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部活動の話

小学校3年生の時にバレーボール部に入りました。当時はまだ土曜日に授業があったので、月・水・金・土曜日の放課後に練習がありました。同じく3年生でピアノも始めたので、思えばその頃から私の忙しい人生は始まったのです。でもそれは自分の意思で決めた道。私のやりたいことを文句も言わずにやらせてくれた両親にはとても感謝しています。

最初はアンダーパスのやり方から教えてもらいました。まっすぐボールを飛ばすにはフォームがとても大切になるのですが、家が無駄に広かったので毎日ビーチボールを使って壁打ちの練習をしました。真面目だからか楽しくてやっていたのかは今となっては定かではありませんが、後日コーチにとても褒められて特別に練習を見てもらえました。毎日忙しかったでしょうが、バレーボールを心から楽しんでいたと思います。

5年生の時、私が所属するT小学校がとても強く、市や県の大会ではいつも上位まで勝ち進みました。同じく上位まで勝ち進むことの多いC小学校とは仲も良く、地域の大会ではよく決勝戦で対戦していました。その年の県大会のこと、市の大会から勝ち進んできたチームだけが出場して、優勝したチームは全国大会へ出場することができます。私たちT小は決勝戦まで行ったのですが、惜しくも敗れて準優勝になりました。私はそれがとても残念で、それから1年間お地蔵さんを見かける度に「全国大会へ行けますように」と祈っていました。

6年生が引退して私たちの代でチームを作ることになりました。私は副キャプテンの立場でポジションはセッターでした。キャプテンの子と私はずっとバレーをしていたのですが、他の部員は自分で勧誘して入部してもらった友達ばかりです。そもそも私の身体能力があまり高くないのでチームも強くなるはずがなく、全国大会なんて夢のまた夢でした。

中学校に入学して、私は迷うことなくバレーボール部に入りました。私が通ったM中学校は3つの小学校から集まるのですが、その中のひとつにかつて決勝で対戦していたC小学校もありました。顧問のA先生は以前C小学校で教えていたのですが、私が入学する1年前にはM中学に赴任して、バレーボール部の顧問になっていました。バレーボール協会に所属して審判の資格を持っているA先生は数学担当で、話がおもしろく生徒からとても人気がありました。授業の前に黒板に「A大先生講演会〜○○の話〜」などと書いておけば、その1時間は最後までテーマに応じた楽しい話を聞かせてくれました。

先生はバレーを教えるのも超一流でしたが、教員としての仕事が忙しくてなかなか練習に顔を出すことができません。でも私たちのチームにはもう1人、コーチがいました。近所に住むFさんです。Fさんは70か80ぐらいのおじいちゃんですが、昔実業団チームを教えていたそうでコーチとしての実力は折り紙付きです。学校と川を挟んで向こう側に、健常者も利用することができる身障者用の体育館があるのですが、コーチの計らいでバレー部はいつもそこで練習をしていました。

元々強い小学校から部員が集まって先生もコーチも超一流、体育館は学校の部活と違うので貸切で時間も長い。当然M中学校はとても強いチームでした。県大会で優勝準優勝した2チームが出場できる北信越大会というのがあるのですが、M中は私が所属する3年間は毎年出場していました。余談ですが、私より2才下の代のC小学校は全国大会で準優勝をしています。当然その時の選手がまるっと中学校でもバレー部に入部しているので私がいた頃はM中バレー部の全盛期だったのだと思います。

当然練習も厳しいものでした。毎日授業が終わると荷物を持って川向こうにある体育館まで走って行かなくてはいけません。その時にかかとを地面につけることは禁止されていました。礼儀も厳しくなり、小学校の頃仲の良かった先輩が遠い存在になりました。学校の部活が終わる時間になっても私たちには関係ありません。毎日コーチに決められた分刻みのメニューを怒鳴られながらも一生懸命こなし、夏でも冬でも真っ暗な中を帰らなければいけません。土日ももちろん練習があります。日曜日は朝9時から練習で、13時からは車椅子バスケが体育館を使うので後片付けをして帰ります。夏休みは毎日13時から19時まで練習が続きます。それが大会前になると9時から19時までになります。毎日クタクタでした。中学1年の夏休みは初めて宿題を終わらせることができませんでした。

それでも先輩後輩も含め、みんな優くて良い子ばかりだったので部活はそれなりに楽しく続けることができました。私の学年のバレー部にはかわいい子が集中していておまけに強かったので、生徒からは一目置かれている存在でした。私は地味でバレーもうまくなかったのですが、バレー部をとても誇りに思っていました。最近主人と話しているときに部活はモテるためにやっていたという話を聞いて愕然としました。主人はバスケ部だったのですが、部活中女子たちがタオルを持って並んで見ていたそうです。

「なに!学校でやる部活って時間も練習場所も少なくて早く帰るくせに、そんな楽しい思いをしてたのか!」

驚愕でした。でも私たちバレー部は隔離されて練習していたから余計にミステリアスな存在で人気に拍車がかかったのかもしれませんね。

バレー部であることを誇りに思うのは、大会へ行っても同じでした。市の大会は強いチームも弱いチームも参加する大きな大会です。私たちの順番がきて試合前の練習でスパイクを始めると、その凄さに他のチームがみんな注目しているのがよくわかります。私は補欠なのでレシーブや球拾いをしていたのですが、このチームの一員であるということがすごく気持ちよかったのです。


部活を引退して高校に入る時、まだ春休みのうちから高校のバレー部の顧問から電話が掛かってきました。2度ほど練習に行ったのですが、中学校の体操服で体育館に行くと先輩に「M中学だったんだ!」と驚かれました。補欠でも強いチームに所属していたことにはかわりませんから。その後バレー部には入らずに高校生活は今までできなかった遊ぶことやバイトに明け暮れました。途中また顧問の先生から勧誘を受けましたが、入部しようとは思えませんでした。


大人になってからソフトバレーのチームに参加したことがありますが、チーム内のおばちゃんに商品を売りつけられそうになって辞めました。また、聾唖(ろうあ)のチームに練習相手として参加していたこともあるのですが、コーチに来ていたおっさんに口説かれて嫌になり辞めました。それ以来バレーボールとは離れています。

主人と出会ったとき、彼は既に足に障害を抱えていました。昔バスケをやっていたので、車椅子バスケに挑戦したい。でもチームなんてひとつの県に1チームしかないし、どこに行けばいいのかわからないと。

「あ、それなら知ってる」

私が中学校の頃部活をやっていた体育館で毎週日曜日バレー部と入れ替わりで練習していたのは車椅子バスケのチームです。彼を体育館に連れて行ってあげるとチームに入りました。彼は選手として目覚しく成長して、とある大会ではJAPANの4番をつけて出場したこともあります。


今はバスケも辞めて地元を離れているのですが、あるとき中学校のバレー部で一緒だったKちゃんから連絡がありました。もう長いことご無沙汰だったのですが、私の実家に足を運んでまで連絡をとってくれたのです。 Kちゃんの話では顧問だったA先生が癌で闘病中なので、みんなで手分けして千羽鶴を折りたいということです。A先生は私たちが中3になるときに違う中学校に赴任してしまったのですが、今はどこかの学校で校長先生をしているということでした。数日後、折り紙の束が送られてきたので家事の合間に鶴を折って、博多で有名な神社に参拝してお守りを買い、鶴と一緒にKちゃんに送りました。Kちゃんは2才上の先輩とよく連絡をとっているらしく、一緒にA先生のお見舞いに行ってくれたそうです。

数ヶ月後、再びKちゃんから連絡がありました。A先生が亡くなったそうです。私はすぐに駆けつけてお参りできる場所にいるわけではないので最後のお別れはKちゃんにお任せして、後日Kちゃんに手紙を書きました。


私はもうずっとスポーツから離れて生活しています。今は私自身も足を悪くしているのでスポーツをするのはなかなか現実的ではないのですが、次女が中学から引き続き高校でもバドミントンを頑張っています。今年は大会が中止になったのでいつもの年より先輩方の引退が早く、今は次女が部長をやっています。私はずっとバレーをしていたおかげで助けられたことがたくさんあります。部活があったから今の私がいるのです。やっていて良かったと心から思います。娘にも、後悔のない楽しい青春時代を送ってほしい。そう思いながら私は毎日ご飯を作ったり洗濯したりするのです。

長らく自分語りを聞いていただき、ありがとうございます。

未来はいつも面白い!