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『情熱』ヴー・チョン・フン短編翻訳(12)

  もうあと十五分もしたら会社も閉まる。トゥイは鈍く頭をもたげながら椅子に座り小さな窓から郵便局の建物の外にある庭を眺めた。黒い社用車たちはすでに夜便の手紙を配達するために出払っていた。R.T.Tという文字が印刷された重量感のあるさらに大きい社用車の方は商品や文書を運ぶことを主として各場を回っており、先ほど騒がしい音を立てながら庭の前を通って郵便物倉庫の中に入っていった。隣の部屋は夕方でもテッテッテーといった電信で情報を大雨がように叩き続けている音がしていた。忠実な大多数の職員たちは日長を静かに椅子の上で過ごしていた。その間は剣豪話を読み、爪を噛み、耳かきで耳垢をほじるなどして暇を持て余し、怠惰な幸せを享受するのであった。トゥイもまた彼らと同じく今日一日を幸せに過ごすことができた。特に客人もなく、やることもそんなになかったのだ。トゥイ氏のいる部署は金銭の受け渡しが伴う配達を担当していたが、今日の客人は三四人だけで、売り上げは二十ピアストルにも及ばなかった。それゆえ、トゥイは元気溌剌として夕方の時間に臨むために、午前中はずっと椅子の上でサングラスをかけたまま居眠りすることができた。
 あと五分で終業時刻になる。トゥイは上着を着ようと思い立ち上がると、山積みにされた帳簿に囲われている同僚の姿が見えた。トゥイはそれらの書類をひっつかみ素早くサインをすると、その同僚にも同じくサインをさせた。仕事を終わらせた二人は両手で握手を交わしながら、今日の締めくくりとなる晩餐が素敵なものになるようにと挨拶を交わした。会社を出る前に、同僚が言った。
「ええと、あのクー・ヴォさんが調査から帰ってきたんだけど。明日、トゥイさんの金庫を調査しに来るそうですよ。確かな情報だと思います」
 雷のように落ちてきたその情報はトゥイの顔面を蒼白させた。トゥイは心当たりがあったのだ。西洋の調査官がそんな急にやってくるということは・・・。つまりそれが意味することは、明日彼は監獄に入らねばならないということであった。政府の規定として三百ピアストル銀以上を個人の金庫の中に入れておくことは禁じられているにもかかわらず、この男は会社の金庫よりおよそ三百ピアストル銀もの金を借り出していたのである。
 急いでこの男は帳簿を開き書き足された数字を見た。322.56。次に男は会社の資金庫の金額を数えた。32.56。つまり、彼は二百九十ピアストルをも横領していたのだ!彼はびくついていた。どうしてこんなにも?まだ三年も経っていないのにどうしてこんなに額が膨れ上がったのか?彼は財政難に陥る度に「一時的に借りたつもり」だったのであろうが、借りるばかりで全くと言っていいほどにその金額には頓着していなかったのだ。天災は精神が暗き時に起こるものである。事が起きてしまえばもう遅い、人々に残された道は監獄に行くのみだ!
 トゥイは膠着したまま長く考えていた。彼は鞄の中にその帳簿を投げ入れると、三十ピアストル銀強の金はそのまま金庫の中に残しておいた。彼は外套を纏い、部屋の電気を消した。鍵を閉めると、職員数十人と共に帰路についた。

「よお、チュン!待ってくれよ!」
 チュンは電話部署の職員でトゥイの友人である。チュンは自分を呼ぶ声が聞こえ立ち止まった。トゥイは言った。
「おれと一緒に来てくれ、こっちだ!」
 彼は振り返って鼈甲の塗られた人力車を引いている車夫を捕まえ、自分についてくるよう言った。
「まず帰って奥さんにきちんと今日の夕飯は外食してくるって言え!任せろ、行き帰りは俺が車を出してやる」
連れてきた車に二人は乗り込んだ。席に座るとすぐにチュンは彼を叱った。
「猿かお前は!飯に行くんだったら、もっと朝のうちに言っておいてくれ!」
「そうだな、俺だって早いうちに行くことになると知っていたらな・・・」
 人力車は二人をウェストストリートまで連れてきた。銃を抱え片手に鞭を取った五人のティライユール(※ナポレオン時代の軽歩兵の一種。フランス陸軍でフランス植民地帝国内から入隊した現地の歩兵の名称としても使われていた)の間から、苦役を処されている囚人の集団が見えた。トゥイは長い溜息をつくと友人に尋ねた。
「監獄は辛いのだろうな、お前もそう思わんか?」
 彼は自らの社会的立場について考えた。会社の階級は第六階級に当たる。車、美しい妻、そして聡明な子供も自分にはある・・・。明日にはあの囚人たちのようになる。監禁され、手を鎖でつながれたまま各街を歩かされるのだ。屈辱的な仕事にも耐えなくてはならない・・・。彼は身を震わせて後悔した。後悔しても遅いもう手遅れなのだ。しかし、チュンはただ笑い飛ばし返答した。
「お前は本当に囚人になったみたいに言うんだな!」
 暫くすると、彼は車夫にハン・ブオムへまっすぐ帰る道ではなく、少し寄り道をするように指示をした。
「おい!どこに行く、ふざけているつもりか?」
「飲みに行く。だがその前に少しこっちの方向に入用なんだ、許してくれ」
 トゥイはハン・バウ老の家を訪ねるつもりだった。この老人は表向き有名な薬屋の主人で、成金であったが、ただそれだけではなかった。「違法薬王」というのが彼の裏の顔であった。彼は素晴らしい手相の持った人々、つまりは多くの重鎮に取り入っていた。おかげで彼には勲章があり、象牙のバッチ があり、彼の金庫には札束が積まれていた。各栄養剤の瓶の中には趣味悪く金が詰められていた。これらは貸出用で金利二割五分という紙がそれぞれの瓶に貼られていた。昔、トゥイはこの場所を勧められて金を借りたことがあった。その時の金はすでに返済している。今回ここを再び訪れたのは・・・。金を貸してもらう方がましだろう。金を借りずにいたら監獄に行ってしまうだけなのだから。
 車を薬屋の前に止めた。拡声器からは「アイン・コア」が流れている。愚かな人達が集まり人込みが出来ていた。彼らは雇われの店員が曲の最中に挟んでくる宣伝文句を立ったまま聞いていた。二人は店の中に入った。主人の奥さんは人に茶を用意するように命令すると、二人に騒がしく説明した。
「ようこそ。主人は三時半頃に出かけまして、すぐ帰ってくるかと思います」
 トゥイは突然こめかみから流れ出てきた汗のしずくを急いで拭った。彼は晴れだの雨だの天気の話で三十分ほど費やした。ハン老人の妻に今すぐにでも借り入れについて尋ねることができる大胆さがその時点で出来上がっていた。しかし、彼女は金銭に関しては誰に対しても一切の交渉を行うことが許されていなかった。
「お客さん、金をいくら貸せるかといったことは、いくらお客さんでも私の権限を越えた行為になってしまいますから。でもちょうど昨日、数万本を眼病の薬だと偽って数百儲けましたのでね!明後日か明々後日か、ちょっと待ってもらってから、また是非お越しください」
 トゥイは心配、恐れ、そして恥ずかしさを強く覚えた。彼は帽子を回しながら、柄にもなく感謝の語を数語つぶやくように並べた。二人は外に出ると、トゥイは車夫に告げた。
「今度はハン・ブオムまで走らせてくれ」
「お前は金なんか借りて何をするんだ?」
 返答を考えている間、トゥイは友人に自らの境遇を説明しようとは思わなかった。言ったとしても何か意味があるとは思えなかったからだ。きっと話せばチュンは彼のために三百ピアストル銀を求め走り回ってくれるだろうが、一体どこでそんな大金が一夜のうちに得られるだろう。トゥイは友人と思う存分に最後の夜を遊び楽しみたかった。そうすれば監獄に入らねばならない明日も諦めて受け入れられると思っていたのだ。もし彼が境遇を話してしまえば、この楽しい会合は失われてしまうだろう。彼はそれを恐れた。そうであれば、彼はただ自然に返答した。
「なに、少し個人的なことだ」

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