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『権利の所有』ヴー・チョン・フン短編翻訳(7)

 青年は鏡の前に立ち、自らを眺めていた。首元のボタンを留め、服の両裾を撫でるとその出来栄えを睨みつけるように見た。古いターバンを被ると、「仁」という文字がちょうど額の辺りにやってきた。彼はもう一度鏡で自分の姿を確認した。「これなら誰も変だと思わないだろう」と自分に言い聞かせ、彼は悠々と出かけたのであるが、嘉定(※ホーチミン市の旧称)の靴の両先に目をやったと思うと、彼は再び家の中に飛び帰り、ベッドの下に潜りこんで耳に辺りに汗を垂らしながら使い古された靴下を見つけ出した。彼は靴の先を丁寧にそれで拭くと、自分の面子を潰すものがなくなったことに満足感を覚えた。そう、彼はそういう人間なのだ!埃のついた靴を履いて街に繰り出そうものなら、天下の笑いものになり、挙句は死んでしまうと本気で思っているのである。
 家の戸を抜け橋へと向かう途中、母が座って糸を量っているのが見えた。すぐに背を壁に当て隠れると、彼は踵を上げてまるでコソ泥のようにひっそりと歩き出した。母は彼に気づかず呼びかけることもなかったため、彼は無事に邪魔されず家から抜け出せた。彼は喜びと安堵の混じった溜息をついた。捕まってしまえば最後、逃げ出そうとしたことばかりでなく、働かずに寄生していることにも不平を言われ、家に連れ戻されてはターバンを捨てられ、服を脱がされたであろう。
 彼は店の方までやってくると、そこでゆっくりしていた。彼の妹であるロアンも友達数人を引き連れてやってきた。彼女たちは彼を見つけると、彼に近づき慎んだ様子でゆっくりと同じ席に座った。彼女たちは各々で来たる夕方のためにどんな「ホットパンツ」を履くべきか、ホー・タイではどんな服を着るべきかという話題を真剣に話し合っていた。女の子たちが大砲を発射するかの如く次々としゃべり散らかす様子を彼は眺めていた。しかし、妹は兄の様子を見ると急に黙ってしまった。彼はそれに驚きもしたが、少しありがたいとも思った。ただ、どうして突然彼女は自分を見るなり、そのように恐れて黙ってしまったのか理解できなかった。
 街に繰り出すと、電灯が灯っていた。すでに女の子たち数人は舗道の両脇にある小高い所に腰を掛け始めていた。彼女らは足をぶらつかせて辺りを見渡し、今晩寄生する相手を楽しげに探していた。彼は舗道の人込みを避けて向かいの道路を横切ると、クァア・ドン、デュオン・タイン街の方へ向かった。
 ハン・ザー市場まで来てみたものの、まっすぐ向かっていた足どりは段々と鈍くなり、結局ンゴオ・チャム方面へまっすぐ戻ることにした。彼は自問した。
「私は今あそこへ行く必要はあるのだろうか?私はこうもまた一文無しなのに、あそこへ行っていいのか?」
 彼は自分の家族のことを繰り返し考えていた。残虐な母のこと、「栄光と繁栄」を手に入れた判事の兄のこと、科挙試験の合格者でティノ・ロッシを見事に歌い上げる弟は夜な夜な踊り子たちと遊びに行くこと、家族の中で最もおしゃれな末っ子の妹は、母から全力を持って甘やかされたていたため、彼女がどこかの家から嫁として歓待される奇跡がほとんどないこと。このどれもが彼にとっては些かの悩みにもならなかったにもかかわらず、今日彼は一人の子どもの父親になってしまったが故に、苦悩する一人の人間となった。妻は可愛らしい男の子を産んだ。しかし、彼には妻を訪ねてその出産を助けてやれるだけのものがなかった。彼の家族も誰一人として彼が父親になったことを知らなかった。
 そのことを考えていた彼は、遂に完全に立ち止まってしまった。まるで自らを通りすがりの赤の他人のように扱って自問することに驚いていた。
「己は怒りの中にあるのか?」
 自問であれば、それに回答してくるものは当然いない。されば真剣に自らで答えてやらねばならないものとなる。だが、しばらくしても彼にその答えを見つけ出すことはできなかった。自分は怒っているのか、であれば何に怒っているのか。
「君の妻とは?」
「ああ、その質問も当然のことです。そう言われれば、彼女は私の妻になるんですね。あの子も私の子になんですから。嗚呼、皆さま聞いてください!彼女は若い未亡人でありました。とても明るくて、おしゃべりで、どこにでもいるような普通の未亡人でありました。私は彼女と賭博所で会ったのです。まあ、私が誘って・・・事を成したわけで・・?私は正直に申し上げておりますよ!そうは言っても誰も完全には信じてくれませんでしょうけど。しかし、事実はまさにそうなのです。昔の人は言いました。『言少なく沈黙を守る者は象をも叩き殺す 』(※「深い川は静かに流れる」の意)と」
 そうだろうよ!幸せというものは偶然の贈り物なのだ。幸せはイチジクの根元で寝そべっている怠け者の男の口の中にも落ちてくることだって大いにあるし、また幸せは愚かな官僚の手の中にも落ちてくることがある。これまた昔の人間が言ったことである。「愚福劣寿 」(※「愚か者に福あり」の意)と。しかし、まさに彼という人物は、本当に、自らが愚かな人間であることを知らないのである。
 彼には愛人もおり、急に訪ねてきては冗談を言うのであった。
「ねー、おじちゃん!なにしてんの、そんな格好して、変なの!でも、それちょっとかわいいかもね?もうなにか飲んだの?」
 無職の人間にとって、愛人がいるというのは一つの仕事みたいなものである。彼は楽しげに朗々と返答した。
「無論私もそう思っているさ! この格好が私を愛してくれるんだから、何を思ってくれようと私は無実だよ!」
 まさにそうだ!これは彼が自分の社会における価値というものを鮮明に理解していないから言える語だ。ただ彼が知っているのは、悪臭を発する年寄りの母がいること、出世の見込めない判事の兄がいること、秀才の弟がいること、つまらない名声のために「ア・ラ・モード」に耽る妹がいることであり、彼は全くの勘違いをしているわけなのだが、さらには自分がまだ全くのまともな人間であると思っているのだ。しかし、天下の人々は彼が自らを甘ったれた考えで見つめる眼差しと同じように彼を見てはいなかった。人々にとって、彼はただの男以外の何者でもない。おっさん以外の何者にもなれない存在なのだ。無知で、内気で、27歳で母に寄生する居候。毎日出かけては同じような社会のゴミを探し歩いて金を稼ぐこともない。彼らとやることは碁でいかさまを打つか、はたまたカード遊びの賭博打ちなのだ。嗚呼、なんて苦しい!そうなんだ、偶々何度も靴を履き間違えてしまったのだ。この街の中で最も親切な人間に彼に合わせてみれば言うだろう、「つまらない男ですね」と。質の悪い人間に合わせてみても同じだ、「こいつは犬でも娶るしかないな」とでも言うに違いない。今となってみれば彼の母親も、息子が嫁を貰うことに関して熟考することもなくなってしまった。すでに彼よりも随分年上の売れ残った女で、たとえ未亡人であったとしても、息子は女たちから拒絶されるだろうなと、彼の母親はそう思っていた。

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