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『一ドン』ヴー・チョン・フン短編翻訳(15)

 その昔まだ人類がこの進歩の世紀がもたらしたねずみの穴のような広さの家屋の中で各人が互いにひしめき合って生きる必要性を感じていなかった頃、古代人も言ったであろう「擇鄰處(※擇:選択する。鄰:近所。處:居住)」とか「遠くの兄弟を売り、近くの隣人を買え」といった格言は、親しい隣人との間の関係や連絡の重要性をについて語ったものである。それは生活における危機や「夜炎切電(※人の死や事故などの事柄を指す語)」や苦難が起こることを予防し、もしそういった危機が起きても気軽に助け合える仲が望めるようになるからだという・・・・。
 最近は犠牲者が多くなったせいで各地域の税が非常に高騰しているが、貧乏人の私たちは近所で如何なる連絡が取られているのかを知らずにいる。それは「協同で住まう」という関係性が何かを、そしてまた近隣の人間と以前みたく親密になることが如何なるものかをはっきりと理解しているためだ。互いに敬意を払う道理、気軽に互いの需要を満たせること、多くの機会に互いの気持ちを持ち寄ること、最も顕著なのは何も隠しごとができないこと、悪いところだってすべて明るみに出る。今日の家族というのは一つ家に共同して賃貸で住まわないといけないので、互いの関係が自らの親類以上に親密になることは必然である。
 ここまで読んでもらったのだ、是非最後まで私の話を聞いてもらいたい。私たち家族と「擇鄰處」したある家族に関する話だ。読み終わった後、読者の皆様には私のした行動をご容赦して頂けると思う。なぜならば私も苦しむ個人の一人だったのだから。

 この話はちょうど今から丸四年をさかのぼる。私たち二家族が一つの部屋に引っ越して来てからとても長い間共同生活をしていたのだが、かち合いがあり私たちと別れてしまった。その完全な別離がもう四年も経つということだ。一緒に住んでいる時は、誰もこんな別れ方をするとは思っていなかった。例え記憶に留めるに値する神聖な事柄であっても、人々はすぐにいとも簡単に忘れ去ってしまう・・・。そうだろう?離れ離れになった四年という年月は、その人々について何か思い出してやるにはいささか時間が経ちすぎた。昔であれば何も飾らずにまるで兄弟姉妹のように振舞い、彼らと打ち解けることができたものを。思いに留めてやれることも、あの貴重な親愛くらいだ。そればかりが私の中で両家に関する記憶として永遠とその悠久の時を過ごすのだろう・・・。
 では彼らの側に立ってみたらどうだろう、彼らは私たちについて何か思いに留めていることはないのだろうか?いや、大いにあるだろう。もし何もないとしたら、なんせこの話はなかったことになる・・・。
 あなたたちのことを気にかけているのだと白々しく主張するために彼らが何か物事をなす時が私たちの心をかき乱した。彼らはもう欠乏し貧しく、もう以前のように姿は残されていなかったというのに。つまり常識的に言えば、互いが互いに献身的である限りにおいて人間同士は衣食を共にすることができる。ただそれも一度互いの権利が衝突してしまえばおしまいだ。もし両家族の誰もが相互扶助の精神、つまりは互いが互いに思いやり相手の心を満たしてやるという条件に追従することができるのであれば、何が起ころうともその関係性は極楽浄土の一幕であり続け、消滅することはないと言い切れるだろうか?嗚呼何故、彼らはどうして朽ちた身なりになるような罪を負ってしまったのだろう。彼らが私たちを見つけようとした時、不幸にも彼らの服装はなんと惨めなことであったか!
 まるで自己のように他人を思う仁愛の思想たちは、度々私を甚だ感動させるものであったが、その時にはすでにそんなものは消え失せていた。仁愛はその場所を猜疑心と計略と利己心に受け渡してしまっていたのだ・・・。自らのことを、ただ自らのこととその権利のことばかりを考えていれば、そのような事態は自然であるし、本人はその事態から利己的であることの愉快さを多大に覚えるだろう。例えば、悪言や虚偽というのは噂好きの家々をひきつける。それは家々に正義心の木を植えさせることでその対象を不名誉に陥れる方法の一つだ。であれば彼らが朽ちた服を着て顔中に欠乏で苛まれた皺を見せつける時、私はこの直面してくる問題に肩を落とし、ただくどくどと言うのだ。
「また恐喝か、ほらきた、そうなんだろう!」
 金持ちが考えるような悩みと嫌悪感を私は覚えた。親切と金を払い続けねばならない所が私の住まう場所だなんて・・・。
 しかし、まあ、読むには少し量があるから、気楽な気持ちでいてくれればいい。それまでの両家族の親密さ話してから、一体何があったのかをぼちぼちと話せればと思う。

 その家族の主人は私と同年代の青年であった。社会における位置としては偶々中流くらいにおり、月給四十ほどで実業家の書記をしていた。現在では人の価値を測るのに、その人間の月給の多寡を確認すれば良いだけになった。学識や人格を語ることには何の意味があろう!だがもしその隣人が如何ほどの人間であったかをさらに説明するならば、付け加えて言わせてもらおう。学識は中流程度に及び、徳感においても中流で、もちろん財産についても中流であったと。つまり要約すればこうだ。彼という人物は恐れるには十分ではないが、軽蔑するにも値しない人物であったのだ。
 妻の方であるが、彼女もまた彼に対しては相応な人物であった。美貌は普通で人格も中流、また学識に至っては時代の御多分に漏れず当然のこと少しもなかった。
 私たち夫婦と彼ら夫婦は非常に意気投合した。両家族の間の近隣の情は月日が経つにつれて益々と緊密になった。私たちは互いに美味しいものや珍しいものを贈り合い、互いに招待してはごちそうを頻繁に振舞い合った。両家族ともにそのような関係にはじめは満足していた。ただし、妻が旬の新鮮な食品や何かの記念品なんかをもらってきた時には、私も驚いて体を急に起こしたもので、こういった贈り物に見合う返礼の品を見つけられるのかという心配に苛まれた。そして無事返礼を行うことができた時には、私もただ彼らの微笑みと感謝を見て受け取り、彼らに対してその喜びを誠実な様子で顔に表すのであった。それ以上のことはなかった。いや、本当のことを言おう、そんなものは偽りだったと。私たちは自らを偽ることが楽しかったのだ。自分のその行いを真実からなされた行為であるとみなすことが。今まで決してこのようなことは告白したことはない。それが我々にとってどれだけ辛かったことか。ずっと互いに無理を強いることによって、親切は持続していたにすぎない。ここでこんなことを言う必要はないのかもしれないが、この健気な贈り合いの後、両家族はそろって借金を抱えることになっていたのだ。それもそのはずだ、多寡だか我々のような家庭の月収で収支の帳簿をうまくとれるはずがないのだから。
 そういった諸々理由もあって、挨拶を交わす時なんかは、はじめ「ご主人と奥様」だったのが、少し経つと「あなたと私」で互いを呼び合うようになり、結局は血のつながった兄弟姉妹のような間柄になっていた。特に女性陣が席を外している時、我々男同士の呼び方に関しては「お前と俺」の親密さであった。キー・ビック(彼の名だ)と私のつながりはそれ以来生死を共にするであろうと思うほどのものであったのだ。
 つい昨日のことのようにありありと思い出せる。偶々大きな財産を作ったキー・ビック夫妻が私たちをフオン寺の祭りに招待してくれたのだ。彼は紫壇色のお洒落な洋服を上下に着ていた。彼の妻も新調したベルベットの洋服のおかげで、まるで偶然妖精に変化してしまったかのような異常な美しさが無為自然に放たれていた。けれども彼女はもちろん中流の妖精でしかない。私たちは十分幸せで悦に浸っていた。なんせ貴重な催しを見られたのだから。ただ私たちが次に食事や眠りを心穏やかにできたのは、その二か月後親友たちを三日間避暑地のサム・ソンでもてなした後であった。それまで私たちは心配で顔をしかめる羽目になった。
 しかし・・・、そんなことよりも感動し思い出すに値することは、ビック夫妻が私たちの子どものために見せてくれた態度であった。その子供は妻にとっての初産の子であった。奥さんは自分の台所仕事をほっぽり出して妻をよく助けてくれた。まるで給料をもらっている乳母さんのように私たちの子を抱き面倒を懸命に見てくれていたのだ。子どもがじっと話を聞けるくらいになっても、家にやってくるたびにビックは子どものためにご飯を冷ましてくれたり、短い時間ながらたっぷりと可愛がってくれたりと目一杯時間を割いてくれた。今では詩の楽しみを普段から興ずるほどに一々言葉を覚えてはいないけれども、彼の子どもに対して使う舌足らずなしゃべり方は覚えている。赤ん坊の頬を指で撫でながら、大概こんなことを言っていた。
「よしよし、おじさんですよー!あっ、今笑ったぞ!おじさんがおかしのほっぺをたべちゃうぞー!赤ちゃんのお口もたべちゃうぞー!りんごさんのあごもたべちゃうぞー!ほらほら、よしよし、かわいい、かわいいお嬢ちゃん・・・ほら、笑った!かわいいなあ、かわいいなあ!」
 ビック書記が数え切れないほど子どもに口づけをすると、子どもは大きな口を開けて笑い、私もそれを見て一児の父である幸せを心の底から感じたのであった。娘は何度見ても可愛くて、ぷっくらしていて、つまるところ私の言いたいことを要約すれば、もう子犬のように可愛かったのだ。
 そんなような時期もあったりしながら、私は親友に対する情と生活における彼ら隣人との情について今まで明言してきたが、ともかく少なくとも、これらの気持ちを表す中で偽りを並べるようなことはしていない!

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