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『自愛心』ヴー・チョン・フン短編翻訳(9)

 夫が帰ってくるのが見えると、彼女は急いで尋ねました。
「あなた、どうだった?彼女はまだ助かってないの?ちゃんと回復することができるのかしら?」
 ファム・クアン氏は立ち止まると、まるで十キロメートルを歩いてきたばかりの人のように疲れ果てた吐息を漏らしました。けれども実際、彼は町のはずれにある家から帰ってきただけなのです。この若者は丁寧に帽子を鹿の角に引っかけ、外套を脱ぐと、床でしばらく横になりましたが、すぐに起き上がり、やっとのことで返事をしました。
「非常に危ないな。わからないのかい、彼女が生きているかどうかが?」
 この若者の妻は、針先の動きを完全に止めると、ただ眉をしかめて再び尋ねました。
「それじゃあ、彼女は今どういう状況なのよ?」
 クアンは寝ているのか起きているのか判別しかねる人のように不承不承と返答をしました。
「昨日一晩中は正気もなくたわごとを述べていたし、それに意識が回復したらしたで、めそめそと泣いてばかりいたさ。ザンおじさんが言うには、彼女が戯言を言っている時は、総じて私の名を呼んでいるそうだ。おそらく、もう駄目になってしまったんだ。それが何を意味するか。私は重い罪を背負ってしまったんだ。ひとりの女性を殺すという!」
 まだ話の全体が理解できていなかった私はクアン夫人に尋ねました。
「二人は一体誰について話しているんです?」
「ええ、私のいとこについて話しているんですよ」
 そのとても簡潔な説明は私をさらに動揺させ、寧ろ理解を困難にさせました。一体何なのでしょうか? 夫の方は妻のいとこについて言及する時に、甚だ悲情に心を傾けているような大胆な物言いするのですが、妻を前にして、彼女以上に悲しむ様子なのは些か違和感があるでしょう?
「えーと、奥さん、まだ全く理解できないのですが?」
 すると彼女は利発そうな目を私に向け、次に夫をいたずらっぽく見るのでありました。彼女は一回痰を吐くと微笑んで話し始めました。
「お話しますね。今話題にしている病人、つまり私のいとこですが、名前はオアンと言います。夫がまだ私と結婚する前、彼は彼女を愛していたんです。それも死ぬほどに。夫が彼女に結婚を申し込んだ時、彼女はそれに応じませんでした。今それがどれほどの悲しみになったことか。その後、夫が私に結婚を申し込んだとき、彼女も夫を持つことになりましたが、生憎彼女が得た伴侶は醜く、働きもせず、遊ぶことばかりで、さらに妻には野蛮人のように暴力を振るう男であったのです。現在はよくわかりませんが、その男は妻と子どもを家に残して、どこかで売春婦を追いかけてでもいるのでしょう。彼女は悲しみに暮れ、そして病にかかりました。おそらく昔の人を惜しんでいるでしょうし、悔恨極まりなくて、自分を愛してくれた人の名を思い出さずにはいられないのですよ。愛してくれた人とは彼女が結婚を断った相手のこと、つまり私の夫のことです。夫が言うにはおじさんもその名を聞いたようですしね」
 妻が話す必要もない事をまくしたてるおかげで、ファム・クアン氏は恥をかかされたと思ったのか、彼は両手を持ち上げて額を支えていました。そうやって妻に対して直接に言い返すような素振りもしないことが彼の水臭さを思わせましたし、あまりに落ち着いた様子は自らの体面に対してあまりに不用心のようにも思われました。
 しかし、クアン夫人は賢明な人であったため、すぐに夫の意を理解し、顔をこわばらせ神妙な面持ちで尋ねました。
「それであなたはさっき彼女を訪ねたばかりだけれど、何か気になることでもありましたか?」
 クアン氏は辺りに座ると見上げて私を凝視しました。妻に返答するときには彼に恥じ入る様子はありませんでした。
「私は椅子を引いてベッドの辺りに座ると彼女は毛布を退けて私を見た。何ということか!彼女の両目には苦しみあぐねいた魂の幾重にも曲折を経た情を伴っていたのだ!重病を患った人間の両目に宿った奇妙な具合に輝く光彩の中に、私は悔恨、願望、ためらわれる心配があるように感じられた。それでそいつ(彼はその患者のことを急に親しく呼び始めた)は、つぶやくように私に尋ねた。
『ねえ!あなたはまだ昔のように私を愛してくれているのかしら?あなたは私のことをちっとも怒ってはいないのかしら?』
 私は頷くべきか頭を横に振るべきかわからず、それになんて言ってやるのがいいのかもわからなかった。その時、ザンおじさんはチャット君を抱き上げていた。チャット君というのは彼女の子どもで、彼らは庭先にいた。それで私もその子の両手を取り、可愛がるようにして私の胸元にまで持ち上げてやった。その子はただ一時私のことを茫然と見つめると、何を思い疑ったのか、私の手から逃れて壁際の方へ顔を背けてしまった。果てには泣いてしまい、何かを不満があるかのように喉を鳴らしていた。それも永遠に続くかのように泣いているのだ。私はもうここに居座るだけの勇気はなかった。よろめいて立ち上がるとそのまま帰ってきたのだ。嗚呼どうすれば、今となって私はどうすればいいというのか?」
 クアン夫人は一瞬当惑した面持ちをしましたが、それはとても誠実に悲しみと向き合うようでもありました。長い溜息をつくと深い悲しみを交えて言いました。
「とてもかわいそうだわ!オアンさんは本当に気の毒な人」
 彼女の態度はますます私を驚かせました。試しにご自身をそのように同情を誘おうとする夫を持つ女性の位置に自らを置いてみてください。あなた方はその嫉妬、怒り、憂鬱がどれほどまでに甚だしいものか理解することになるでしょう。もしあなたに妻がありつつも彼のように昔の恋のために苦しんでいるのだとしたら、あなた方はいかにして幸せになれるというのでしょうか!ただし、彼女に至っては決して夫に対して嫉妬をしませんでした。いとこに対する哀惜と同情以上のものが彼女の心を占めることはなかったのです!
 私は彼女を大層褒めてやらねばと思いました。
「奥さん!あなたという人はなんて完璧な妻なんだ!」
 彼女のような女性を妻に迎えることができた私の友人は実に祝福された人間であったのです。それも彼自身は貧しい物書きにすぎず、自惚れの多い人間であったにもかかわらず。彼は地球上で最も幸せな人間であったと言えましょう。彼の人生における親友とは親友以上の生涯の友と言えるような存在であったことまで含めると、この私の友人は人類の幸せを搾取し尽くしたと言って過言でないでしょう。
 私はこの友人の肩を軽く叩いて慰めてやろうと思いました。
「君よ!君は大層幸せ者だったんだよ、まあわかんないかもしれないけれどさ」
 クアン夫人は洋々と私に尋ねてきました。
「どうしたんですか、なんだか変ですよ。そんな極端に人を褒めるなんて」
「私も奇妙に思っていることがありますよ!嫉妬や怒りというのは女性を女性たらしめる一要素ではありませんか!幸せを望むからこそ、人々は相手に闘争を仕掛けて怒りを引き起こす段階までに自らを至らすのです。それなのに、あなたは一切嫉妬をしない!それなのに、あなたは今のままで幸せなのですから」
 クアン夫人はゆったりとほほ笑むと、説明を始めました。
「私は寛大な人であります故、そうしないのですよ。もし私が寛大であれば、夫が寛大な女性にほだされることを禁ずるだけのどんな理由にもなりますから。もう一言付け加えれば、そのオアンさんはただ選択を誤ってしまった可哀そうな人に過ぎません。なぜならば夫が彼女に申し出をした時、彼女はそれを断りました。夫が私に結婚の申し出をしたのもそういう経緯があってこそ・・・。あなたは気になさっていることがありますね、つまり私がお金持ちで彼女が貧しい家の子であることです。けれども、それが私を強制するものではありませんし、私はこう考えているのです。今私が手に入れたこの幸せを形作ったものの中に、オアンさんの功労が部分的に存在しているのだと!だってそうじゃないかしら?もしオアンさんが夫の言葉に応じていたら、私たちはどうやって結婚することができたでしょうか。ですから、私はオアンさんに嫉妬するようなこともないのです。他の女性であれば必ずやまず彼女に嫉妬をしてから、彼女を嫌悪するだけの都合のいい言い分を後から取り繕い、彼女が苦しむ姿を見てさぞ愉悦に浸ることでしょう。しかし、私はそういった種に属しているのではありません。現在のおいては彼女の悔恨も酷く痛ましいものになってしまいました。これはとても明白なことですね。であれば、私たちにとって一番危険なことはこの自惚れと自愛が失われてしまった時なのです。他者を憎むことによる苦痛であれば何もいうことはありませんが、寧ろ自愛をなくし自らを自らの手で憎むような時には、誰が病から救い出す方法を知っていることがありましょう!オアンがそのように傷つけられて苦しみの境遇に臨んでいれば、私は夫が何をしようと彼に対して嫉妬してしまうでしょう。オアンが何をしようと嫉妬してしまうのです!自惚れと自愛が私を寛大にするのであって、彼女と私がいとこ同士であることとは寧ろ関係のないことです」
「おっしゃる通り!嫉妬というものは姉妹の仲をも切り裂いてしまうのだから、いとこ同士であればなおさら」
 私たちの話の間に押し入り、クアン氏は腹を立てて言いました。
「しかし、私には現在オアンの病状がどうであるかは理解できないぞ?藪医者どもが何も理解できない素人のために色々言っているが、皆口々適当なことを言いやがるものだから。ある男は肺の病だと、他の男は脳の病だと、挙句心臓の病だという男もいた!神すら何の病か理解できまい!」
 クアン夫人は夫を見るとにやりと笑いました。
「あなたは本当に優柔不断ね!間違いなくそれは心の病です。であれば、たとえ人体の他の各臓器が痛むこともあるかもしれませんが、心そのものも痛まないことはないはずです!つまり私の見立てとしては、オアンは二つの病を患っております。人体の痛みと意味上の痛みです。その病を治したお気持ちがあるなら、あなたの心臓でもあげてしまえばいいのですよ、まあ、寧ろ経験豊富な漢方医たちに頼む方が、いいのかもしれませんけれどね!」
「妻よ、はっきりと言ってくれないか。それでは君は私のために病を治すための解決策を何か試してみてくれるということか?何も言わないんじゃ、誰も納得できないぞ」
 クアン夫人はただ私にはっきりと言うのでした。
「ねえ、聞きました!変なことをおっしゃいましたね!私のためにですって、寧ろ彼女のためにというところじゃありませんか?」
 私は友人を擁護しました。
「まあ、それにしても彼は本当に幸せ者であるなあ、奥さんが彼の代わりに色々考えてくれているだから。どんな計画があるか私たちに教えてくれないか?」
 それからクアン夫人は身をひるがえすと、頭を下げてただ針仕事の方に向かいました。その目は深く物思いに更けているようでありました。私の理解を越えたことがありました。それは彼女がそのただ気の毒なだけでなく救ってしまえば彼女にとっての恋敵となりうる女性をわざわざ救う方法を考えているのだということと、私に大層褒められたからといっても自分のとびっきりの寛大さを易々見せるようなことをしなかった彼女の振る舞いでありました。こういったこともありうるのですね。と言いますのも、依然世の中の大多数は強情であって、各人というのは人が何かしようと思い立った時には、他の人間を排除してまでそれを成そうとするし、自分が何もしないことを欲する時には、人を煽り立てる言葉を並べるのに尽くすことで、何事かを成してしまうものですから。
 ただ私がその日知ったことは、その夜友人が私に寝室に入るよう促した後そこで彼が話してくれたそのオアンさんについての細々としたことと、その妻は夜遅くまで灯りの下に座って針仕事を続けていたということでありました。

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