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様々な時間とともに。

例えば今朝感じたような恐ろしい無力感を正確に言葉にすることなんて、とてもできないだろう。少し早めに起き、眠さも取れて窓の外の新緑を眺めながら、ミラノにいた時から使っているエスプレッソマシーンでコーヒーを2杯飲んだ後にこんな気分を味わうなんて何かが間違っていると私は思った。

モーニングコーヒーを飲んだ後が一日で最もポジティブな気分になれる私は、昔からこの時間が何より楽しみだった。そこへいきなりやって来たこの無力感。槍で心臓を串刺しにされるような精神的苦痛さえ覚えた。思えばこの3月からこうした見知らぬ感覚は少しづつ、すこしづつ、不気味なシミのように私の中で広がっていった気がする。
自分ではない何かが内側に入り込み、ゆっくりと蝕み始めているとでもいうのか。日記代わりに3年前からその日の気分を記しているスマホアプリを開いてみると案の定、3月から4月にかけて「悪い気分」が「良い気分」の倍の数に達している。ちなみに去年コロナの一年間を通してみても、圧倒的に私は「良い気分」でいることの方が多かったのである。

そしてふと、最近自分が自分の「年齢」に怯えているなと思った。年齢とは不思議なもので、20歳の時は20歳の、30歳の時は30歳の乗り越えるべき壁のようなものがあり、その壁は年代を追うごとに次第に高さを増していく気がする。面白いのは各年代の壁を前にして「まずい。年を取り過ぎた!」と考えていたことである。30になったらもう遅い。40になったらもう遅いというような、何の根拠もないあせり感じる。それでも「もう遅い」と思っていた各年代はするすると事もなげに過ぎて行き、その先には10年前を振り返りながら「あの頃はほんとうに若かったな」と心から思う自分がいた。つまり「今が一番若い」という事に気が付いていなかっただけなのである。

私を含め、40歳が相当ショックだったという友人がいた。その友人も私も、今は早くも次の50と言う数字に向かって否が応でも突き進んでいる。しかしこのテンポの速さはなんなのだろう?
音楽用語に例えるならこれはもうPRESTO(非常に速く)である。私の「精神年齢」は17年前パリにやってきた頃にどうやらこれ以上成長をしないことを決めたらしく、いつまでも30そこそこの地点に留まり続けているのであるが、
そこから現在に至るまでの時間の感覚は多く見積もっても10年くらいだろうか?つまり40代に入ってから時間の感覚が6~7年くらい縮んだことになるのである。私にはこれが恐ろしいのだ。アインシュタインを引っ張り出すまでもなくどこかに宇宙のカラクリがあるに違いないのだが、もしやと時計のチクタクに耳を澄ませても、それはメトロノームのように正確だ。

コロナになってから、それまで写真に写ることすら嫌いだった私がYouTubeを始めたり、人付き合いの苦手な私がオンラインサロンで人々と交流したりという事を始めた。
一方でリアルな生活の舞台はほぼ家の中だけになり、必需品を買うためにしか外出をしなくなった。ここまで生活スタイルが変わると、様々なことに学びが必要になり、ますます「頭の中」だけが忙しくなる。毎日子供の頃のように膨大なエネルギーを消費し、自分がどこにいるのかわからなくなる時がある。
そんな中で突如襲ってきた「無力感」であった。自分が目に見えない竜巻のような時間の渦に巻き込まれてどんどん流されていくことに対する不安。しかもその先にあるものは一向に見えてこない。
だからと言って「気づいてしまったがために」もう後に戻ることもできない。

午後になり、無性に歩きたくなって近くのビュット•ショーモン公園(Parc des Buttes-Chaumont)へ行ってきた。少し肌寒かったけれどたくさんのパリジャンがそれぞれの時間を楽しんでいた。家族連れ、草の上に寝っ転がる人、ベンチの上でおしゃべりする老人、ボクシングの練習をする人もいればジョギングをする人もいる。私は野性味あふれる起伏のある公園をひたすら歩いた。
急な坂を駆け上ったり駆け下りたり、気の赴くままに歩いていたら広大な公園の中で道に迷ってしまった。触るのに嫌気のさしたスマホは家に置いてきたので、自力で「自分が入って来た」入り口に戻らなければならない(公園の入り口はいくつかある)。満開の桜の木の下でひとりはしゃいでいた私は、突然母親を見失ったことに気が付いた子供のような状態になってしまった。


この公園は形状も成り立ちもユニークで、人工的に美しく整えられたパリのどの大公園とも似ていない。もともとは採石場だったところに(今でも1ヘクタールの岩石が残っている)人口の湖や島、吊り橋に洞窟などがあり、島の上にはイタリアの神殿に着想を得たあずまや「巫女の神殿」なんてものまである(まるでアスレチックパークのようではないか?)。整然としたチュイルリー公園などはいくら面積が広くても、遥か遠くまで見通せて迷うことなどまずないのだが、この公園は何度訪れても把握できない。
結局私は心細くなりながらも「カン」だけを頼りに歩くことにした(正直に打ち明けよう。グーグルマップがないと、たかが公園でもなんと心細いのだろう?)。公園の大まかな案内で東西を確認した後、大体の見当をつけて選んだ道をぐいぐいと進んでみた。すると歩いているうちに不思議にも「こちらだ」と言う確信みたいなものが生まれてくる。

見たこともない場所にいるのに確信がわくとは人間は不思議な生き物だ。もっともこの確信には何の根拠もないのだが、なぜか光の差し方とか雰囲気といったものが私に正しい道を歩いていることを教えてくれる。
やがて5分もしないうちに見慣れた場所に出た。それは小道を歩いていくとだんだん右側に切り立った崖と共に視界が開け、例の「巫女の神殿」が巨大な観音像のような神秘性を纏って現れる地点である。ほっとして周囲に注意を向けると、木陰に無数の白い花が咲いていた。

マグノリアだった。鼻を近づけると何とも言えない新鮮で高貴な香りがした。新月の光をたっぷりと浴びたはずのこの花をどうしても欲しくなった私は、こっそりと少しだけ切り取ってダウンのポケットに忍ばせた。忍ばせる時、指がさっき拾った柔らかい桜の花びらに触れた。
なんだか子供の頃のように嬉しくてたまらなくなった私はいそいそと家に帰り、ちいさなグラスにマグノリアと桜の花びらを浮かべた。吸い込むと公園で嗅いだ時と同じ香りがした。しかもその香りは夜に少しだけ強くなった。こんなちいさな冒険をした私は久しぶりに不安から自由になっただけでなく、もう少し自分の感覚を頼りに歩いてみようと思いながら幸せな眠りについた。




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