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同性婚訴訟五地裁判決の比較検討と同性婚規定不存在に対する私見(覚書)

Ⅰ はじめに

  近年、我が国では「家族」と憲法をめぐる諸論点について活発に議論されている。たとえば、実際に最高裁判所で違憲判決が出されたものとしては、非嫡出子の国籍取得制限、非嫡出子の法定相続分、女性のみの再婚禁止期間についての問題などがある。もちろん、「憲法と家族」という論点は、古くから検討されてきた問題でもある。我が国において初の違憲判断が下された尊属殺重罰規定違憲判決の事案にかんしても、こうした「憲法と家族」をめぐる事案であった。実際の裁判において違憲判決は出なかったものの、夫婦同氏制や単独親権などについても憲法学が今現在議論をしている問題である。
 このような「憲法と家族」に関する問題のうち「同性婚」については、本稿執筆時には令和3年3月17日の札幌地裁判決から令和5年6月8日の福岡地裁判決に至る5件の地方裁判所における判断が出揃った。そこで、今後も訴訟が続き最終的には最高裁判所による判断がなされるのか、それとも立法府による関連諸規定の改正がなされるのか、または新たな制度が創設されるのか。いずれにせよ、5つの判断が現状存在する以上、これについて検討しておく必要はある。
 したがって、以下では五判決の要旨を簡単に触れた上で、その整理をおこない、同性婚規定が存在しないことにかんする私見を述べておきたい。


最大判平成20年6月4日集民228号101頁。

最大決平成25年9月4日民集67巻6号1320頁。なお、同様の事案で合憲判決を出したものとしては、最大決平成7年7月5日民集49巻7号1789頁。

最大判平成27年12月16日民集69巻8号2427頁。

最大判昭和48年4月4日刑集27巻3号265頁。

最大判平成27年12月16日民集69巻8号2586頁、最三決令和4年3月22日裁判所ウェブサイト。

Ⅱ 札幌地裁判決令和3年3月17日の判断の要旨

(1)24条または13条1項について

 24条にいう「婚姻」とは、歴史的経緯や文言からして異性間におけるものである。そのため、本件規定が「同性婚」を認めていないことが24条に違反するとはいえない。
 また、婚姻及び家族に関する規定である24条が認めていない以上、包括的規定である13条が「同性婚」を認めているとはいえない。

(2)14条1項について

 婚姻とは、婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し、戸籍によってその身分関係が公証され、その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという、身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせるものである。こうした法的な利益が一方の異性カップルには認められるのに対して、他方の同性カップルには認められないのは、別異取扱いである。くわえて、婚姻の本質は、両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思をもって共同生活を営むこと(最大判昭和62年9月2日民集41巻6号1423頁参照)であり、現行制度ではこうした利益が同性カップルに認められない以上、やはり別異取扱いがあるというべきである。
 この別異取扱いの根拠となる性的指向は、性別や人種と同様に、人の意思によって選択・変更できない事柄である。そのため、その区別が合理的であるか否かについては、慎重にされなければならない。そして、異性カップルと同性カップルの差異は、性的指向のみであり、そうであるならば、重要な法的利益である婚姻によって生じる法的利益は同性カップルであれ異性カップルであれ、等しく享有されるべきである。
 この点、本件規定は、夫婦という子を産み育てながら共同生活を送るという関係に対して、法的保護を与えることを重要な目的としているが、それは主たるものではなく、夫婦の共同生活それ自体の保護をも目的としている。こうした目的は正当であるが、同性愛カップルに一切の法的保護を与えない理由にはならず、本件規定や憲法24条が同性婚を禁止しているものとまではいえない。
 また、民法上の他の制度による代替的な手段によるものは、婚姻の効果は異なる点があり、代替とならない。そして、婚姻と同性間での人的結合の保障では、求められる制度が異なるものもありえ、憲法から同性婚という具体的な制度を導出できないこと、国民の間では、同性婚に対して批判的なものが一定程度いること、婚姻制度の歴史的な背景などから、本件規定がただちに不合理であるとはいえない。
 もっとも、先に見たように、異性カップルと同性カップルの差異は性的指向のみであり、いかなる性的指向であっても享有する利益は等しいものであるべきであって、そうであるならば、法的効果の一部すらも同性間の人的結合に認められていないことは、広範な立法裁量があるものの、不合理なものである。

Ⅲ 大阪地裁判決令和4年6月20日の判断の要旨

(1)24条1項について

 文理や制定経緯からすると「婚姻」は異性婚を指す。これは、社会の変化があったとしても、こうした文理や経緯からすると同様のことがいえる。もっとも、24条は同性婚を禁止はしていない。
 また、婚姻の本質は、永続的な精神的及び肉体的結合を目的として公的承認を得て共同生活を営むことであり、これが同性婚においても認められることは、個人の尊厳に沿うものである。

(2)13条1項について

 24条では保障されていない人的結合は、13条によって保障されると見ることもできるが、婚姻及び家族に関する事柄は2項によって立法に具体的な内容を規律するものとされている以上、婚姻という「制度」は生来的なものではない。そのため、13条によって検討することはできない。

(3)24条2項について

 婚姻の本質からすると、婚姻とは、そうした人的結合に法的承認を与え、法律上の効果を与えることである。このうち、公的承認を受け、社会にカップルとして認知されることに起因する利益は、自己肯定感や幸福感の源泉といった人格的尊厳に関わる重要な人格的利益ということができる。この点、異性カップルであれ同性カップルであれ、こうした利益の価値は変わらないものであり、同性カップルに対して同性間で婚姻をするについての自由が憲法上保障されているとまではいえないものの、人的結合関係についての公認に係る利益は、その人格的尊厳に関わる重要な人格的利益として尊重されるべきものである。
 したがって、2項によって認められている立法裁量の範囲内であるかをみるべきである。この点、2項における立法裁量の限界は、2項においてあえて明示されていることからすると、憲法上保障されている人格権や形式的な平等にとどまらず、直接保障されているとまではいえない利益や実質的な平等の保障までも求めていると解するべきである。
 たしかに、子を産み育てる人的結合を保護することは歴史的にみて不合理ではないし、法的保護に関しては、現行民法上の制度によって対応できる部分は多くある。しかし、同性との婚姻制度が存在しない以上、同性カップルは自由に婚姻できないという重大な影響が生じており、異性カップルに認められている法的保護がすべて手に入るわけではないことや、それが煩雑であることからも、同性カップルへの保護が異性カップルへの保護にまで及んでいないことはたしかである。
 また、このような不利益が解消されたとしても、社会のなかで公的な認知を得られるという利益は享有できない。しかし、こうした公的な承認を与える制度は様々なものが考えられるのである。したがって、個人の尊厳の、個人の尊厳の観点からは同性カップルに対しても公認に係る利益を実現する必要があるといえるものの、その方法には様々な方法が考えられるのであって、そのうちどのような制度が適切であるかについては、民主的過程において決められるべきものであるが、こうした議論が尽くされていない現状、直ちに本件諸規定が個人の尊厳の要請に照らして合理性を欠くとはいえない。
 今後の社会状況の変化によっては、同性間の婚姻等の制度の導入について何ら法的措置がとられていないことの立法不作為が、将来的に憲法24 条2 項に違反するものとして違憲になる可能性はあるとしても、本件諸規定自体が同項で認められている立法裁量の範囲を逸脱しているとはいえない。

(4)14条1項について

 たしかに、規定の文言上性的指向に基づく区別はないが、婚姻の本質からすると実質的には存在する。この点、性的指向は、本人の意思や努力によっては変えることのできない事柄であり、これによって、婚姻という個人の尊厳に関わる制度を実質的に利用できるか否かについて区別取扱いをするものであることから、この合理性は慎重に検討する必要がある。
 たしかに、本件規定の立法目的である子を産み育てる共同生活を特に保護することは正当であって、24条1項が異性婚を保障するものであることからすると、その合理性を欠くものとはいえない。しかし、現実的には同性カップルが保護される制度がなんら存在していないのであり、これにより生じる利益の差異の程度については、立法裁量の範囲内にあるのかをなお慎重に検討すべきである。
 この点、男女の婚姻を保護することが社会的に定着している制度であること、同性間の人的結合にどのような保護を与えるかの議論の過程であること、親密な関係を同性間で築くことそれ自体は否定されていないということ、法的な制度が存在しないことによる不利益も他の法制度で代替可能なものも相当程度あること、地方公共団体のパートナーシップ制度によってその別異取扱いが一定程度解消されつつあることなどからすると、現状の差異が立法裁量の範囲外にあるとはいえない。

Ⅳ 東京地裁判決令和4年11月30日の判断の要旨

(1)24条1項について

 24条1項が「婚姻」についての規範であるのに対して、2項は「婚姻及び家族に関する事項」についての規範である。そして、24条にいう「婚姻」とは、制定経緯から、異性間における結婚を意味する。これに対して、社会の変化によって、憲法上の「婚姻」に「同性婚」が含まれるのだとすることを直ちに否定することはできない。もっとも、「婚姻」という「制度」は、「社会的承認」を必要とするところ、現状婚姻の理由について「子をもうけること」とする者が、なお多くいるわけであって、そうであるならば、一定の法的保護を与えることを超えて、「異性婚」と同様の保護を同性間の人的結合にまで与えることまでに社会的な承認があるかは判断できない。そのため、婚姻は、子を産み育てるものとする伝統的な見解に基づいた、「婚姻」は異性間に限るとする解釈を変更すべきとまではいえない。

(2)14条1項について

 婚姻の本質から、本件規定はこうした結合が同性愛者には認められないような規定である以上、実質的には区別があるが、「婚姻」は子を産み育てることを保護するものであり、この区別は合理的である。

(3)24条2項について

 24条は同性婚を禁止するものではなく、婚姻の本質からいえば、婚姻は個人の人格的生存にとって重要なものである。24条2項は「家族」に関する事柄についても規律している。そして、24条2項にいう個人の尊厳と両性の本質的平等は、わざわざ規定されていることを考慮すると、単に人格権の侵害や形式的平等に悖る立法を禁止することを超えて、憲法上の権利とまではいえない人格的利益や実質的平等までも含めて立法裁量に限界付けをしている。
 婚姻制度というパッケージには、家族関係の法的保護と社会内における公の認知によって安定的に維持する、すなわち法的保護と社会的承認の役割がある。これは、人生において重要なものであり、個人の尊厳に関わる重要な人格的利益である。そして、この利益が重要であることは、同性カップルにとっても同じである。また、現状、法律婚を尊重する価値観が国民にはあり、法的な保護も契約などによって受けえるが、その保護は部分的であり、また、個別的に行わなければならない。これは、法律婚が重要視されている中で、同性カップルには、法律上社会的公証を受ける手段がまったく存在しないことを意味する。すなわち、社会内で家族としての承認を受けないという不利益があるということになる。家族としての承認にかんしていえば、養子制度もあるが親子関係とパートナー関係は異なるものであくまで代替手段としかならない。こうした状況は、人格的生存に対する重大な脅威、障害である。これに対して、婚姻類似の制度を創出することは婚姻についての伝統的な価値観と両立できるものである。しかし、具体的にどのような制度にするのかについては、国会に裁量があり、国会での慎重な議論が相当する。そのため、本件規定が24条2項に違反するとまではいえない。

Ⅴ 名古屋地裁判決令和5年5月30日の判断の要旨

(1)24条1項について

 24条にいう「婚姻」は、制定経緯や文理に照らして、少なくとも制定当初は異性間におけるものをさす。生殖と結びついた伝統的婚姻観やそれを享有する者が一定数いること、自然生殖が不可能な同性カップルへの保護の与え方には種々のものがあることから、社会情勢の変化に伴って同条の「婚姻」が同性婚までも含むものとなったとはいえない。
 また、現行法制度以外の方法での同性カップルへの保護は、異性カップルと同性カップルを別異に取扱うことになるため憲法上許されないとする見解については、同性カップルと異性カップルの間で自然生殖の可能性の有無という差異がある以上、これを越えて憲法が同一の取扱いを要請しているとまではいえないとした。

(2)24条2項について

 24条2項は「家族」について規律しており、同性カップルもまた異性カップルと同様に、親密な関係に基づき永続性をもった生活共同体を構成しうる以上、これを「家族」と捉えることは可能なはずであるとする。また、24条2項にいう個人の尊厳と両性の本質的平等は、わざわざ規定されていることを考慮すると、単に人格権の侵害や形式的平等に悖る立法を禁止することを超えて、憲法上の権利とまではいえない人格的利益や実質的平等までも含めて立法裁量に限界付けをしている。人の尊厳に由来する重要な人格的利益である「婚姻をするについての自由」を実現するために制度化された法律婚制度は、両当事者の身分関係を形成し、その関係を公証し、その関係を保護するのに相応しい法律上のさまざまな効果を付与し、事実上も多様な効果が生じるものである。人間が社会的な存在であることからすると、中でも重要なのは公証の側面である。そして、こうした公証方法は種々のものが考えられるものの、婚姻制度が有力な手段であることは我が国の戸籍制度や国民の意識からして明らかである。しかし、こうした公傷制度は同性カップルには存在せず、制度上このような重要な人格的利益を享受できない。
 この点、たしかに現行制度のように男女の関係を保護することの合理性はあるものの、婚姻の本質は永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思をもって共同生活を営むことにあり、こうしたことは同性カップルにおいても成り立つ以上、婚姻制度が同性間に開かれていないことはその制度を享有できないという点で、同性カップルと異性カップルの間の格差を生じさせており、これを放置していることには合理性の疑義がある。また、こうした公証制度が同性カップルに開かれたとしても、国民に対する具体的な不利益は想定し難い。地方自治体におけるパートナーシップ制度による具体的な弊害は生じておらず、婚姻制度の効果は当事者間で完結するものが多く、その他の契約などによって法的効果の一部を得られるという主張は逆説的には法が同性カップルに対して法的保護を与えるべきでないと考えていないことの証左となる。もっとも、直接第三者に対して影響が生じうるものがある場合には、こうしたものまで同性カップルに与えるか否かは民主的議論に委ねられているといえる。しかし、現状公証された関係に、その関係を保護するにふさわしい効果を付与するための枠組み自体が与えられるべきことそれ自体は否定されない。したがって、諸規定は同性カップルに対して、その関係を国の制度によって公証し、その関係を保護するのにふさわしい効果を付与するための枠組みすら与えていないという限度で個人の尊厳に照らして合理性を欠いており、憲法24条2項に違反している。

(3)14条1項について

 性的指向という、生来的なもので、本人にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由として、婚姻に対する直接的な制約を課すことになっている諸規定は、24条2項で検討したように、同性カップルに対して、その関係を国の制度によって公証し、その関係を保護するにふさわしい効果を付与するための枠組みすら与えていないという限度で合理性がなく、憲法14条1項に違反している。

Ⅵ 福岡地裁判決令和5年6月8日の判断の要旨

(1)24条1項について

 婚姻とは、当事者が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思をもって共同生活を営むことである。24条の「婚姻」は文言や制定過程から男女の婚姻を指す。同性婚に対する社会的承認が異性婚と同程度にあるとはいえないため、社会通念が変遷しているとはいえない。

(2)13条1項について

 公証の利益がある以上、婚姻制度を利用できるか否かはその者の生涯にわたって影響を及ぼし、婚姻制度に対する国民の意識からすると、婚姻をするか否か誰とするのかなどの自己決定は同性カップルにおいても尊重されるべき人格的利益である。しかし、婚姻という制度は当事者の意思のみではなく、各種法によりその要件が満たされている法律上の制度であり、同性カップルの婚姻の自由や婚姻による家族の形成という人格的自律権が憲法13条によって保障されているとまではいえない。

(3)14条1項について

 本件諸規定によって、同性カップルは婚姻制度を利用することができない以上、性的指向に基づく区別取扱いがある。性的指向は、本人にとって自ら選択ないし修正の余地のない事柄であるため、この区別に対する合理性の審査は慎重に検討する必要がある。
 公証の利益は、婚姻によってしか得られないにもかかわらず、これを利用できないことは重大な不利益である。こうした不利益は一定程度現行法上緩和可能であるが、経済的負担等があり、仮に緩和されるとしても公証による利益などは、婚姻でしか得られない以上、緩和しているとすることはできない。事実婚に関してはこうした利益を自らの意思で放棄している以上、同列に考えることはできない。
 しかし、24条の婚姻は異性間に限られるものであって、生殖や子の養育の保護という目的は現在においても重要であり、社会通念も変遷しつつあるものの、完全に変遷したとはいえない以上、区別取扱いは憲法が要請しているといえ、合理性がないとはいえないため、14条1項に違反しているとはいえない。

(4)24条2項について

 同性カップルと異性カップルの人的結合は変わらないものであり、同性カップルの人的結合もまた24条2項の「婚姻及び家族に関するその他の事柄」に該当する。「婚姻」でないにしても、「家族」にかんする事柄である。「家族」とは、夫婦及びその子を中心とする概念であると理解されるものの、婚姻や家族の形態が多様化し、これに伴って国民の意識が多様化していることからすると、「婚姻及び家族」に同性カップルに含めることは文言上自然である。本件諸規定により同性カップルは婚姻制度を利用することによって得られる利益を一切享受できず法的に家族と承認されないという重大な不利益を被っている。また、婚姻制度の目的には当事者同士の共同生活の保護という側面があり、この面は今日において強いものとなっているなど、婚姻に対する社会通念もまた変遷し、同性婚に対する社会的承認がいまだ十分には得られていないとはいえ、国民の理解が相当程度浸透されていることに照らすと、本件諸規定の立法事実が相当程度変遷したものと言わざるを得ない。そのため、同性カップルに婚姻制度の利用によって得られる利益を一切認めず、自らの選んだ相手と法的に家族になる手段を与えていない本件諸規定は個人の尊厳に立脚すべきものとする憲法24条2項に違反する状態にある。
 しかし、婚姻制度以外の制度であっても、こうした不利益は解消可能であり、具体的なあ制度の内容などについても立法府における議論に委ねるのが相当であるし、委ねざるを得ないものもある。また、国民意識の変遷が起きたのが比較的近時のことであることからも、立法府による今後の検討に委ねることが必ずしも不合理ではない。したがって、同性間の婚姻を認めていない本件諸規定が立法府の裁量権の範囲を逸脱したものとして憲法24条2項に反するとまではいえない。

Ⅶ 解説

(1)結論について

 五判決を見比べると、まず結論の差異が顕著である。札幌地裁判決が「14条1項違憲」、大阪地裁が「合憲」、東京地裁が「合憲」、名古屋地裁が「14条1項と24条2項違憲」、福岡地裁が「合憲」である。もっとも、東京地裁と福岡地裁に関しては、「違憲状態」判決であるとの報道がなされた。これは、東京地裁判決の「現行法上、同性愛者についてパートナーと家族になるための法制度が存在しないことは、同性愛者の人格的生存に対する重大な脅威、障害であり、個人の尊厳に照らして合理的な理由があるとはいえず、憲法24条2項に違反する状態にある」と判示した部分や、福岡地裁判決の「同性カップルに婚姻制度の利用によって得られる利益を一切認めず、自らの選んだ相手と法的に家族になる手段を与えていない本件諸規定はもはや個人の尊厳に立脚すべきものとする憲法24条2項に違反する状態にある」と判示した部分による。とはいえ、東京地裁判決の結論は「同性間の婚姻を認めていない本件規定が憲法24条2項に違反すると断ずることはできない」、福岡地裁判決の結論は「同性間の婚姻を認めていない本件諸規定が立法府たる国会の裁量権の範囲を逸脱したものとして憲法24条2項に反するとまでは認めることができない」としているため、憲法学的にはあくまで単なる「合憲」判決である。もっとも、そうでなかったとしても、「違憲状態」判決は合憲判決である。そうすると、東京地裁判決と大阪地裁判決は同様のことを異なる論理で主張していると理解できる。東京地裁は、「立法不作為」が「違憲状態」であるが、「規定」は「合憲」としている。また、大阪地裁も、括弧書きではあるものの「なお、上記のような国民的議論を経た上で、国会が本件諸規定を改廃し、同性間の婚姻制度を構築するという選択をすることも可能であることはいうまでもないが、このことと、本件諸規定が憲法24 条に違反するか否かという憲法適合性の審査の問題とは次元を異にするものである」としており、あくまで「立法不作為」に問題はあるものの、「規定」は合憲であるとしている。すなわち、大阪・東京両判決は、その理由付けの差異はあるものの、共に24条2項問題として事案を捉えた上で、「規定」については合憲であるが「立法不作為」には問題が存在し、民主主義的過程ないし立法作用による解消を求めたものであるといえる。この点、福岡地裁判決は、同様に24条2項問題として検討しているが、「規定」は「違憲状態」であるが「違憲」でないとしており、東京地裁判決などとの距離がある。
 これに対して、札幌地裁判決は、24条1項と2項を分離させることなく切り捨てた上で、14条1項問題として捉え、不合理な区別があるとした。14条1項による「違憲」判断が最高裁でも積み重ねられていることからすると、14条1項違反をいいやすいといった理由はあるのかもしれないが、24条問題としないことで「婚姻」制度に同性カップルの人的結合を含ませることを違憲解消の必要条件としなかったことが伺われる。大阪地裁判決もまた、24条1項と2項を明示的には峻別することなく(とはいえ24条2項を婚姻及び家族にかんする規定とする点から、「家族」の観点があったとみることも可能ではある)判断しており、24条問題としつつも、仮に違憲となったとしても「婚姻」に同性婚を含ませるという解消を必要条件とすることには至らない論理展開であった。ただし、この点は、東京地裁判決や名古屋、福岡地裁判決においても同様の指摘ができる。なぜなら、三地裁は、24条の規範構造を文理解釈原理主義的に1項が「婚姻」2項が「婚姻及び家族」にかんする規定であると捉え、「家族」の問題として同性間での人的結合を捉えたためである。この点について、たしかに、東京・名古屋・福岡地裁のように24条2項が「家族」についても規定していると捉えることは、24条1項が同性婚を保障していないとするにもかかわらず、なぜ2項の問題になるのかという大阪地裁が抱える問いに対して有力な回答であるものの、「家族」とは何かという新たな問題を産むことにも自覚的でなければならない。その意味で名古屋地裁判決の「家族という概念は、憲法でも民法でも定義されておらず、その外縁は明確ではなく、社会通念上は、多義的なものである」とする点は評価できる。少なくとも、婚姻制度と親子関係を前提とした家族であれば線引きは可能であるが、婚姻制度や親子関係に基礎付けられない「家族」という在り方が存在するとする以上、たとえば「友人関係」や「恋人関係」などとの差別化ができるのかという困難な壁に衝突してしまう。「事実婚」カップルに対する法的保護は憲法上要請されるのか。「シェアハウスしているものたち」はどうか。結局「婚姻」なき「家族」概念はこうした問いに解を用意する必要がある。これに対して、名古屋地裁は、「同性カップルにおいても、親密な関係に基づき永続性をもった生活共同体を構成しうることは、異性カップルと何ら異ならないのであるから、同性力ップルの関係性について、家族の問題として検討することは十分に可能なはずである」としている。しかし、「可能なはず」という説得力の無さは措いたとしても、それ以降「親密な関係に基づき永続性をもった生活共同体を構成」することが「婚姻」の本質であるとする以上、このロジックは同性婚を「婚姻」でないにもかかわらず「家族」であるとする理由にはなっていないのである。また、福岡地裁判決においても、「家族」は「夫婦及びその子の総体を中心とする概念」であるものの、「婚姻」や「家族」に対する国民の意識が多様化していることを理由として、同性カップルを「家族」に含ませることが「文言上自然」としている。しかし、福岡地裁判決は「婚姻」については、国民の意識が変遷しつつあるものの、「婚姻」に含ませることはできないとしている点との間で平仄が合わないことになっている。結局のところ「婚姻」なき「家族」概念は裁判所の恣意に憲法上の「家族」をおく議論としての側面がある点に注意が必要である。



東京地裁判決については、NHK「同性婚 法制度ないのは違憲状態も憲法には違反せず 東京地裁」令和4年11月30日(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221130/k10013908001000.html、令和5年6月8日最終閲覧)など。福岡地裁判決については、NHK「同性婚を認めないのは『憲法に違反する状態』 福岡地裁」令和5年6月8日(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230608/k10014093401000.html、令和5年6月8日最終閲覧)

佐藤幸治『日本国憲法論〔第2版〕』(成文堂、2020)712頁。同様に、結論的には合憲判決としながらも「広義の違憲判断の方法の一つ」とするものとして、野中俊彦ほか編『憲法Ⅱ〔第5版〕』(有斐閣、2016)319頁〔執筆者野中俊彦〕参照。

同様の指摘として春山習「判批」法セ増新・判例解説Watch32号(2023)38頁参照。

同様の指摘として、東京地裁判決に対する評釈として石塚壮太郎「判批」法セ819号(2023)131頁参照。

(2)違憲という結論の困難さ

 つぎに、結論の差異にもつながるものではあるが、本事案における「違憲」決定の困難さにも触れておく。「違憲」の効果はその事案における適用を排除することであるが、仮に本事案が国賠訴訟ではなかったとしても、「規定」を事案から排除してしまうと、結局「婚姻」ができないということになる。そのため、事案の解決はできたとしても、結論の妥当性を欠くことになる。この点、国籍法違憲判決で最高裁がおこなった「部分違憲」という手法は、国籍の付与のためには規定を残さなくてはならなかったものの、国籍法の規定それ自体に憲法的に余分な部分があり、不足ではなかったのである。そのため、同性婚訴訟で問題となっているような憲法的に不足な「規定」をそれが部分的であれ全部的であれ違憲無効とすることには権力分立上の困難が存在する。そうであるならば、結論としては、(実際には本各訴訟が国賠訴訟である以上当然であるが)立法府にその後の処理が任されることになる。そのため、14条1項違憲(不平等の解決手段は複数存在するため)や、24条2項に照らして違憲であるとする(立法裁量の問題とするため第一次的にはやはり立法府の判断が俟たれるのが基本となるため)のが自然な解決ということになる。その点からいうと、明確に違憲であるとした札幌地裁や名古屋地裁が14条1項論や24条2項論で違憲を主張し、大阪地裁と東京地裁、福岡地裁が終局的には合憲としつつも憲法上の疑義が存在することを24条2項の文脈で主張したことにはそれなりに納得感があるものである。




戸波江二「違憲判決の効力」法セ480号(1994)72頁など参照。


最大判平成20年6月4日集民228号101頁。


同性婚制度を創設するという手段でも、婚姻制度を廃止するという手段でも異性カップルと同性カップルとの間の格差は是正される。この点につき、安念潤司「家族形成と自己決定」岩村正彦ほか編『岩波講座現代の法14自己決定権と法』(岩波書店、1998)129頁以下と長谷部恭男『憲法の理性〔増補新装版〕』(東京大学出版会、2016)133頁参照。

(3)立法義務?

 さいごに、とりわけ大阪・東京・名古屋・福岡地裁判決の関係について。この四判決は、根拠などの詳細な部分については異なるものの論理展開が非常に類似しており、大阪地裁と東京、福岡地裁については結論も似たものである。しかし、大阪地裁判決が憲法的瑕疵の解消を「民主的過程」に委ねるべきであり規定自体は将来的には違憲となりうるとしつつ合憲としたのに対して、東京地裁判決は「立法不作為」の状態を「憲法に違反する状態」であるとしている点には、東京地裁なりの努力が看取できよう。すなわち、大阪地裁判決が同性婚に対して消極的と取られてしまうのは、「民主的過程」に完全になげてしまったためであるとすると、東京地裁は、同様に立法での議論を促すものではあるものの、「将来的な違憲」ではなく「違憲状態」と述べることで、非常に強みを持たせたのである。もっとも、「違憲状態」とは、議員定数不均衡訴訟で用いられるものであって、「合理的是正期間」の存在を前提としたものである。これに対して、東京地裁判決はそのような「合理的是正期間」を前提としていない。むしろ、大阪地裁のように「将来的な違憲」をいうものであれば、その妥当性はともかくとして、これまで議員定数不均衡訴訟でみられた「違憲状態」類似のものと観念できる。この点、福岡地裁判決は、国民意識の変遷等が「比較的近時」の出来事であることなどを理由に立法府に委ねることが相当であるとしている。これは、ある意味で「合理的是正期間」と同様の思惑が看取できる。福岡地裁は、「規定は違憲状態だが解決は立法府に委ねるべき」と考えているため、東京地裁の判断に近しいものの、「将来的な違憲」の含みを持たせていることからすると、大阪地裁のそれに近いものである。このように、東京地裁がこうした一般的な理解とは異なる「違憲状態」論を採用せねばならない状況に追い詰められた直接の原因は、大阪地裁判決に対する世間の批判であるだろう。そして、究極の原因として、大阪地裁判決がそのような「誤読」を誘う判決を出さざるを得なかったのは、結局のところ「国家の立法義務違反」を論じてこなかった憲法学にもその責任の一端がある。もし仮に、それをドイツ風に「国家の基本権保護義務」といわないにしても、立法者に立法の義務があり、その義務違反を裁判所が指摘できるという議論が充分になされていれば、大阪地裁において「立法不作為」について「立法」が個人の尊厳の観点から必要であるとしながらも、違憲であると踏み切れなかったという事態は回避できた。この点、名古屋地裁判決は大阪・東京両地裁が規定の合理性を判断する形での判断をしたのに対して、規定それ自体の合理性があるとした上で、同性カップルの保護の不存在の合理性に精確に照準を合わせて論じており、非常に参考に値する。また、規定が存在しないことに対する違憲判断に尻込みした大阪・東京地裁に対して、名古屋地裁や福岡地裁はそれを規定が存在しないことではなく規定自体の問題と捉えていることも参考に値する。もっとも、名古屋地裁が「その関係を国の制度によって公証し、その関係を保護するのに相応しい効果を付与するための枠組みすら与えていないという限度で」立法裁量の範囲外にあるとしていることや、福岡地裁判決が「婚姻制度の利用によって得られる利益を一切認めず、自らの選んだ相手と法的に家族になる手段を与えていない」ことが憲法に反するとするように、同性婚ではなくその他の手段によってなされる解消であれば合憲となる論理でありうることは確かである。この点、名古屋地裁判決では、「社会的承認は、様々な方法により与えられうるもので、歴史上も多様な方式、慣習が存在していたと考えられるが、わが国においては、国によって全国的に統一された均ーの内容を持つ戸籍制度が完備されて久しくなり、国民の中にはなお法律婚を尊重する意識が幅広く浸透していることに鑑みると、国による統一された制度によって公証されることが、正当な関係として社会的承認を得たといえるための有力な手段になっている」としていることからすると、婚姻制度によるものでなければならないと考えている可能性もある。同様に、大阪・東京・福岡判決での判断を考えることもできないではない。ただし、大阪・東京・福岡地裁が結論として憲法上の疑義には種々の解決策があるため合憲とした以上、このように捉えることは好意的に捉え過ぎている。むしろ、大阪・東京地裁両判決は24条2項から「立法義務」を明確には導き出せなかったのに対して、名古屋地裁は「立法義務」を導き出したとみるべきだろう。この点、福岡地裁は、「相当な期間」が未だ立っていないことも理由としている以上、「立法義務」を一定程度認めているようにも思えるが、明確なものではない。大阪・東京・福岡地裁は、規定の不存在(福岡地裁は規定そのもの)には憲法上の疑義があるが、その解消には種々の手段があるのだから、立法府は検討せよという迂遠な形で「立法義務」を匂わせているのに対して、名古屋地裁は、その内容についてはともかく、少なくとも法的保護の枠組みを立法する義務があるのにそれを立法府が果たしていないことが憲法上正当化されないとしているのだから、明確に「立法義務」を前提としている。
 こうした「立法義務」にかんする議論が憲法学において存在感をいまだ充分に持っていないことは、非常に問題がある。また、我が国における「立法不作為」の違憲が認められたのは、在外邦人の選挙権・国民審査権訴訟における判断であり、こうした選挙権での議論が婚姻制度でもそのまま採用できるのかを検討することも必要である。たとえば、裁判所はそう考えていないようではあるが、婚姻がいかに制度依存的な側面があるとしても、あくまで前国家的な私人間の結合の保護であることからすると、これを「合理的是正期間」を窺わせるような大阪地裁の判断は、前国家的な自由権保障を切り崩すものとなりかねず、選挙権と婚姻の自由を同様の前提で語ることには慎重でなくてはならない。



最大判昭和58年11月7日民集37巻9号1243頁、最大判平成8年9月11日民集50巻8号2283頁、最大判平成25年11月20日集民245号1頁など。

高橋和之『体系憲法訴訟』(岩波書店、2017)136頁参照。

国家の基本権保護義務論については、小山剛『基本権保護の法理』(成文堂、1998)46頁以下参照。

この点、札幌地裁判決も同様の指摘ができるところ、それを指摘するものとして、新井誠「同性婚訴訟〜札幌地裁令和3年3月17日判決」《WLJ判例コラム》234号(2021)11頁。

松原俊介「同性婚問題からみる平等の救済方法」法セ818号(2023)23頁参照。

最大判平成17年9月14日民集59巻7号2087頁。

最大判令和4年5月25日民集76巻4号711頁。

(4)小括

 いずれにせよ、五判決はそれぞれ同性婚を認めない現行制度に憲法上の疑義があるとする点では前提を同じくしており、同性婚を望む当事者たちにとっては大きな意義と勇気を与えるものであったとは思われる。しかし、ここでは敢えて現実的なことを述べると、全判決はともに現行婚姻制度にアクセスできるようにする以外の同性カップルへの法的保護がなされた場合には合憲となるロジックで結論を下した。これは当事者たちの願いに寄り添ったものではない。当事者たちが求めているのは、婚姻類似の法的保護ではなく婚姻という形での法的保護ではないだろうか。そうすると、全ての判決が憲法24条にいう「婚姻」を異性婚に限定したことこそが問題の本質であるといえる。しかし、これを超えるには条文の文言という厳しいハードルがある。これが、同性婚についての憲法判断を非常に困難なものにさせる原因である。

Ⅷ 私見

 以下では、同性婚規定の不存在に対する私見を論じておきたい。とりわけ、憲法24条1項にいう「両性」や「夫婦」などの語について検討する。
 憲法24条が本来的に規定する婚姻は異性婚である。しかし、ここでいう「両性」は何も身体的男女のみを指すわけではない。少なくとも憲法24条が保護しようとするものは男女の人的結合であるとしても、ここでいう男女には精神的性別が含まれるのだとする解釈を排除することはできない。例えば、精神的な性別が男である者(身体的男性)と精神的な性別が男である者(身体的女性)が婚姻することは現行制度上可能なのであるが(無論精神的女性同士の身体的男女の婚姻や精神的性が男性の身体的性が女性と精神的な性が女性の身体的性が男性の婚姻すらも可能である)、それに加えて精神的性が異性同士の身体的性が同性のカップルは精神的には「男女」である以上、これを排除することはできないということである。そうすると、憲法24条が想定しておらず、現行制度においても婚姻の余地が全く認められないのは、精神的性と身体的性が一致しているものと同様に精神的性と身体的性が一致したものとの間で成立する同性カップルということになる。なお、思考経済的に身体的両性ないし精神的両性や無性などの性自認を有するものなどについては一先ず捨象しておいたが、こうした性自認もまた「両性」のうちの一方になりうることを指摘しておく。しかし、こうした「婚姻」に基づいた制度は、トランスジェンダーではないもののうち性的指向が異性愛を向いていれば制度にアクセスできるにもかかわらず、同性愛であるとアクセスできないという別異取扱いがある。それだけでなく、同じく同じ性的指向を持つものでもそのものがトランスジェンダーであれば制度にアクセスできるにもかかわらず、トランスジェンダーでないものの場合にはアクセスできないという別異取扱いがある。前者は現在も意識されており、裁判上でも検討される別異取扱いであるが、後者はそうではない。その点で、別異取扱いの数が増加することで、違憲性の推定がさらに上がるだろう。また、性自認を告白させなければ成立しない制度設計になる以上、その点も問題となるだろう。このように、現行制度の運用と比して平等や個人の尊厳に対する違憲性が強く推認される以上、制度を創設するにあたって、憲法24条2項の立法裁量の限界に抵触するものとなる。「婚姻」は、個人の尊厳や本質的平等に適う制度でなければならないことを憲法上要請されている以上、「婚姻」は、精神的性と身体的性が一致しているものと同様に精神的性と身体的性が一致したものとの間で成立する同性カップルまでも含ませるものと読む必要がある。もちろん、「両性」や「夫婦」という語はこれに反してしまうことになるが、「婚姻」の典型が少なくとも精神的男女または身体的男女によるものである以上、「両性」の合意や「両性」の本質的平等が規定にあらわれるのは当然である。「両性」の合意は男女間における「婚姻」にかんして妥当し、本質的な差異のない同性間における婚姻は、男女間におけるそれにおいて唯一の要件となる「両性」の合意と同等の意味となる「両当事者」の合意のみを要件とすることになる。「両性」の本質的平等については、「本質的」との語からわかるように「両性」は見かけ上差異がある存在であることを前提としているが、精神的性と身体的性が一致しているものと同様に精神的性と身体的性が一致したものとの間で成立する同性カップルは互いにその属性に「男女」のような差異がないことは当然なのであって、敢えて読み換える必要すらない。これは「夫婦」についてもその文脈からして「同等の権利を有すること」を求めるものであって、これも「男女」のような差異がない以上「同等の権利を有すること」は当然なのである。
 したがって、24条にいう「婚姻」には同性カップルの人的結合が含まれると解釈することは可能であるし、すべきである。

Ⅸ むすびにかえて

 以上では、札幌、大阪、東京、名古屋、福岡地裁の判断を概観し、それぞれの問題点を提示した。とはいえ、全ての判決が同性婚規定の不存在に対して憲法上の瑕疵があることを認めていることは、非常に重要なことである。これを手放しで受け入れることができないことは、本稿で触れてきたものの、こうした判断が出揃った以上、立法府はその立法義務があるか否かにかかわらず、重く受け止めなければならないだろう。民主的過程による慎重な検討が必要な部分もあろうが、五判決の存在は、少なくともその法的保護が一切存在しない限りにおいて憲法上問題があるということは議論の必要がないほどにあきらかであるということの証左である。仮に、それが司法権の限界という問題で大阪や東京、福岡地裁型の判断がこの後高裁や最高裁で繰り返されるとしても、こうした問題が認識されないような判断は妥当性を欠くように思われる。五判決はそれほどまでに同性婚問題の本質を良い意味でも悪い意味でも顕在化させたという点に意義が見出される。ここでいう悪い意味とは、24条1項の「婚姻」の意味が問題の本質であることを、全ての判決が同性カップルの人的結合を「婚姻」に含ませないとしたことでより明確にしたということである。そこで、本稿では、「婚姻」の意味についての私見を述べた。この私見は、未だ思いつきの範囲を超えるものではなく、先行研究などとの比較などをしたような研究といえるものには及ばない覚書程度のものであることをここで述べてむすびにかえたい。

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