見出し画像

埃を丁寧に拭き取り、重い蓋をそっと閉じた

人知れず、ピアノが死んでいた。

ピアノといっても電子ピアノだ。
娘が久しぶりに弾こうとし、スイッチを入れるも起動しない。

ずいぶん前にスピーカーから音が出なくなっていたのは知っていた。
それでもヘッドホンからは音がしていたから、とくに気にはしなかった。
マンションだからそもそもスピーカーの音はボリュームを最低に絞っていたし、むしろこれで近所迷惑になる恐れがなくなったくらいに思っていた。

思えばその時に手を打っておくべきだったのだ。

しかし、その数年後、どういうわけかピアノの容態は持ち直し、再びスピーカーから音が出るようになった。
それでさらに安心をしてしまった。
何もしないのに音が出なくなり、何もしないのに音が出るようになるのは、どう考えても正常な状態ではないのに。

手を打つべきタイミングをまた逃した。

そしてそのまま時間が経過し、冒頭の娘のシーンを迎える。
『のだめカンタービレ』に影響された娘がピアノの電源を入れた。
しかし、ピアノはうんともすんとも答えない。
娘がSOSを発する。

どうせ電源ケーブルの断線か接触不良だろうと高をくくった。
しかし、細かくチェックするも、電源ケーブルに異常は見つからない。
となると、本体内部の問題だ。
もうこうなったら本体を分解するか、メーカーに修理を依頼するか。

大ごとになるのを避けるため、僕は後者を選択した。
さっそくネットでメーカーの公式サイトを開き、修理のページへ進んだ。
うちのピアノの型番を打ち込む。

——修理対象外

2010年製のそのピアノは、とっくに製造が終了しており、さらに修理部品の保管期限も過ぎていた。

修理対象外の機種につきましては、ご依頼をいただいても修理や点検、お見積り等は承りかねます。

メーカー修理受付サイト

あぁ無情。

この手で開腹手術するしかなくなった。
ピアノの鍵盤を外し、その裏側についている本体ユニットを開ける。
鍵盤とつながる幾本ものコードを慎重に外す。
電子基板が露わになる。
スペースの関係でぐにゃりと折り曲げられたコンデンサーをそっと起こしてみると、そこには焼損したと思われる焦げたヒューズがあった。

万事休す。

断線程度ならいかようにもなるが、テスターを持っていない僕は必要な抵抗値の測定もできず、ヒューズの交換ができない。
昔の分かりやすいガラス管のヒューズならまだしも、基板に組み込まれた極小のヒューズとあっては素人にはさらに難しい。

人知れず、ピアノは死んでいた。

——ごめん。

僕のメンバーシップ〈キャリアコース〉では「カチラジオ」という音声配信をやっているが、そのBGMは僕がこのピアノで弾いたものを使っている。

ショパンの「ノクターン」だったり、レミオロメンの「3月9日」だったり、僕が作った曲だったり…
自分のPCの中に、使える曲はこの3曲しかなかった。
だから、これから時間を見つけて少しずつBGMを増やしていこうと思っていた、のに。
残念ながらそれは叶わぬ夢となってしまった。

僕は開いたユニットを閉じてケーブルをまたつないだ。

鍵盤の隅に積もっていた埃を丁寧に拭き取り、重い蓋をそっと閉じた。
長い間、ありがとう。

(2024/6/8記)

サポートなどいただけるとは思っていませんが、万一したくてたまらなくなった場合は遠慮なさらずぜひどうぞ!