この店の単なる一見客である。それに、サーフショップなら他にも色々ツテはありそうなものなのに。
鬼瓦はその質問には答えずに、力丸の目をじっと覗き込んできた。その威圧感たるや、オッキーとはまた違う、決して怖くはないが、有無を言わせない迫力があった。
「前野くんさあ、“ワイプアウト”って名前、どう思う?」
「え?ええと……すごい、個性的だと思います。逆張り?というか……」
鬼瓦は目を逸らさず続けた。
「どうせサーファーにとっちゃ縁起の悪い名前とか思ってんでしょ?」
「え?い、いや、いえ、ええと……」
本心をズバリと言い当てられて、力丸の目は全力のバタフライを始めたかのように泳ぎまくった。
力丸の動揺は想定通りだったかのように、鬼瓦は軽く頷くと、突然、デスクの上に山積みにされていた記入前のオーダーシートを一枚つかんで引き寄せると、裏にボールペンで何かを走り書きして力丸に寄越した。
「これさあ、俺の名前なんだけど」
手渡された紙を見ると、立った二つの角張った文字が目に飛び込んできた。
“掃 一”
(——ええと……)
名前としては見慣れない感じがする漢字に、力丸は一瞬戸惑った。
「“そう・はじめ”、っていうんだけど」
「ああ!そうなんですね、そうさんなんですね」
「そうそう、そうなんだよ、そうっていうんだよ」
……なんだかやりにくい名前である。
「俺はこの名前で、この世界で世界に出たいと思ったわけ」
「は、はあ」
最初の“世界”は、おそらくサーフィン業界、2個目の“世界”は、ワールドワイドになりたいということ、なのだろう。
「ときに前野くん、君、ブリヂストンの創業者の名前、知ってる?」
「ああ、石橋さん、ですよね?」
「そうそう。若いのによく知ってるじゃん。さすがデザイナー。ってことは、ブリヂストンの社名の由来も知ってるよね?」
「ええと、確か、石橋さんの苗字をひっくり返して英語にしたんでしたっけ」
「そうそう、それで、世界に進出したわけじゃん、ブリヂストンは。あれ、すげえいいな、と思ったわけ。俺がサーフショップ始めるとき」
ここで鬼瓦が、手に持ったボールペンの尻で力丸の前にあるオーダーシートの字を叩いた。
「ひっくり返してみ?俺の名前」
「ええと、フルネームを?」
「そうそう、苗字は一文字しかないからひっくり返せねえじゃん」
がははと笑う鬼瓦に釣られて引き攣った笑いを浮かべつつ、力丸は脳内で「掃一」をひっくり返した。
(——“一、掃”……で、英語……?)
「あっ!」
力丸が声を上げると、鬼瓦が満足そうに右の口角を持ち上げた。
「だろ?」
“一掃”で、“wipeout”。確かに、ブリヂストン的発想から得た、1発でサーフィンをイメージさせ、それでいてグローバルに通じそうな名前ではあるが……同時に、世界中のサーファーから忌み嫌われる可能性は無限大である。
「ダジャレで……」
「違う違う、これはオシャレって言うんだわ。ともかく、俺はこれでいつか世界に打って出られると確信したわけよ」
「は、はあ……」
日本の片隅にあるローカルサーフショップが世界に出るとはどういうことなのか。そもそも、なぜ目の前の得意げな男が自分にロゴデザインを頼むのか。
その理由については、依然として皆目検討もつかなかった。
〜〜つづく〜〜
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