見出し画像

未来のあなたへ


未来のあなたへの手紙

「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が1つになるというイメージは、自分の中の望ましい感覚とともに、結構前から思っていたかもしれない

VisionaryWorkというコンセプトも、今している「場づくり」についての探究も、このイメージと結びついている

この地球の未来はどうなっているだろう?
世界はどうなっているだろう?
社会はどうなっているだろう?
日本はどうなっているだろう?
企業や学校はどうなっているだろう?
私たちの半径5mはどうなっているだろう?

そんな未来に向けて手紙を書いてみようと思う。これを受け取った未来人はどんな顔してこの手紙を読むだろう?

拝啓 未来のあなた

こんにちは。2023年のわたしです。といっても、これを受け取っているあなたにとって時間という概念はもっと曖昧になっているでしょうけれど。

あっ、それから手紙に書いてある「多い」とか「少ない」とかの感覚はあくまでわたしの主観です。

人は自分の観念を現実と混同してしまうので、ここに書いてる世界は、わたしの世界から見えている世界です。まあこれもあなたにはわざわざ言うまでもないことかもしれませんが。

最近わたしは「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が1つになったような場の概念を、こんな対比で少し図化してみました。

左はトレードの世界観、右はイコールの世界観

なぜ働かなければならないの?

「働く」は多様だし、いろんな考え方はあるし、「働く」を自分なりの形で思いきり楽しんでいたり、むちゃくちゃ意義あるものとしてパワフルにやっている人たちもわたしの周りにはたくさんいます。

でも、一方で「働く」ということをあまりポジティブに捉えられない状態の人もまた、今この世界にはたくさんいます。

たぶん、「なぜ働かなければならないの?」と問われた時に、その理由は働くことで生きるために必要なものを手にいれるためという感じの人は多いんじゃないかって思います。今はそういう構造の中で生きている人が大多数の時代です。

働いても働かなくてもいいけど、働きたいから働くって人は、いわゆる十分な金融資本を持っている人たちで、そうではない人のほうが圧倒的多数です。

なので、大半の人は働くことで得たお金で、暮らしたり遊んだりする。そんなふうに働くと、暮らす遊ぶはトレードの関係になっています。(図の左側)

学ぶことは、大人であればその働くの対価を高めるためにすることが多く、子どもであればなんかやりたくないけど学ばなきゃいけないからやっているケースが多いように思います。(もちろんそうではない人もいますが)

だから出来ればしないに越したことはないし、そもそも面白くないって思っている人が多数いるように感じています。

働くこともまた、必ずしも楽しいものではなく、むしろ我慢やストレスを発生させたり、疲弊させたりする、苦しいものになっていたり、そこまで苦しくはなかったとしても、楽しいわけではないし、そもそも働くことに楽しさを求めないという考えの人もたくさんいます。

そんな大人を見ている子どもは、次第に自分の将来をそこに重ねるようになり、仕事観を形成していきます。働くって大変。働くって面白くない。働くは我慢するもの。働くはそこそこでプライベートを楽しみたい。そもそも働きたくない…etc.

人生の時間のうち、どのくらいを「働く」に充てているだろう?我慢して割り切って働いてはいるものの、その「働く」に人生のかなりの時間と、自らの労力をそこに割いていることを考えると、それは自分の命の使い道として果たして幸せなんだろうか? 人生にウェルビーングを感じられるのだろうか?

トレードからイコールへ

わたしは、この働くが、暮らすや遊ぶとトレードの関係ではなく、限りなくイコールに近い感じ(図の右側)になっていったらいいよなって思っています。

学ぶも仕方なしにやるんじゃなく楽しくてやりたいからやるとなったら、もうそれは遊びとなんら変わらない。

働くが自分の楽しさやよろこびや好きや意義や、そういったものに繋がっているとそこに、”甲斐”を感じます。やりがい、いきがい、はたらきがい。

甲斐を感じられるからこそ、働くは同時に学びにもなり、遊びにもなり、暮らすと働くの境界線は薄らいで、人生のすべての時間が自分にとって素晴らしいものと感じられるような方向になってゆくんだと思います。

そうなると、時間が密度もまたむちゃくちゃ濃くなってゆく。

たとえば10の時間のうち、働くを5、暮らすと遊ぶを4、学ぶを1というふうに割り振るのがトレードの世界。でもそれらが重なっていくと、全部が同時進行だから10・10・10という感じになるのがイコールの世界。

モチベーションの源は?

「確かにそうなったらいいが、何から手をつけたら、そうなるんだろう?」 って思う人も多いんじゃないかって思います。

手始めに、自分のワクワクするものをいろいろ紐解いてみると、自分のモチベーションの源がなんなのかがわかってくるんじゃないかって思います。私もそうしてみました。

|べき|ねばならない|でも|だって|どうせ無理|のループにはまっている時に一番忘れているものが、このワクワク感なんだろうなって思います。

そのワクワクを活かしながら、働くに転換させていったらどんなことが出来るだろう?

そのアイデアを考えて試してみることが、暮らすと働くと学ぶと遊ぶが1つになってゆくことに繋がってゆくんだと思います。

ワクワクしながら思いきり楽しんで、疲れたら休んで

試みにすこし妄想してみると…

もうすでにそこかしこで生まれていることから、具体的にイメージしてみようと思います。未来にはもっとぜんぜん違うことが生まれているかもしれませんが…。

たとえば、料理することが好きで、心地よい空間や雑貨が好きな人が、自分の好みをギュッと詰めこんだいい感じのカフェをやる。

カフェごはんをお客さんに振る舞うし、一緒に自分も食べたりもする。メニューの研究を常連のお客さんたちとワイワイ楽しんでやっていく。まさに暮らすと遊ぶが働くと重なっている。

そんな中で栄養のことや農業のこと、地球のこと、先人の知恵、いろいろなことに興味が湧いて学ぶ。学べば学ぶほど面白くなってゆく。

そのプロセスで出会った人たちと繋がりながら、自分も誰かも地球もよろこぶような活動やイベントをひらいたり発信したりする。

カフェに来てくれるお客さんの中に本好きな人がいて、カフェの一角で本屋をはじめることになる。選書のユニークさが評判になってリアルだけでなくオンラインでも問い合わせがくる。

オンラインのお客さんがカフェ×本屋の空間がすごく魅力的だと感じて、はるばる遠方から遊びにくる。

どうせだったら泊まれるようにしちゃおうと内装や建築やデザインが好きな人たちが集まって、泊まれる場所をつくってみる。

でもオペレーションが大変になると心地よく出来ないので、泊まれる人数は少なめ。関わる人が無理をしすぎず、好きなことをベースに関わっていく。

もちろん好きなことの中にも大変なことや面倒くさいことはあるけど、楽しいことがいっぱいあるから、それらもそんなに苦にならない。

「誰かのため」はそこに義務感や理不尽感からくる自己犠牲感が生まれると苦になっていく。でも本来そうしたくてやる「誰かのため」はよろこびだ。

そこに感謝があって、ねぎらいがあって、尊敬があると、よろこびが循環していく。互いに、自分の得意を誰かのために使えたらそれは素敵な世界だ。

子どもたちは本来、信じられないくらい豊かな想像と創造の力を持っている。(もちろんそれは大人もそうだけど、まだいろんな観念に縛られ過ぎていない分子どものほうが自由度は高い氣がする)

学校はやならなきゃならいことだらけで、それをやった先に何があるのかもよくわからないから、面白くない。でもここでいろんな世代同士で、「こんなことやってみようか?」っていろいろやっていくのは面白い。

やりはじめたら、いろいろ知りたくなって、聴いたり調べたりやってみたりetc.氣がついたら、いろんな知識や知恵を体験しながら身に着けている。

いろんなアイデアを考えたり、妄想したり、そんなワークショップで生み出したアイデアを形にしてみたら、ユニークなアイデアがビジネスになっちゃって、氣がついたら小学生で社長になっている子どもも。遊びが学びになり働くになっていった。

小さく個人からはじまった場が、いつしか多くの人が協働していくコミュニティになってゆく。そこでは暮らしと遊びと学びを重ねたような「働く」をしている人たち同士が協働していて、一つの共同体を成している。

その共同体が経済活動を生み、そこに人やものやコトやお金が集まり回ってゆく。経済活動が活性化していけば、より働くと暮らす・遊ぶ・学ぶが1つになった感じをやれる人が増えていくから、それはいいことだ。

でも自分たちの心地よさや心の豊かさや自由さやそういったものを犠牲にするような成長・発展は望まない。だってそれって闇雲に忙しくなるだけだから。本質的に誰もよろこばない。

経済活動はいつしかそれが目的かをしてしまったり、わかりやすい指標になりやすいので、それが目標値になってしまったりすることは多いけれど、それはここではしない。だから必達を目指す目標も計画もない。

「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が1つになっていく場とそこにいる人たちがウェルビーングな感じになっているVisionと、そこから生まれる「こんなことやってみようか?」というアイデアを形にするためのゆるい目標と計画はあるけれど。

計画に向かって進んでいくのではなく、まるで遊ぶかのように「こんなことやってみようか?」の連続で氣がつくと、このコミュニティが育っていっている感じがいい。

「場」は生成的に育ってゆく

具体的なはじまりは小さく場をつくってみることから

いろいろ書いてみましたが、具体的なはじまりはたぶん小さく場をつくってひらいてみることからはじまってゆくんだよなって。共感しあい協働する仲間とともに、みんなが複線的に働きながら、この場に関わってゆく。

精緻な完成予想図から逆算してつくるんじゃなく、ざっくりとした望ましい妄想ビジョンが少しずつ育っていくような感じで。「お~こんな感じになるんだね」とか「これも面白いかも~」なんて言いながら。

それを多くの人がやっていったら、どんな形になっていくんだろう?
果たして、「暮らすと働くと遊ぶと学ぶ」が1つになったような場は出来るのだろうか?そして「暮らすと働くと遊ぶと学ぶ」が1つになったように生きる人たちはどのくらい増えるのだろうか?

未来のあなたがこの手紙を見たら、どんな風に感じるだろう?

長い追伸(って追伸なのか?ww)

学校と企業のどちらかに属している人は現代ではとっても多いです。

今、自分のいる学校または企業で、学んだり働いたりしていることが「楽しい!!」と思えている人はとっても幸せななんだと思います。

でもそうではないなと感じている人は多いように感じます。変えたいけれど自分の力ではどにもならないと感じたり、じゃあそこから離れて別のところにと思ってもそう簡単には出来ないと思ってしまう。

仲間を得て、変えてみようと動いてみるものの、大きな壁に無力感を感じてしまうこともあると思う。

でも世界は今いる場所がすべてではない。そして小さく自分でつくることだって出来る。その小さな動きが、大きな変化を生むことにつながることはきっとある。

自分の半径5mで何かを変えることは勇氣のいることかもしれないけれど、きっとそこに共感する人はいる。

9人がバカにしたり出来ない理由を懇切丁寧に教えてくれるかもしれないけれど、1人の一緒にやってみようよという人と協働したらいい。

「暮らすと働くと学ぶと遊ぶ」が1つになるというのは、言い方を変えれば、自分の好きなこと楽しいことをベースに、他の命にも結果的に貢献しているような状態なんだと思う。

すべての命は無数の縁起によってつながっていて、生(活)かし、生(活)かされています。自分の命がよろこぶことは、あなたがそれをすることになっているんだってことを、よろこびという形のサインで教えてくれているんだと思う。だからそれをやったらいいんだよって思う。

生きることはプロセスだから、少しずつそっちのほうへ行けばいい。それを一緒にしたいと思える仲間と出会いながら。

未来のあなたが、もし暮らすと働くと学ぶと遊ぶが1つになったような感覚で、今本当に満たされて楽しく生きていていて、そしてそれが世界に広がっているのだとしたら、きっと今こうしてこのnoteを書いている私もまた、その縁起の1つになっているのだと思います。

そして、未来のあなたもまた、わたしがこんな風に思っていろいろ活動する縁起の1つにきっとなっているんだと思います。

時空を超えたつながりを想像しながら、いつか出会っていい感じのカフェでゆっくり話しましょう。

本当に追伸(ってもう追伸じゃないよねww)

この前行った広島にある面白い場所の写真を同封しますね。わたしは今、日本中のこんなところを、いろいろ訪れています(リサーチ!)

きっとこんな感じのところがこれからもっとたくさん増えているんだろうな~ 

未来のあなたにとっては何も目新しくないかもしれないけれどw

もともとあった空間を再利用していてね


ここにあるごはんもパンもコーヒーも、なんか温もりを感じるんだよね


2Fに本棚があって、1Fには売ってる本もあって


奥には美容室があったり


リサイクルアンティークショップがモノを循環させていて(猫はいなかった)


みんなでつくる、みんなの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?