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No.6 “Fábula de la sirena y los borrachos”-人魚と酔っぱらい達の寓話 : パブロ・ネルーダ

人魚と酔っぱらい達の寓話

パブロ・ネルーダ

その男たちはみんな中にいた
彼女が何も纏わぬ裸で入ってきたときに
しこたま呑んでいた奴らは彼女に唾を吐き始めた
河から上がったばかりで何も知らない
彼女は迷子の人魚だった
下品な野次は滑らかな肉体を撫でまわし
汚物は黄金の乳房を覆った
彼女は泣くことを知らなかったから泣かなかった
服を着ることを知らなかったから着ていなかった
奴らは煙草と焼いたコルクで彼女に刺青をいれた
そして食堂の床に崩れ落ちるまで笑った
彼女は話すことを知らなかったので話さなかった
その瞳は遥かな愛の色をしていた
その腕は一対の黄玉でできていた
その唇は珊瑚の光の中で震えていた
そして突然 扉から出ていき
河に入るときれいになった
まるで雨の中で光輝く白い石のように
そして振り返ることなくまた泳ぎ始めた
二度と再び戻らない 死の方へと泳ぎ始めた

Fábula de la sirena y los borrachos
Escrita por Pablo Neruda
Traducida en japonpés por Keiko
©Todos los derechos de la traducción reservados

【翻訳メモ】

映画『イル・ポスティーノ(Il Postino 英題:The Postman)』の為にMIRAMAXが作った小さな詩集に載っているパブロ・ネルーダの10編の詩の中でも、この詩はちょっと異質でした。
他の9編は、美しく物悲しく、時に冷静で的確な迷いのない言葉でつづられた抒情詩なのに、なんだかこの詩は違う。
初めてこの詩を読んだ時の私は、まだスペイン語初級者でした。それに、詩というものを読むこと自体慣れていませんでした(いまだに慣れていませんけれども…)。
見慣れないfábula(寓話/教訓的な例え話)という言葉や、詩の前半のborrachos(酔っぱらい達。スペイン語の最重要単語のうちの一つ)の人魚へのひどい仕打ちを辞書をひきながら読んだだけで、むかむかと胸がいっぱいになってしまった私は、この詩への興味を失って読み進めるのをやめてしまいました。
CDの方にも、イーサン・ホークの意外にコミカルな調子の英語の朗読は入っていましたが、聞き流す程度で、ほとんど理解しようとしたことがありませんでした。

しかし今回、他の詩を訳し始めてから、急にこの詩が気になり始めました。
あの人魚は結局どうなったんだっけ。
なんであの詩が10編の中に選ばれていたんだろう?
自分でものんびりした話だと思いますが…20年以上も経って初めて、このたった20行の詩を読み終えました。

私が“可哀そう”と思い込んでいた人魚は、穢されても穢されても決して汚れることのない、無垢で、完全で、美しく気高い生き物でした。

ふと思い出したのは、クリムトの描く女性たち。
『ダナエ』や『水蛇』に描かれているように、白く細い首筋や腕、時には輝く肢体を惜しげもなく無防備に晒しながら、同時に何やら有機物なのか無機物なのかわからない、溢れる形状と色彩に護られ、侵されることがない。
更には『パラス・アテナ』のように、真っ直ぐに射る視線には、女神が見るに相応しいものしか入ってこない。

このイメージは紛れもなく、パブの中で毎日酔っぱらい達の目にさらされても、気高くまっすぐ前を見つめ、与えられた完璧な姿で島を闊歩する、『イル・ポスティーノ』のミューズ・ベアトリーチェそのもの。
映画の為に選ばれた一編として、確かに相応しいと感じました。

そして、詩の中の人魚は傷ついて逃げ出したのではなく、明らかに自分に相応しくない場所に呆れ、早々に見切りをつけて、その場所が纏わせた全ての穢れからするりと抜け出して、自分が居るべき場所へ帰って行った...

これが私の主観的な解釈です。

あなたの心にはこの詩はどう映りましたか?

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