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【書評】上野千鶴子『女ぎらい:ニッポンのミソジニー』①―ミソジニーとホモソーシャル

上野千鶴子の『女ぎらい』(リンクは楽天ブックス。いつもAmazonばかりなので、変えてみました)は2010年に紀伊国屋書店から出版された本です。本記事では、2018年に朝日新聞出版から出た文庫版を参照しています。

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この記事では、『女ぎらい』の内容を紹介しつつ、私が読みながら考えたことや気づいたことについて記したいと思います。この記事では基本的な用語や概念の確認を行い、次回の記事で具体的な内容についての感想を記します。

〇ミソジニーとは何か

本書の内容を紹介する前に、目次の一部を抜き出しておきましょう。どんなことが書いてあるかなんとなく見えるかと思いますので。

・「女好きの男」のミソジニー
・ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー
・性の二重基準と女の分断支配―「聖女」と「娼婦」という他者化
・「非モテ」のミソジニー

目次からもタイトルからも分かるように、本書は「ミソジニー」という概念が中心に扱われています。では、ミソジニーとはなんでしょうか。

フェミニズム研究あるいはジェンダー研究では、多くの場合「ミソジニー」「ホモソーシャル」「ホモフォビア」がセットで扱われます。

論述の都合上、「ホモソーシャル」から説明しましょう。これはイヴ・セジヴィクが英文学を題材に書いた『男同士の絆』(2001)という著書で提示した概念です。ホモソーシャルとは、めちゃくちゃざっくり言えば、互いを〈男〉として承認し合う男性同士の集団を指します。

※女性のホモソーシャルな集団というものも存在するのですが、男性のそれと性質がかなり異なり、この記事の内容から逸れるので、話を男性にのみ限定しています。

ホモソーシャルな関係の絆は、異性愛主義によって保持されます。複数人の男性がある1人の女性を奪い合うことで、ライバル同士の絆を深めるという構図、あるいは「彼女がいる」という事実によって男性集団で一人前の〈男〉として認められるという構図を考えていただければいいでしょう。

ホモソーシャルな関係は、男たちが寄り添うという意味でホモセクシュアル(同性愛)に近似していきます。しかし、同性愛では男性のうちのどちらかが性的客体とならざるを得ません。これは性的主体として互いを認め合うホモソーシャルな集団のルールに反します。したがって、ホモソーシャルな集団はホモフォビア(同性愛嫌悪)を持つことになるのです。

こうした関係において、女性はホモソーシャルな集団の絆を深める媒介項であり、性的には客体にしかなり得ません(女性が性的主体となると、男性が客体の側に弾かれ、一人前の〈男〉ではなくなってしまいます)。よって女性が必然的に男性よりも劣位におかれることになるため、ホモソーシャルな集団はミソジニー(女性嫌悪)を伴うことになります。

より抽象化すれば、ある集団の絆を深めたければ排除/差別されるものを作るのが一番である、ということになるでしょう。「我々は○○でない」という連帯の方式です。事実、上野は本書で「男らしさ」を「女ではない」ことに求めています(p286)。

〇ミソジニーと文学作品

文学作品からホモソーシャルな関係の例を挙げましょう。女性の異質性を描き続けた夏目漱石の『三四郎』に、女性(美禰子)にふられた三四郎を友人の与次郎が慰める次のようなシーンがあります。

「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」
 与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。そうして一人で笑っている。
「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。」

与次郎は三四郎を捨てた美禰子を「あれ」として貶め、自分と三四郎を「偉い」男たちとして設定した上で、もっと三四郎にふさわしい女性が「あらわれて来る」のだと慰めます。女性を劣位に置きつつ自分たちの偉さを確認し、報酬としての女性の登場を期待することで、三四郎と与次郎のホモソーシャルな絆は深まるというわけです。

漱石なら『それから』なんかもわかりやすいですね。主人公の代助は、平岡という友人に女性を「譲る」ことで友情を確かめます。それが後々こじれる原因になるんですけど……。

作家で言えば、私は谷崎潤一郎もかなりのミソジニストだと思います。彼の『痴人の愛』や『卍』といった作品では女性に支配されることの恍惚のようなものが描かれます。しかし、それが「倒錯」として成立するためには、本来は男性が女性を支配するものだという強固な規範意識が必要です。谷崎の作品には、優位にいる男性が「あえて」女性にかしずいて見せるという構図が見え隠れしているように感じます。

いやいや、谷崎は女性崇拝者だし、女の子たぶん大好きだし、ミソジニー(女性嫌悪)のレッテルを張るのはおかしいだろう、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。そして事実、永井荷風のように非常に分かりやすく女性嫌悪を前面に出す文学者と比べれば、谷崎の態度は紳士的かもしれません。

しかし上野の『女ぎらい』では、女好きの人間こそがミソジニーの持ち主だとされています。どういうことでしょうか。

※ちなみに上野が本書で何度もミソジニストとして取り上げる文学者が、吉行淳之介です。やけに執拗なので、たぶん個人的な恨みがあるんだと思います。『男流文学論』でも最初に取り上げてましたし。

〇「女好き男」のミソジニー

「「女好き男」のミソジニー」、これは本書の第1章のタイトルでもあります。ミソジニーの訳語は「女性嫌悪」。でもこれだと、「女好きは女嫌い」という奇妙な事態になります。

上野によればこれは翻訳の問題で、ミソジニーという語のニュアンスは必ずしも「女性嫌悪」とは一致しません。彼女は「もっとわかりやすい訳語」として、「女性蔑視」を挙げます(p11)。最初にこうした用語の定義があるあたりは、雑然としているようにも見える(本書で扱われる話題はけっこうばらけています)本書の構成がしっかりと考えられたものであることを示しています。

次から次へと新しい女性に乗り換えていく「女好き男」にとって、女性は自分の性的能力の高さを示す勲章のようなもの。彼らが人間として女性を見ず、「もの」として扱うところに、上野は「「女好き男」のミソジニー」を読み取ります。

「女好き男」に限らず、本書を読むうえで(あるいはフェミニズムについて理解するうえで)、女性に対する見かけ上の姿勢と、それに紐づいている意識には差異があること押さえておくべきでしょう。

さて、ここまでで「ミソジニー」という語をめぐる基本的な概念や用語を確認してきました。次の記事ではより本書の具体的な内容について考察していきます。







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