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『杖を突きゆく道』ヴー・チョン・フン短編翻訳(1)

 ここ数日、ハイ・スアンは悲しみに暮れている様子であった。今、彼と同じような状況に置かれていたとして、もしその場で誰にも心配をされることがなければ、人はどうして悲しまずにいられるだろうか?
 ハイが車の支木を握りザー・クアットの土手道を行く様子を人々が見かけてからというもの、ハイは村いちばんの快活な青年であった。夏の夕方が来れば、凧笛がぶんぶんとうなりを上げ、秋の夕方が来れば、黄金色の風が吹き付け、心地よい春節の日没の中においても、冷え冷えとした冬の天候の中においても、季節が巡る度に、ハイの腕は益々車の前へと伸びていき、その様子は真っ白な道の上に実に長い影を描いていくのであった。遠く離れた村の人々の中でも、彼が「日没」の歌を、調子に乗せて口ずさむ姿を見聞きした者がいた。その歌は実に始まりも終わりも定かではなかったようだが、その歌う様子はいかにも楽しげであった。
 
 天地も、祖国も、・・・女が酒を売れば男が酔うことも、みな歴然としているじゃないか・・・
 今、あなたよ・・・タンティンティンタン・・・

 残酷なもので、富豪の目の前にあるハイの一生とは、ただ「人力車 」を引く子の蔑まれた一生である。しかしながら、夏の暑い日差しが照り付けるアスファルトの舗道の上を走る日も、吹き付ける北風を受けながら霧雨の中を行き、足元の悪い土手の縁で転びながら体を泥だらけにする日も、彼にとってこの仕事は楽しくて仕方がなかったのである。
 彼がこのように快活であった大きな要因は、仕事の後の楽しみにあった。低い藁葺き屋根の前に、彼は支木をドスンと下ろすと、駆け足でその庭の中へ入っていった。庭にあった赤土の水瓶を見上げるように持ち上げて、実に長い時間水をすすると、鼓動の高まりと大きな満足感を彼は覚えた。その後、檳榔樹の葉の切れ端を持ち、扇ぎながら家の中に入ると、彼はいつもと異なる様子を目撃した。父と母がまだ食事の準備を終えていなかったのである。テーブルの大皿や器を見ても、そのことが見受けられた。まだ食事ができないようであったので、ハイは服の中に蓄えていたものを広げ転がした。それらは手いっぱいに握りしめられる分のだけの真鍮、銅、ニッケル、銀、ハオ(※以前使われていたベトナムの硬貨。一ハオ=十分の一ドン) 、スー(※一スー=百分の一ドン) といった諸々のもので、みな形は丸っこかった。彼はそれらを母の下へと持って行き、言った。
「かかあ、こいつらいくらになるかな、んで、いくらくれるか?たばこをかいたいんだ。」
 食事の皿が準備し終わる中、ハイはカア兄を待っていた。カア兄も仕事から戻ってくるとともに食卓へ着いた。食事と言ってもたかが知れているものばかりで、用意されたものは茄子と味噌、あとは漬物くらいであるが、ハイはうまいと思いながら食べ物を口に運んでいた。
彼がこのように思えるのも、一日中車を引っ張っていて、へとへとになっていたからである。つまり、ハイは誰かに寄食していたわけではなく、むしろ父と母を養い、毎月の給料が10ピアストル(※フランス領インドシナの通貨単位) にも満たないザー・ラム駅の人夫である兄を支えていたのである。
 嗚呼、可哀そうなハイ・スアン!今はもう何もかもが変わってしまった。人を車に乗せ引っ張る仕事は確かに貧しい仕事であるが、それすらもう彼にはできなくなってしまっていた。なぜならば、人々が彼の食いぶちを奪い取ってしまったのだから。彼は車にぶつかり、引きずられ、自らの足を失ってしまった。すぐに病院へと運ばれたが、人々が彼に与えた処置は木材を足の代わりとして装着させただけであった。彼は木材の引きずる音を立てながら松葉杖を突き、家へと帰っていった。
 ハイ・スアンは兄に寄食せざる負えなくなった。彼の足が木材になってしまってからは、以前のような食事が顔を出すことも稀となり、またいつまともな食事ができるのかは誰にも言うことができなくなった。4人分の食事をどうやって・・・10ピアストルも満たないというのに!また家賃なんてものもある。それは服、ズボン、薪木のように必需品のふりをしている。しかし、米の粒や塩の粒のように必要不可欠なものでありながら、一切腹に入りはしないものなのである。彼の家族たちは、極貧と呼べる環境下で暮らしていた。少ない食事と水を得ながら生きる様子は、どうにか乞食としての生活からは逃れているといった程度であった。もみ殻ばかりの食事というのは、栄養のある物を食べねばならない彼の両親にとって堪えた筈だ。けれども、頭から腐臭をさせ、もっとも一本は抜けてしまっているが、ガタガタの抜けてしまいそうな歯をした貧乏人たちにはイモやトウモロコシの入った皿を両手で持つことなど諦めねばならないことであった。嗚呼くそ・・・腹が減った!彼と両親は何度も自らの腹を殴りつけ空腹を耐えた。兄だけが唯一金を稼げる人間であったため、家族たちは彼だけが家へ帰ってきたらこの空腹を何とかしてくれる存在だと思ってはいたが、兄はそのような役柄に適した人間ではなかった。もし食べるものが足りなければ、兄はすぐに父を怒鳴りつけ、母を殴り、鍋や籠、履いている靴に当たり散らし、家の隅に飛ぶ蚊までにも発狂するだろうとハイは思っていた。
 ハイ・スアンはここ数日悲しみに暮れている様子であった。
 ある夏の夕方のこと。ハイは松葉杖を突きながら至る所にほっついて回っていた。彼の足の程度を考えれば、そのように歩き回ることぐらいしか何もやることがなかったのである。ハイは橋の上までやってくると座りこみ、冷たい風に身をさらしていた。おそらく午後6時を過ぎた頃だったのだろう、彼は引っかくような空腹を感じていた。しかしハイはまだあえて家に戻ろうなどとは思わなかった。家に帰れば間違いなく、兄は顔じゅうの皺を集め不平の意を自分に向けるであろう。それに自分の足がまだ健在であった頃の穏やかな兄はもうおらず、家では彼に詰問されるだけなのだと、彼にはわかりきっていたのだ。ハイはおなかが空いて堪らなかったが、それでも何とか心を鎮めようと橋の手すりに近くに隠れるように座り込み、雲や水を静かに見つめていた。
 まるい石炭燃料が燃えるような淡い赤色をした太陽はゆっくりと雲たちに重ね合わされ、空の足元へと落ちていった。彼の目の前には、三連の青緑が集めたタン・ヴィエン山が見えた。いくつもの村々を知る真っ青な地平線を起点として上る霧の中からぼんやりと、しかし壁のように立ち尽くす山々が赤く濁った水面に映っていた。ニ川は橋の足という足で騒がしく泡を激しく打っている。まるで誰かに侮辱されて狂奔し攻撃的になっているかのようであった。東の方面に目を向ければ、ニ・ハアの水流が広漠として現れた。遠くの両岸は暗かった。非常に遠くの様子であるにも関わらず、いくらか帆を貼っているのが見える。舟は水流に身を任せ走っていた。そんなわけはないのだろうが、舟の柱が水面に刺さっているかのように思わずにはいられなかった。
 燃え盛る炎さながらの赤く無限に伸びた層雲の下より、ハノイの都市が姿を見せた。起伏を成しながら密集する家々の列は黒と赤で占められている。それらの建物の中からいくつか高さがあるものが見て取れた。旗柱の先端や製糸場の煙突は無用の長物らしく物悲しく映る。夕方を伝える鐘の音がどこまでも伸びる。その教会の両柱もまた高い。ヴォン村に立つラジオ塔もちらついている程度だが、空高く伸びている。みな天を刺すことを望むかの如く高く細く伸びている。
 もうその橋の上では見苦しい衣服を着た人々も行商人が行き交う姿も見られなかった。夕方の時刻が不幸な人々を急いで追い返してしまったのだ。ハイは頭をかがめて台所に入ると、もみ殻の入った小鍋を父と母の前まで運び、盲目な二人のためによそってやった。またすぐに小さく痩せた赤ん坊を母の胸元に押し付けた。赤ん坊が乳房を口にくわえると、母は「ああ」と嗚咽をもらした。ハイは皆に低い藁葺き屋根の下に隠れるようお願いした。近隣の人間たちの汚らしい目つきから逃れるためであった。その時、金持ちや成金たちが大手を振って、ぞろぞろと涼みに来ていた。
 威厳を見せつけるだけの無礼な自動車の団体が次から次へと列を成し、クラクションを騒がしく鳴らしながら、往来していた。そこに集まって人力車を引いていた車夫は、てんやわんやの中、自動車に引かれぬよう各々の場所へ走り回った。労働者をして語られる機械の絶対的強力なイメージは国全体のために必要とされるのではなくて、機械たちはいつもある集団の個人的な利益のために利用されるだけだ。
 ハイの目の前に現れたその文明の繁栄を示す光景は、まさしくハイに木材をくれてやったものに見えた。彼にはもう足はない。あるのは接ぎ木された足だけであったが、それでも彼は寛大な心を持ち、人の世というものを楽観していた。それは、自らを役に立たない可哀そうな人間として見ていたからでもなく、金持ちたちを憎悪し、嫌い、敵対していたからでもなかった。
 西洋の藍色をした服と白いズボンを身に着けた夫婦がゆっくりとハイの目を一瞥した。
 彼は茫然とした。今までそのような美しい女性を見やった経験が彼にはなかったからだ。彼女が二本の指でベルベットの帽子を回す姿と、それに伴いみずみずしい両頬に纏う美しい髪をダイヤモンド製の花飾りが照らす様子は至極印象的であった。彼は彼女から目をそらすことができなかった。この二人は誰よりも幸せに違いない、彼はぼんやりとそう思った。
 橋の上は目的もなくぶらつく人たちであふれてきた。来た人間がまたほかの人間を誘い集団が広がっていく。その美しく若い夫婦の後ろから、太ったガマガエルのような男が現れた。垂れ下がった両頬は豚を想起させる。おそらく神はこの男に、世のうまい珍味をすべて味合わせてやるつもりなのだろう。おかげで、彼は「八」の文字を作る足の上に途方もない大きさの腹を乗せる羽目になり、頭と胸の肉を集めて後ろにそらせないと自らを運ぶことすらままならなくなっている。うぬぼれた様子で腹を前に突き出し大手を振るその男の後ろを一人の女性が後に従っていた。その女性は細長く痩せていて平らであり、イナゴを想起させた。出産する役割からもうすぐ解雇される時期に来ているのだろう。ハイ・スアンは抑えても笑い出す口元を隠そうとしていた。重い金槌で上から日々叩かれていれば、銅の塊も徐々に伸び広がっていく感じを口元に彼は覚えていた。
 柔らかく艶やかな髪やスキンヘッドの若い男たちは各々の輝く「鉄の馬」に乗り、派手なボーダーの肌着で身軽な服装をしている。黄、赤、紫、藍といった「バッタの羽」を着た貞操の軽い女もいる。絹のズボンとローブを身に纏った老人たちは、手に扇を持ち、眼鏡をかけている。彼らは悠々と川や山を見物することはあっても、そこにいる子供たちを見て心を痛めることはない。
 ハイはその人々たちに嫌悪感を抱くことはなかった。むしろ彼らのようにいつか自分も自由を手に入れられる日が来ることを望んでいた。彼らは神に愛された人たちだ。神は人々に応じて、その人に相応しい幸せを与えるのであり、そこに身をゆだねることが人間の価値ある振る舞いなのだと考えていた。
 彼にとって貧しさ、苦しみ、転落はすべて運命であった。運命とは何か?彼のような固まった脳みそが世の出来事を理解するのに使う語、それが運命である。彼は自分の両親が社会から見放され、見捨てられた下流階級に属していることをしらないのだ。彼らは努力をして上に這い上がろうとすることをせず、また望むことさえもしなかった。そんな親元から、ハイを養ってやる金は、車なんて引かなくてもいいように彼に勉強をさせてやるための金はいったいどこから出ようというのか?彼は人力車を握った。車に乗り込む金持ちを引っ張ることだけが辛いのではない。彼は自らの砂塵見まみれた細い体を運びながら怪物たちと闘いに身をさらさなければならないのだ。激しく刺す太陽の熱線は彼の背を彼の首を焼く。猛烈な暴風雨との戦いでは、顔面に降り注ぐ重い雨のしずくを身に受け、巻き上がる粉塵に彼の視界は暗く遮られる。後退する両輪は左に揺れ、右に揺れ、さながら波に揺られる小舟のようである。しかし、どれも終わった話だ。怪物が勝利した。ハイがもう戦うことはない。機械との闘いも、生きていくための闘いもない。資本家や金持ちたちは彼のような階級の惨めさを知らないよう努めている。ハイはただの競争相手にすぎないからである。彼らはあの虚弱で小さい素足の同業者とのレースのために線路を整備し、凶暴な汽車を建設していく。また小ブルジョアたちもハイたちを重んずることはしないし、彼らから食いぶちを奪い取ることに余念がない。ハイが腰を曲げて車を引く度に、騒がしく心身を錯乱させる音が放たれた。蒸気機関車は煙を茫々とまき散らしながら、天を汚し、彼を追い込み、道路へと投げ込んだ。ハイは戦いの中に巻き込まれたのだ。
 汗で覆われた彼の背は依然太陽に注がれている。木陰一つ許さない日差しに熱せられたアスファルトの道路が彼の両足を針で突き刺す。火の中に立つ彼の目は血走っている。塵が舞い上がり再び彼の視界が奪われる。周りの自動車たちは競争の中で沸き立っている。何もわからない、どうしていいかわからない。一台が彼をとらえた。ハイの乗客は道の隅へと投げ飛ばされた。そして、ハイは道路の下へと転がり落ちていった。

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