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【書評】上野千鶴子『女ぎらい:ニッポンのミソジニ―』③―男性論としてのミソジニー論

前々回および前回の記事では、「ミソジニー」や「ホモソーシャル」といった基本的な概念について説明しつつ、本書の具体的な内容を紹介してきました。

書評のしめくくりとなるこの記事では、上野がミソジニー論を男性論として立ち上げていることに注目して本書の主張をまとめつつ、主に文体的な観点から本書の欠点と思われる箇所についても言及していきます。

〇男性論としてのミソジニー論

「ミソジニー」(女性蔑視)について論じたこの『女ぎらい』は、一見女性のための本のように見えます。女性差別の構造を明らかにし、その問題点を指摘することで、差別に苦しむ女性たちを救い出すというような。

しかし『女ぎらい』の最終章「ミソジニーは超えられるか」で、上野は次のように述べています。

本書は何よりも、「男であること」について論じてきたのだから。(p301)

上野千鶴子といえばフェミニスト。フェミニストがミソジニーについて書いた本なのに、「男であること」を主題としてきたとはどのような意味なのでしょうか。

ここで、フェミニズムは女性のためだけの理論であるという素朴な理解を捨てる必要が出てきます。前々回の記事で示した「ホモソーシャル」「ホモフォビア」「ミソジニー」のつながりを思い出してください。それらの概念はすべて、男性の主体性確立に関するものでした。

もちろん、「女として読むこと」をキーワードとして、読む主体としての女性を論じたJ・カラー『ディスコンストラクション』のようなフェミニズム論も存在します。しかし、フェミニズムあるいはジェンダーに関する理論は、女性を排除する男性共同体の構造を明らかにする必要から、女性論というよりは男性論としての側面が前景化する場合も多いのです。

ついでに書いておけば、フェミニズム理論は男性一般に対する批判を行うものですが、個々の男性に対する批判を行うものではありません。上野は次のように言明しています。

誤解しないでほしい。フェミニズムが否定しているのは「男性性」であって、個々の「男性存在」ではない。(p299)

「ツイフェミ」などの蔑称の存在からも分かるように、男性共同体の中でフェミニズムの評判はあまりよくありません。多くの男性が、「男性性」への批判を自らへの批判として受け止めるからです。しかし構造的抽象的なレベルの男性論と、個々の男性との間には一定の距離が存在することを自覚すべきでしょう。

とはいえ、自らの鬱憤をフェミニズムの名を借りて晴らすために、男性存在そのものへの否定へと走ってしまう「自称フェミニスト」が存在することもまた事実です。

僕はまだまだフェミニズム理論の勉強が足りないのでこれはすでに書かれていることだと思いますが、運動としてのフェミニズムは自らの足を引っ張る「内なる敵」としての「自称フェミニスト」を批判するために、「ミサンドリー」(男性嫌悪)論を必要とするでしょう。もし女性共同体が男性排除によって立ち上がるとしたら、それは男性ホモソーシャルの裏返しでしかなくなってしまうからです。

閑話休題。では本書の場合、どのような意味で「男であること」が論じられてきたのでしょうか。「ホモソーシャル」などの概念もそれに関わる問題でしたが、書評の結びとして最終章である16章の内容をまとめながら考えてみましょう。

〇最終章「ミソジニーは超えられるか」

ミソジニーによって成り立つ男性主体は、「女ではない」という否定形でしか主体を構築できません。しかしそうして構築される主体は、常に女性性を遠ざけ続けなければならないという緊張状態の中に置かれることになります。

簡単な例を挙げましょう。男の子が公園で遊んでいたら、石につまづいて転んでしまいました。彼は痛みから泣き出してしまいます。それを見た父親/母親が声をかけます。「泣いてはいけない。男の子なんだから」。

ちょっと転んだくらいで泣くのは「女々しいこと」。だから男は泣いてはいけない。あるいは、男は勝負から降りてはいけない。あるいは、男は誰かに守られてはいけない。守ってやらなくてはならない。

こうして、「男であること」は数々の禁止のなかでもがき続けることと同義になります。男性的主体の確立/維持に際するこのような苦痛を、上野は次のように指摘します。

性的弱者、非モテ、フリーター、ひきこもり等の「男性問題」は、ホモソーシャルな男性集団の規格からはずれることへの恐怖と苦痛をあらわしている。そう考えれば、規格をはずれた男が「居場所のない」思いを味わい、孤立へと向かうのも理解できる。ホモソーシャルな集団から排除された「男になれなかった男」には、連帯が不可能だからである。(p297)

女性性の排除を通した男性主体の確立は、結局男性自身の首を絞めることになるのです。本章のタイトルでもある「ミソジニーを超え」ることは、ミソジニーを内面化してしまって苦しむ女性のみならず、男性にとっても必要なのだというわけです。

では、どうすれば男性がミソジニーを超えることが可能になるのでしょうか。上野は自らの体を他者化しないことがカギなのだと説きます。自分の体に向き合い、痛みや性を受け入れること。それを通して、改めて男性の運動としてミソジニーの超克が目指されるべきなのです。

「男性の運動として」という点を強調したのは、しばしばフェミニズムに対する的外れな批判を見かけるからです。一時期、フェミニストは女性の性的搾取について文句を言う割に、雑誌『anan』がジャニーズの男性を表紙にして行った「セックス特集」には何も言わないのかという批判がありました。

※一応付け加えておくと、上野自身は性表現の規制に反対しています。そのあたりについて、フェミニストは必ずしも一枚岩ではありません。

私は『anan』の中身を読んでいませんが、ネット上にはこのような記事もあり、たしかに男性の性的搾取と呼んでいいいような特集が行われたようです。つまり、女性の性的搾取について批判するのに男性の性的搾取について批判しないのはダブルスタンダードではないか、という批判がフェミニストに浴びせられたのだということですね。

これはシンプルな論理ですが、それゆえに共感されやすいようにも思われます。しかし、こうした批判はフェミニズムを誤解しています。フェミニズム運動は性的搾取を問題視しているのではなく、女性の性的搾取を問題視しているからです。言い換えれば、フェミニズムは女性のための運動であって、男性の面倒まで彼女ら/彼らが見る義理はありません。

『anan』の件は批判のための批判なので運動につなげるほどのモチベーションを持った人はいないと思いますが、男性の性的搾取を問題にするなら、男性が(あるいはそれを問題だと思う女性が)フェミニズムとは別に運動を起こすべきでしょう。そうした連帯を軸に、ミソジニー/ミサンドリーに立ち向かうことが必要です。

そしてその際、その共同体が排除の論理に冒されていないか慎重に注視する必要があるでしょう。本書が提起していたのは、共同体の中にいながら共同体の論理から意識的に距離をとるような、批評的な位置取りであったはずだからです。

〇本書の文体的な失敗

ここまで、概して本書の内容を受け入れながら考察を綴ってきました。3つも記事を使って書評を書くくらいですから、僕は基本的に『女ぎらい』を評価しています。

ただし、本書の文体についてはある失敗を感じずにはいられません。書評の最後に、本書の欠点として文体的問題を指摘しておきます。次の2つの引用をご覧ください。

対幻想とは、男の見た夢だ、とは斎藤環〔2006b〕の慧眼である。男の性幻想にはまって、そのなかで〈夢の女〉を共演してあげようとした女もいたかもしれない。だが、今日びの女はそんなばかばかしいことをやっていられないと、男のシナリオから降りはじめた。男が現実の女から「逃走」して、ヴァーチャルな女に「萌え」るのは、昔も今も同じである。(p26)
だが反俗を気取った「性の探求」小説は、おどろくほど通俗的なポルノの定石どおりに展開する。ポルノの鉄則は、女が誘惑者であること、そして最後は女が快楽に支配されることだ。「だって、彼女が誘ったんだもん、ボクちゃん、悪くないもん」と、男の欲望を免責する、あまりにわかりやすいしかけである。(p18)

1つ目の引用文で、上野は男が女に見ている幻想を否定し、その幻想に協力してやることから降りた女性を肯定します。

※ちなみにここで参照されている斎藤環の本は、『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』です。斎藤はラカンを専門としており、その知識を生かして多分野で活躍する批評家です。

しかし2つ目の引用では、大した分析もなく男性の欲望について短絡的な診断を下しています。つまりこうした記述は、男性が理想の女性を幻視するように、上野も自分の論に格好の(理想的な)男性像を幻視しているのではないかという疑問を読者に抱かせるのです。

ただし、このような上野の文体が多分に挑発的な意図を含んだものであることには注意しなくてはなりません。フェミニズムとは理論であるだけでなく運動でもあります。相手を挑発し議論の土俵に乗せることで、より多くの論者を巻き込んでいけるというメリットはたしかに存在します。

ですが、それを踏まえてなお、ここでの上野の文体は失敗と言わざるを得ません。挑発したいなら、「男が女に幻想を見ている」という内容とぶつからないような挑発の仕方を選ぶべきでした。本書にしばしば見られる上野の断定的な男性観は、戦略だとしても相手に幻想を見ることを批判する本書の内容を裏切っています。

何より挑発の仕方が幼稚です。「ボクちゃん」という主語は強い主体性・男性性をもった「オレ」という主語の対極にある弱々しいマザコン的な一人称です。これは明らかに男性がミソジニーによって獲得した主体の脆弱さを揶揄するものとして選ばれていますが、到底知的な挑発の仕方とは言えません。

そのような本書の欠点が最も端的に露出しているのが、社会学者・宮台真司の研究に言及した13章「東電OLのミソジニ―(2)」です。

援助交際をする女子高生たちの実態を調査した宮台のフィールドワークは有名です。宮台は、援交女子たちがインタビュアーに「動機の語彙」を提供しているのだと述べます。つまり、「もっとブランド品が欲しいから」「もっと遊ぶカネが欲しいから」援交しているのだという、インタビュアーの求めそうな答えを彼女たちが提供してやっているのだということです。

そうしたインタビュアー向けの「動機の語彙」に対し、宮台はフィールドワークを通して「性的承認」を援交のモチベーションとして指摘します。

この宮台の指摘に対し、上野は次のように反論します。

宮台の求めに応じて「性的承認」の語彙で自分の動機を説明する少女たちに、目の前にいる男に対する「戦略」がないと、どうして言えるだろう?(p242)

この上野の反論は鮮やかです。世間的な援交少女に関する言説が「動機の語彙」に操られたものだとする宮台が、なぜ「動機の語彙」に操られていないと言えるのか、という反論は説得力があります。

ところが上野は、直後の段落で次のような記述を行ってしまいます。

援交経験のあるひとりの女性の発言を、わたしは忘れることができない。(…)言いかれば、カネを受け取るという行為を媒介に、彼女は自分のカラダが自分以外のだれにも所属しないことをマニフェストしていたことになる。この動機のなかで「性的承認」は無縁である。(p242)

論理の破綻は明らかです。なぜ上野は、「あるひとりの女性」が上野の求める「動機の語彙」を語ってみせたという可能性は考えないのでしょうか。直前で宮台に対してはその可能性を指摘しておきながら。

おそらく上野は自分の戦略に引っ張られています。「男は幻想の女を見ている」ことを強調しようとするあまり、上野自身も幻想の男/女を見ている可能性を失念しているのではないでしょうか。

あるいはすべてが戦略的なものだったとしても、先述したようにその戦略は本書の内容に合致したものだとは言えません。本書はその卓抜な内容とは裏腹に、文体戦略に関しては失敗しているように思われるのです。

〇まとめ

ここまで、3記事分使って『女ぎらい』について考えてきました。最後に問題点も指摘しましたが、ここまで深く掘り下げる価値のある本だったと考えるがゆえの指摘です。

本書は「ミソジニー」を軸として、男性の主体形成がはらむ問題点を剔出しています。排除の論理で成り立つ「男らしさ」は、構造的に女性蔑視を持つだけでなく、男性自身の生きづらさをも招来してしまうのです。

最後に言明しておけば、僕自身はフェミニストではありませんし、フェミニズムやジェンダー、セクシャリティに関する研究を専門としているわけでもありません。

しかし、専門家でないことは無知を肯定するものではないと考えています。肯定も否定も、基本的な知識を持っていてこそ意味があるものになります。

フェミニズムについて考える/語る上で、本書は格好の入門書であるように思います。本記事でとりあげていない章にも重要な論点が含まれていますので、ぜひ購入して読んでみてください。

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