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応援してるからね!

今パラリンピックが熱いですね。

主人も私もスポーツ観戦にはあまり興味がなく、

結果だけを聞いて「へぇ〜」って感じでした。

でもパラリンピックとなると事情が違います。

男子車いすバスケは3連勝中で絶好調ですね。

最初の戦いはコロンビアに、2戦目は韓国に

そして3戦目となる昨日はカナダに勝ちました。

カナダには自国を3度の金メダルに導いた「車いすバスケの神様」と称される

パトリック・アンダーソンがいます。

そんな絶好調なJAPANチームの10番は宮島徹也選手です。


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パラサポWEB【日本代表選手名鑑】より


宮島選手(通称てっちゃん)とは、主人も私もよく知っている間柄です。

何なら実家にも遊びに行ったことがあるし、次女の初恋は てっちゃんでした。

と言ってもストーカーまがいのファンだったわけではありません。

てっちゃんと主人は、かつてのチームメイトなのです。

では、主人の勇姿もご覧ください。


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ちゃんと本人から了承を経て、もらいました


主人は社会人になってから車いすバスケを始め

「愛・地球博」で行われた大会では、JAPANの4番を付けて出場しました。

そして主人に車いすバスケのチームを紹介したのは何を隠そう私です。

とは言っても、私はべつにバスケットボールをやっていたわけではありません。

ご縁が巡り巡ってそうなったと言いますか。


私は小中学生の頃、バレーボールをやっていました。

小学生の頃も県の大会に出場したりしていたのですが、

とくに中学生の頃はとても強いチームに所属していました。

市の大会を勝ち抜いたチームだけが出場する県の大会があり、

県大会で優勝・準優勝した2チームだけが出られる

北信越大会という大会があるのです。

私がいたバレー部は、所属した3年間すべて北信越大会に出場しました。

そんな強いチームだったのですが、通常の他の部とは違い

練習場所は学校ではありませんでした。

近隣にある別の体育館を使用していたので、練習時間もスペースも

他の部とは比べ物にならないくらい優遇されていました。

日曜日は朝9時から練習が始まり、13時に終わるのですが

練習を終えて帰る頃には、次に体育館を使用する団体が待っています。

それが車いすバスケのチームだったのです。


主人とは、お互い新入社員として入社した会社で出逢っています。

私よりも数年遅れて同じ設計室に入ってきた時

彼の右足には既に障害がありました。

大学生の頃に起こした自損事故が原因でした。

何度かの手術を伴う、1年にも及ぶ入院生活とリハビリを終えて

私が出逢ったときには、足に歩行器具を着けて歩いていました。

そんな彼があるとき「車いすバスケがしたい」と言い出したのです。

主人は中学高校と、バスケ部に所属していました。

車いすバスケのチームって大体が県に1チームしかないのですが

どこに行けばいいのかわからないと。

そんなとき、私の頭の片隅にあった記憶が蘇ったのです。

「あ!それなら私、知ってるよ」と。


主人が車いすバスケをやっていたのは、次女が保育園に通う年齢の頃までです。

当時の彼は友人と一緒に起業した仕事が忙しく、毎日帰りがとても遅かったです。

週末はバスケの練習か、県外のチームまで遠征に行き

それ以外の日は仕事のために出社していました。

私は小学生の長女と赤ちゃんの次女を抱え、ほぼ母子家庭状態でした。

当時はお金がなかったので、県営住宅に住んでいました。

生活費は折半で、私は彼がいくら稼いでいるのかは今も知りません。

食費や子供たちに掛かるお金、

買い物をして支払うお金はすべて私の稼ぎからでした。

出産後、ちょうどタイミングよく仕事の話が舞い込んできたので

私は次女がまだ生後4ヶ月の頃から保育園にあずけて

フルタイムで働き始めました。

相変わらず主人は家に全然いないし

家事も育児もすべてひとりでこなしました。

図面を書く仕事なんて、ただでさえ眠くなるのに

赤ちゃんを育てるのなんて、それだけでも大変なのに

仕事と家事と育児の両立で、生きるのに必死でした。

毎日寝不足で、仕事中に眠くならないように

コーヒーとミント系の強いガムは必須アイテムでした。

それでも日曜の夜になると主人は山盛りの洗濯物を持って遠征から帰宅し、

黙ってそれを洗濯する私。

毎朝長女を送り出し、次女を連れて保育園経由で仕事に出かけるときには

主人はまだ寝ています。

そんな生活を疑問に思ったことはありませんでした。

合間に町内や保育園の役員もこなしながら

ただただ必死で生きていたんだと思います。

目の前のことに忙しすぎて、考える余裕なんてなかったのだと思います。

自分の娘たちにはとても私のような生活はさせられないと思っています。

というか、してほしくありません。

もっと伸び伸びと自由に自分を生きて欲しい。

それでも主人の仕事もバスケも応援していました。

やめて欲しいなんて思ったことはなかったし

本人の好きにすればいいと思っていました。

本当にやりたいのなら、できる限りサポートはするつもり。

根が奴隷気質があるのかなと思うこともあるのですが

誰かを応援するのが好きなんだと思います。

それが家族や友達や、近い人ならなおさら

土台からしっかり支えたり、サポートするのが得意なんだと思います。

私が子供の頃にインテリアと出会えたように

子供たちにも好きなことを、自分の道を見つけてほしい。

娘たちがちゃんと自分の意思で決めることができるように

私の子育ては「自分で考えて自分で選択すること」を大切にしています。

例えばご飯を食べるときでも

私が作るおかずは大体が大皿料理で出しているので

食卓に並ぶたくさんのおかずの中から

自分の食べたいものを、食べたい量だけ選んで自由に食べています。

私は無理強いが嫌い、足枷になるのが嫌い。

だから家族が自分で決めたことについて反対なんて殆どしないし

多少無謀なことであったとしても、本人がちゃんと考えて決めたことならば

できる限り応援もするし協力もするつもりです。

そんな私の子育てって、人生観にもよく出ているなと思います。


今日はパラリンピックの話題から、

主人の車いすバスケについて書きたいと思いました。

ですが結果的に育児や人生観の話にもなって

書いてみないと何が出るかわからないものですね。

スポーツの大きな大会があると選手ばかりが注目されがちですが

残された家族はこんな思いでいるんだよということが

少しでも伝わればいいなと思って書いてみました。


アスリートの皆さんも、

生きることに一生懸命なみなさんも

応援しています。


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