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8月の読了

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ピダハン

ずっとずっと読みたかった「ピダハン」。ようやく読めた!!

ピダハンはブラジル・アマゾン流域に住む先住民族のこと。筆者はもともとキリスト教の宣教師であり、聖書をピダハン語に翻訳し彼らにキリスト教を布教するという目的のために言語調査の訓練を受けた後にピダハンのもとへ赴いた。筆者は彼らと生活を共にし、難解すぎて世界中の言語学者が匙を投げたというピダハン語の研究に挑んでいく。

私がなぜピダハンに興味を持ったかというと、彼らの言語に数や色、左右の概念がないことを知ったから。色はまだしも、数を定義することなしに言語って存在できるのか?!と心底興味を惹かれた。この答えとしては彼らが重んじる「直接体験」という言葉で説明されている。

ピダハンは「精霊」という存在を信じている。一方でキリスト教は筆者の努力虚しく全く受け入れられなかった。この違いは「世界について語る方法が違う」と表現される。眼球という器官が網膜や虹彩、視神経などを使って視覚を得るというメカニズムは全ての人間で共通であるのに、見えるものは違うのだ。

サピアによれば、言語は物事を見聞きするわれわれの知覚に影響を与えている。サピアの見解では、わたしたちが日常目にしたり耳にしたりするものは、わたしたちが世界について語る方法によって決定づけられるというのだ。
こう考えると、ピダハンとジャングルを歩いていて枝が揺れたとわたしがみたとき、彼らには枝を揺らしている精霊が見えるというのがなるほど理解できる。

ピダハンは「精霊がいるという世界」で生きているのでそれらは見えている。しかし存在を知らず誰も見たことがないイエス・キリストという人物を信じることなんぞできないのである。

例えば、日本人にはお盆がある。8月13日から16日というピンポイントな日付を狙って先祖が帰ってくるという科学的根拠はないのに、私たちはそれを信じてお墓を掃除するし、お供物をしたり、実家に帰ったりする。
例えば外国人が突如「お盆は意味ないから次からやめろ」と諭しても到底受け入れられないだろうし、根拠はないと分かっていてもこの風習は続く。もしかしたら根拠なんて求めていないかもしれない。だって日本人はそれがあるという世界でずっと生きてきたのだから。

例えば、星座は人間が途方もない距離に位置している星を勝手に線で結んで楽しんでいる。星の並びを「オリオン座」と定義したことで、私たちはそう見ているのである。構成している各々の星は何百光年も離れているので、ベテルギウスもリゲルも、そんな遠くの星とひとくくりにされているなんて人間の都合に他ならない。
それでもオリオン座のあの形は一生忘れないし、冬が来て空に見えるようになると嬉しい気持ちは、理屈を述べられたからと言って消え去るものではない。

そうやって私たちは、自分の中に定着した定義ありきで世界を見ている。

科学者として客観性はわたしが最も重んじる価値だ。かつてわたしは努力しさえすれば互いに世界を相手が見ているように見られるようになり、互いの世界観をもっとやすやすと尊重できるようになると考えていた。しかし、ピダハンから教えられたように、自分の先入観や文化、そして経験によって、環境をどう感知するかということさえも、異文化間で単純に比較できないほど違ってくる場合がありうるものなのだ

ピダハンに布教することが目的だった筆者は、最終的に信仰を捨て無神論者になる。彼らに布教するのは無理だと諦めるだけではなく、自分自身の信仰まで変えてしまった彼らの確固たる価値観が解像度高く、濃密に記録されていた。

ピダハンの言葉を聞いてみたくてYouTubeで探したら、独学で喋れるようになったという強者がいた。すご・・・

いのちの車窓から

星野源の紡ぐ文章がめちゃくちゃ好きである。
エッセイ「いのちの車窓から2」が9月に発売されるということで、前作を久しぶりに読み返した。

源さんのエッセイは、時折ニヤけが抑えきれなくなってしまうので外で読む時は要注意。だけど、「く、くだらない…!!」と呆れて笑っちゃうのと同じくらい、はっとさせられたり泣きそうになってしまったり、彼の「芸能人」とはかけ離れた泥臭い人間性を感じられる言葉もたくさんある。このバランスが、文筆家としての星野源の魅力である。

ミートボールを口に運ぼうとすると、ふと視界の左脇下方に、ベージュの生き物がぷりぷりと侵入してきた。
芝犬である。

個人的には、芝犬が歩く様子を「ぷりぷり」と表現するこの文が好きすぎる・・・

源さんの活動を追いかけていると、その人脈の広さと周りからの愛され具合を感じる場面が本当にたくさんある。それを「天性の愛されキャラなんだな」と羨みで片付けずにいつもなんだかうるうるしてしまうのは、源さんがそれを自らの努力と内省、決して穏やかではなかったあらゆる経験を通して掴み取ってきたものだからと思うから。

数年前から、人見知りだと思うことをやめた。心の扉は、常に鍵を開けておくようにした。好きな人には好きだと伝えるようにした。ウザがられても、嫌われても、その人のことが好きなら、そう思うことをやめないようにした。それで思い出した。「お前ウザいよ」と言われた幼いあの日から、嫌われないように自分の性格を歪め、そもそも人間が好きではないと思おうとしていたが、僕は人が、人と接することが大好きだったのだ。


「新垣結衣という人」という章がある。
もちろん結婚を発表する前の、おそらくまだ共演者という関係性の頃に書かれた文章(文脈的に逃げ恥の撮影中だろうか)。
数ページのこの章が、何度読んでもいつも胸いっぱいの温かさをくれる。人生の伏線回収ってこういうことなんだなとつくづく思う。

僕は人を褒めるのが好きだ。人の素敵なところを見つけると、嘘は一つもなしで、あなたはここがすごいと伝えたくなってしまう。しかし彼女は褒められるのが苦手だと語る。
(中略)だから、ここにこっそりエッセイとして書こうと思う。どうか彼女が、クランクアップまでこの文章を読まないことを祈る。
あなたは本当に素敵な、普通の女の子である。

第二巻は9/30発売。楽しみすぎる!


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