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デュラス。[音楽的な文章]

私が【ラマン~愛人】という映画の存在を知ったのは20歳のときだった。
主演のジェーン・マーチが自分と同じ世代であることを最近知った私だが、当時はこの女優が15歳くらいだと思っていた。言うまでもなくこの映画はマルグリット・デュラスの小説をジャン・ジャック・アノーが映画化したもので、当時渋谷の文化村にあるル・シネマにフランス映画の新作が公開されるたびに通っていたほどの【フランスオタク】だった私にはこの映画を観に行かない理由など、どこにもなかった(むしろとても行きたかった)。ただこの映画もまた、ラヴシーンなどの本質的でない話題性ばかりが先行したせいか、いつの間にか観に行く機会を逃し、実際に映画を観たのはフランスに行ってからだった。
この映画のもっとも素晴らしい点を挙げるとするなら、その映像美はさることながら作家のデュラスとも交流のあった、今は亡きフランスの名女優、ジャンヌ・モローの声によるナレーションを忘れることはできない。


ビロードのような声。ハスキーで奥行きがあり、馥郁としたブランデーのようなその声は、どこかに子供の無邪気さを内包している。二元的要素を持つひとつの声は、聴く者の身体の中に深く沁みわたり波紋のように広がっていく。このような彼女の声の感触は、映画の美しい映像にさらに奥行きを与えている。
モローが演じた数々の役の中でもとりわけ有名で、今やファム・ファタル*の代名詞ともなっている【突然炎のごとく】のジャンヌもまた、この独特の声で二人の男たちを翻弄しながら、ひたすら愛に生きるヒロインだった。またもう一つの代表作であるルイ・マルの【死刑台のエレベーター】では、M.デイヴィスのスタイリッシュなJAZZが響き渡る中、モノクロームのスクリーン一杯に空虚な眼差しで夜のパリを彷徨い歩くモローの姿がショッキングなほどのカッコ良さで映し出され、道ならぬ恋に身を滅ぼす女の凄味みたいなものがビシビシと伝わって来た。モローの声は間違いなく【誘惑する声】だ。デュラスの作品を朗読するのにこれ以上ふさわしい声があるだろうか? 実は作家デュラスとモローの縁は深い。デュラスは映画もいくつか撮っていて、そのうちの3作品でモローが主演している。

デュラスの【インディア・ソング】と言う映画は映像と言う形をとった【演劇】のようだ。もしもこの作品全体を一個の「音楽」として捉えるとするなら、テーマで流れるけだるい【インディア・ソング】は通奏低音としてこの退廃的な1930年代という時代と上流階級の虚無といったものを象徴しているようだし、デルフィーヌ・セイリグのどこか言語としての機能を離れたところにあるような声やアクセントはコクのあるヴァイオリンの音色のように私たちを魅了する。そこで話される【台詞】はドロドロとした感情を一切取り払われてもはや【記号】に近い。だからここでは、カメラが捉える登場人物たちのかすかな目の表情や身振りだけが演劇的要素となってそこで起きていることのリアルを伝えるわけである。

戯曲でも小説でも、彼女の文体からは常に「音楽」を感じる。その独特の雰囲気は、日本語に翻訳されても変わることはない。以下に、【愛人】と【ヒロシマ・モナムール】からの抜粋を自分なりに訳してみた。

エレガントな男はリムジンから降り、英国のタバコを吸っている。
男は男性用のフェルト帽を被って金色のサンダルを履いた少女を見つめる。
彼は少女にゆっくりと近づいていく。
明らかに、おどおどしている。
彼は最初に微笑まない。最初に彼は少女に向かってタバコを一本差し出す。
その手は震えている。
この人種の違い、男は白人ではないから
それを乗り越えなければならない
そのために彼は震えている  -【愛人】より












彼:そのために君は昨夜僕を君の部屋に上がらせてくれたの?それが君にとって広島で過ごす最後の日だったから?

彼女:いいえ、違うわ。そんなこと考えもしなかった。

彼:君が話す時、僕は自分に問いかけているんだ。君が嘘をついているのか、それとも真実を話しているのか。

彼女:嘘をついて、真実を話しているの。でもあなたに嘘をつく理由がないわ。なぜ?  -【ヒロシマ・モナムール】より

簡潔なフランス語で、一つ一つのフレーズは短いけれど心を捉えて離さないデュラスの文体では、冷徹なまでに研ぎ澄まされた主観的眼差しによって言葉が抽出されていく。シンプル極まりないそれらの言葉は、主人公たちの哀しみや痛みと見事に一体であるかのように、あたかもそれが映像であるかのように生々しく感じられる。
ことばで一枚の布を織るように、時にはかすかな痛みを伴う詩のように、ある時には大戦によって破壊された「魂」への鎮魂歌のように、あらゆる方向へとドアが開け放たれた彼女の文学と映像は軽々と二つの世界の垣根を超え、唯一無二の「デュラス的な」世界を構築している。

例えば、音楽家の私にとってデュラスの文章というのは「音程が完璧」だと表現したい衝動に駆られる。その文章の中で「音程の合わない」、つまり全体の美しさのバランスを損なう要素は極限まで排除され、まるで黄金比に従って言葉が慎重に選ばれているかのようだ。

「言葉」にインスパイアされたいと思う時、私はデュラスの本を開く。そこでは例えばピカソの【ゲルニカ】のように、どれほど深い痛みや絶望、そして時に欲望と言った感情も静かに抽象化され、ときに主人公たちの記憶という半透明の藻のなかで、私たちがそれらの「ほんとうの重さ」を見つける時までじっと、息をひそめている。

彼女:あなたを忘れるわ!すでに忘れてる!見て、私があなたをどう忘れるか!見てよ!
彼女:ヒロシマ。
彼女:ヒロシマ。それはあなたの名前。                ―彼らは見ることなしに見つめ合う。永遠に―            彼:そう。それは僕の名前。君の名前はネヴェ―ル。フランスの、ネヴェ―ル。  ―【ヒロシマモナムール】より



*ファムファタル(Femme fatale) ―男性にとっての【運命の女】を指すと同時に、男性の運命を狂わせる魔性の女という意味合いで使われることが多い。



 

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