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現代作業療法の原則 後編

今回も前回のnoteを書いてからもう1ヶ月…と、またもやあっという間に時が経ってました。9月はなかなか多忙で、後述する個人的なプロジェクトの準備、そして連休は、産業領域での作業療法を学んだCOTスタディツアー、スタディツアー中に大学院の先生方と同期の方が企画したOBP2.0の事例検討会に参加、COTツアー後はPolatajkoさん達が広島に来て行った「クライエント中心の作業療法」についてのセミナーにオンライン参加しました。

その後、Xのスペース(結局、Zoomに移行しましたが)での「作業療法理論と作業科学について」のイベントがあり、20人以上の方の前で色々話させていただきました。その他にも参加できませんでしたが、他の先生方の作業療法の勉強会やイベントが目白押しで、個人的にはまさに9月は作業療法の月だったなあと思いました。

では今回は前回の続きの、Willard & Spackman's Occupational Therapyに書かれている『現代作業療法の原則』の続きです。


先月(前回)の、現代作業療法の原則の復習

では、復習というか、1月前に紹介した、『現代作業療法の原則』を改めて紹介しておきます(ちなみに訳語、訳し方の問題は孕んでいると思うので、より良い訳し方などがある場合は、教えてください)。

クライエント中心、関係性の実践 (Client-centered and relational practice)

作業中心の実践 (Occupation-centered practice)

エビデンスに根ざした実践と実践に根ざしたエビデンス (Evidence-based practice and practice-based evidence)

文化に関連した実践 (Culturally relevant practice)

実践における作業的公正(Occupational justice in practice)

1.G. Gillen & C. Brown (Eds.), Willard and Spackman’s occupational therapy (14th ed)

今回は、「作業中心の実践」、「文化に関連した実践」、「実践における作業的公正」になります。この中では、第13版から14版へ移行して加えられたのが、「実践における作業的公正」です。また「文化に関連した実践」についても、地域や国ごとにどのような違いがあるかなどの記述が多くなっています。世界中で作業療法が行われる中で、文脈の多様性の理解の重要性が増し、作業療法(発展)の多様化が進んでいることがわかる内容になっています。では、一つ一つのテーマについて取り上げて行きます。

作業中心の実践(Occupation-centered practice)

作業療法士が専門職としてユニークなのは、「作業は、健康とウェルビーイング(幸福または安寧)にとって重要」であり、「人々は作業的存在であり、作業を通してアイデンティティを構築し、また自分自身を再構築できる」という哲学を持っていることです。

では作業とは何でしょうか?この言葉の定義を深く理解するためには、元のアイディアを知ることが重要でしょう。元々、「作業=Occupation」という概念は、ジョン・デューイが提唱した哲学の概念から採用されたものでした。デューイは、かつて子どもが家庭や生活の中で行う活動や仕事、探究が、子どもの成長、社会の人々と結びつくために欠かせないものであると考えました。それらの営みを特別な意味を込めて、「作業=Occupation」と名付けました。

この概念は、スーザン・トレーシーによって世界最古の教科書において採用され、作業は良くも悪くも健康に影響を与えるものとして考えられるようなり、医学的な治療においても使用できることを示しました。またBreines によれば、作業療法の創始者にとって、「作業=Occupation」という概念は、「心、身体、時間、空間、その他」の要素を包含しており、作業療法の創世記の多様な実践を支えるものでした。

ただし、この作業という用語は、包括的な意味を待つがゆえに創始者や専門職自身も核となるものが何かを理解することが困難でした。そのため、医療が科学的な実践を重んじるような時代(いわゆる機械論パラダイム、還元主義パラダイム)になると、「作業=Occupation」という概念が使われなくなるなど、専門職としてのアイデンティティを失いかけた時もありました。そこで、医学と作業のハイブリッドを目指して作業パラダイムの現代化を狙ったマリー・ライリーの作業行動理論により再び、「作業=Occupation」が再び重要視されるようになりました。それ以降も「作業=Occupation」という概念は、何度も継続的な検討、論争、再定義を生み出しており、今なお続いています。そこで、様々な作業の定義を参照して作られたのが、世界作業療法士連盟(WFOT)による定義で、広く使われています。

「作業とは、人々が個人として、家族として、また地域社会とともに、時間を占有し、生活の意味と目的をもたらすために行う日常的な活動のことである。作業には、人々が必要とすること、望むこと、期待されることが含まれる」

WFOT, 2012a

その人にとっての日々の生活、営みということでしょうか。その他の「作業=Occupation」を理解する方法として、まずは「作業=Occupation」という概念を考えたデューイの哲学を見てみましょう。
デューイは自身の哲学を深化させていく中で、「作業=Occupation」は「経験(Experience)」へと変化しました。トレーシーが書いた教科書は、『学校と社会』からの一節でしたが、デューイはその後、教育哲学の代表作だけを見ても、『民主主義と教育』を経て『経験と教育』を発表しています(他の代表作でも、『経験と芸術』、『経験と自然』などもあります)。特に作業療法という専門職が成立した後(1917年に成立)、1928年に発表されたのが、『経験と教育』です。ここで「作業=Occupation」は「経験(Experience)」へと変化してます。作業科学の研究者のCatchinらは、作業療法の創始者たちが、後年までデューイの哲学を学び続けていなかったことを批判しており、もしかしたら、そのことが「作業=Occupation」とは何か?という謎が深くなってしまったのかもしれません(実際、創始者の重要人物のアドルフ・マイヤー『作業療法の哲学』にもデューイに関する話はありませんでした。そのため後年の作業療法士がより悩むことになったかもしれませんね。)

そしてキールホフナー、アン・フィッシャー、アン・ウィルコック等、著名な作業療法、作業科学の研究者達も「作業=Occupation」とは「経験(Experience)」と明らかにするなど、作業療法は哲学と異なった深化・発展を遂げながらも、核となるものは同型となっています。このように考えると、作業療法とは、「人々の日々の様々な生活の営みや活動を支えることで、日々の経験をより良いものにし、(身体的にも、精神的にも、社会的にも)健康的で良い状態(Health &Physical、Mental、Social Well-being)を共に作り上げていく」実践と言えるのかもしれません。

では「作業中心の実践」を行うにはどのような認識が必要なのでしょうか。Dickieらは、「作業とは人々が基本的な欲求を満たすものであり、独立した活動ではなく、家族、友人、そしてより広いコミュニティに貢献するための日々の活動が網の目のようにつながっている」ことを認識する必要があると主張しています。またクライエントの能力(心身機能)だけでなく、課題の要求、環境(物理的・社会的・作業的環境)、作業遂行のコンテクスト(意味、社会、文化、歴史、地理・政治経済状況など)など、作業を構成する多様な要素と、その関係の複雑性を理解し、全体論として捉えて介入することが重要とされています(以下の例は、作業のトランザクショナルモデルの図)。機能(医学)か作業かという二元論を乗り越えて、作業の問題を社会や社会システム、歴史、文化、文脈などを含めて考えるということが今後の課題なのだと考えられます。

作業中心の図を選んでみました。

最後に、作業の中心性の重要性は、歴史的に基本理念だから重要というだけでなく、研究においても、作業の中心性を裏づけるエビデンスが明らかになってきています。特にこの「現代作業療法の原則」を示した『Willard &Spackman’s OT』の第14版はそうしたエビデンスを集めた本でもあります。つまり、クライエントにより良い結果を期待できる実践を提供するという意味でも、「作業中心の実践(OCP)」は重要ということですね。

歴史を振り返っても、「どう生きるべきか?」を問い直す必要が出た時代には、道徳療法が生まれ、アーツ&クラフツ運動が生まれ、作業療法が生まれました。AIが発展し、未来を予測しづらい時代になってきた今、「どう生きるか」に悩む人、生きづらさを感じる人が多くなっているからこそ、再び「作業中心の実践」が求められているのでは…?と個人的には考えています。

文化に関連した実践(Culturally relevant practice)

文化に関連した実践が、注目されるようになったのは、作業療法の国際化、グローバル化が進み、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの英語圏の国々以外、アジアやアフリカの国々で作業療法が展開されるようになったからです。アジアやアフリカで作業療法が行われるようになると、西欧や英語圏の生活方法や社会の価値観との違いが浮き彫りになりました。そのため、人間生活のあらゆる活動、作業は文化の影響を受けていると考えられるようになりました。

この時の「文化」という言葉が意味するものは、マクロの視点では、「人々の営み(作業)や社会的期待を形作る、共有された態度、価値観、目標、実践の集合」ということです。特によく考慮されるのは、「個人主義的志向」と「集団的志向」です。例として、アメリカでは自立と資本主義を重視する文化であり、Clは自立することが求められるとしています。しかし南アフリカでは、ubuntu( I am because we are )という集団主義的文化であり、この概念は家族、コミュニティ、または社会のネットワークを重視しており、そういしたサービスを積極的に使うことが重視されていると考えられています。

つまり、国や地域の文化を考慮した実践を行うことが重視されているわけです。特に今回の『Willard &Spackman’s OT』では、西欧だけでなく、アジアやアフリカなどの様々な国の作業療法実践の状況やクライエントの価値観や行動原理などが触れられています。また作業療法理論という観点でも、日本の文化的側面を重視した「川モデル」、イランのOTによって作られた作業的全体性モデル(Model Of Occupational Wholeness、通称MOW)という理論が取り上げられています。そして、他の章でも各国の作業療法実践の状況、クライエントの価値観の傾向が取り上げられており、様々な実践状況を学ぶことができます。また『子どもと作業中心の実践』でもアボリジニーという「他の」文化的集団と関わる実践の章があり、川モデルを使った実践例があるなど、「文化に関連した実践」は、とても重要視されていると考えられます。

ただその一方で、先日の連休中にあった「クライエント中心の作業療法」のイベントでPolatajkoが言っていたことも重要で、個人主義か集団主義かということを国や地域で本当に分かれているのか?という指摘があります。文化とか歴史のような大きな物語が要因ではなく、単にその人の価値観、家族の文化などによる差があるだけかもしれないわけですよね。実際、MOHOやCMOP-Eなどの評価は研究により、様々な国で使用できることを明らかになっていて、だから日本でも使用されているわけです。以下のサイトは、『川モデル』を作った、Iwamaの東大での講演について取り上げたものです。マクロの意味での文化について考えるきっかけになるかもしれないので、是非読んでみてください。

Iwamaは、論文においても日本には「Occupation」に対応する概念がなく、日本人には「Occupation」や、MOHO等の西洋文化の影響の色濃い作業療法理論を理解するのは難しいと論じてました。確かにそう感じるところもある反面、「Occupation」という概念が取り入れられたデューイの教育哲学は、日本でも中国でも好意的に取り上げる人がいたという事実もあります(もちろん批判もありました)。デューイの哲学は、東洋の思想との類似点を指摘する意見もあり(デューイが中国に訪れていた時、デューイの哲学は孔子の思想と比較され、非常に好意的に歓迎されています)、どのように文化を捉え、対応していくか?ということも今後の課題になるのではないでしょうか?

また文化に関するミクロの視点では、自分の文化(価値観、そして思い込み、偏見も含む)に気づき、他者(クライエント)の文化を理解する重要性という意味で、「文化に関連した実践」は重要視されています。他者(クライエント)の文化を理解する能力は、「文化的流暢性」という概念となっており、意識すること、謙虚さ、学習マインド、共感、尊重、適応性を意味すると考えられています。そのため、倫理的で文化的に適切な作業療法を行うためには、クライエントや地域の人々の、複雑で、ダイナミックな文化的コンテクストを学び続けることが重要とされています。

そのためか、『Willard &Spackman’s OT』のクライエント中心の実践についての章では、「意図的関係モデル」が取り上げられています。「意図的関係モデル」はMOHOやMOWでも重要視されています。日本でも、昔から精神科作業療法では、治療的自己の使用は重視されてましたし、研究では「信念対立」という問題が取り上げられ、「信念対立解明アプローチ」という理論もあります。「信念対立」はまた対クライエントや家族だけなく、チーム医療や多職種連携の問題でもあります。これらの共通点は、上記の『文化的流暢性』が重要としていることだと考えられ、ミクロの視点での「文化に関連した実践」も今後の重要な課題になりそうです。

最後に、学問的、理論的課題としては、作業療法がそもそも西洋的文化、価値観によって作られ、発展してきたこともあり、西洋化された実践を安易に他の文化に輸出することは、作業療法の多様性を妨げるのではないか?と考えられています。これは作業療法の歴史の捉え方などにも表れています。例えば、自身もnoteにまとめた、移民や経済的に貧しい人を支援したジェーン・アダムズのセツルメント運動も、一般的には作業療法の歴史の中で美談とされています。しかし『Willard &Spackman’s OT』には、「その運動は、白人だけが対象でネイティブアメリカ人やアフリカ系アメリカ人は含まれてなかったよね?」というアフリカの作業療法研究者たちの指摘があり、西洋中心の価値観のみで歴史を見ようとすることに対するを批判が挙げられています。作業療法が世界中に広がったからこそ、そうした様々な国の作業療法研究者の批判的検討が進んでいるのを実感します。学問的、理論的な面としても、人々の営み(作業)が文化やコンテクストに影響されるからこそ、その国の文化や価値観を重視するべきだと考えられ、今後の重要な検討課題になりそうです。

実践における作業的公正(Occupational justice in practice)

作業的公正とは、もともとウィルコックが『An Occupational Perspective Of Health』の初版で提唱したもので、のちに、タウンゼントと共にこの概念を発展させました。ウィルコックとタウンゼントは、作業的公正を権利・公平性・公正さと同一視し、全ての人が作業参加の機会やアクセスを平等に持つ権利があることだと定義しました。そしてその人が自身が望む作業参加を制約する(作業的不公正)のは、社会的、文化的、経済的、政治的な影響などの権力構造であることを主張しました。つまり、作業療法の生活状況に関わらず人々が意味のある作業に参加できるようにするという専門性を考えれば、作業的公正を実現することは、作業療法の目的を達成するために必須であると考えられるようになりました。

また作業的公正が重要視されるようになったのは、インクルージョン、ニューロダイバシティー、障害者権利運動などの影響もあるようです。生物医学的に影響を受けた環境での制度や実践は、病気や障害に焦点を当て、クライエントや地域の人々の重要な生活活動に注意を払わないようにし、不公正を生み出していると考えられるようになっているからです。ところが、障害学などでは、作業療法士の多くが障害に焦点を当てた実践や能力に焦点を当てた実践を行っており、できるだけ健常者または定型発達に近づくように強いている職種であるとして非難されています。これはある意味、作業療法の本来の専門性や実践の目的と大きく異なっているとも言えます。作業療法の創始者の重要人物だったバートンは、障害を有する当事者でしあ。当事者のバートンが、作業の重要性を訴えて、作業療法が生まれた面があることを考えれば、作業療法士が不公正を生み出す側にならないことが重要ですよね。

歴史的に見ても、アーツ&クラフツ運動、セツルメント運動、精神衛生運動など社会運動の中で作業療法が生まれたことを考えれば、作業的公正は、作業療法の創設時からのアイディアとも考えることができるかもしれません。作業的公正は、作業の問題を個人ではなく、集団または社会の問題と捉え、社会の構造を分析することが重要視されています。その結果、人種、経済、ジェンダー、障害、その他の領域でのマイノリティの人々の医療へのアクセスや社会的支援の質に格差があることが主張されています。そのため、作業療法士はそうしたマイノリティの人々を擁護し、社会に働きかけることが求められ、どの領域で働くにしても、法律や制度、経済、武力紛争、政変、独裁、自然災害など、社会や経済、政治などの幅広い視野と知識が求められるようになっています。世界的に作業療法士もどんどん社会に出ていくことが求められているのかもしれませんね。

最後に

ここまで『Willard &Spackman’s OT』の第14版に書かれていた、「現代作業療法の原則」を紹介しました。自身の実践やこれまで学んできた作業療法と比較してどうだったでしょうか?以前も書いたように、自分自身、『Willard &Spackman’s OT』の第14版の通読、日本語訳をしながら、作業療法をアップグレードまたはインストールをし直しています。『Willard &Spackman’s OT』の第14版を通読しながら学び直す中で、いかに自身が作業療法を実践するために必要な知識や技術が欠けていたかを実感します。是非、気になった方は『Willard &Spackman’s OT』の第14版を自身でも読んでみてくださいね。

それでは、今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

おまけ

ここからはおまけです。本編に関係ないので、興味のない方は、ここまでで大丈夫です。

以前、noteに書き、個人的に構想していたプロジェクトである「ぼっち・ざOBP(仮)」を自身の仲間と近々実行しようと考えてます。内容としては、『Willard &Spackman’s OT』などの海外の文献や海外の研究を基盤にしようと考えてます。トップダウンで学ぶだけなく、そこで学んだことを共有し、どう実践に応用していくか、または本当にその知識は有用か、または普段の実践の悩み相談など、様々な話し合う場、作業療法カフェみたいな場になればいいなと考えてます。ただし提供する教材の質を維持し、準備も入念に行いたいのと、冷やかしの人を避けたいということもあるので、有料で行いたいと考えてます(参加する方がそう負担にならない程度にはしようと考えています)。そのためどの程度、このプロジェクトに価値を感じ、需要や希望があるかはわかりませんが…。

「本格的にオンラインサロンを」、という声もありましたが、大体的に専門職の教育という形で行うには、自分はまだ能力や学術的な実績等は不十分だと考えてます。もし仮にそうした形で、行うには、実績のある先生に監修していただく、というような方法が必要だと考えてます。その代わり学会でも、実績のある先生の勉強会でもない、同好会のようなゆるゆるとした場で、ある意味メジャーではなく、インディーズのような立場だからこそ、実際の研究をもとに作業療法と哲学のようなマニアックなテーマも扱うことができるかな、と考えてます(実際、作業科学の研究では、ハイデガーやハンナ・アーレントの哲学との関連性を論じたものがあります)。一緒に作業療法の深さを、魅力を探究できたらいいなと考えてます。

まあ、誰も集まらないかもしれませんが、それはそれでプロジェクトの改善するためのアクションの結果だと思って、思い切って行動に移そうと考えてます。そのうち、どのような教材を用意するのか、noteにある程度公開して誰でも見れるようにしようと考えているので、興味がある方は見てみてください。プロジェクト内容は、理論がメインというよりは、作業療法を行うために必要な知識を、作業科学も含めて幅広く学んだりできるようになればいいなという感じを考えてます。仲間とは、インディーズバンドのように、地道に活動をしながら自身も成長していけたらいいよねと勝手に話しています。

貴重な時間を割いて、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

参考文献

  1. Coppola, S., Gillen, G., & Schell, B. A. B.(2023). Contemporary Occupational Therapy Practice and Future Directions In G. Gillen & C. Brown (Eds.), Willard and Spackman’s occupational therapy (14th ed., pp. 54–70). Wolters Kluwer.

  2. 京極真.作業療法理論の発展と背景.5W IHでわかりやすく学べる作業療法理論の教科書(小川真寛,藤本一博,京極真編),2020,pp. 14–25,Medical View

  3. Iwama M. Toward culturally relevant epistemologies in occupational therapy. Am J Occup Ther. 2003 Sep-Oct;57(5):582-8.

  4. Ann Wilcock (1993) A theory of the human need for occupation, Journal of Occupational Science, 1:1, 17-24

引用文献

  1. Coppola, S., Gillen, G., & Schell, B. A. B.(2024). Contemporary Occupational Therapy Practice and Future Directions In G. Gillen & C. Brown (Eds.), Willard and Spackman’s occupational therapy (14th ed., pp. 64). Wolters Kluwer.




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