僕らが「はかる」ことの意味。

僕の過ごしてきた時間に新しい区切りのひとつがついた。

というのは大袈裟な物言いで、今日が誕生日だったというだけなんですが(笑)

そう、誕生日とは「生まれた日から数えた時間のひとつの区切り」なんですよね。
それ自体に意味があるのではなく、「標(しるべ)」のようなものなのだと思うのです。
決して向こうから迫ってくるものではないし、その存在を消すこともできない。
ただの一つの単位からなる時間の地点。
今日は、そこにどれだけの意味があるのかを考えてみたりしています。

そうすると、
人は「はかる能力」が秀でている生き物だな、と、つくづく思うのです。

「はかる」とは何か

計る、図る、測る、量る、察る、諮る、謀る…
それぞれ、計算の、図形の、測量の、看取することの、謀略の…

異なる二つのものを見比べて、「これはこれだ」と見立てて納得することができるのは知性の始まりなのかもしれないとか思ってみたりしています。

何かの模倣をする際には二つ以上の対象を比較するフェーズが必ず存在します。
言語の習得も技術の習得も然りで、それぞれ「言葉と言葉の比較」「他人と自身との比較」が必要です。

さらにいえば、「それが何なのか」を定義する際にはまず二つ以上の何か(あるいは状態)が存在しないといけません。
例えば「生物的に性別がない(全てが無性)」ということは、オスもメスも存在できないということです。この場合、男性がない=女性がないということになります。どちらかだけが存在しても、定義に困ります。
また、もともと一つのものに境界線を引いて二つに分けるというのもありますね。
「宇宙」と「空」に境界線が引かれなかったら同じものになるでしょう。

さらに極端な例を出しましょうか。
世界中の食べ物が辛い食べ物だったとして、その辛さが一定だったとして。
そんな世界には辛いという概念すら無くなるのです。
「食べ物=辛い」が成立してしまったら、食べ物という言葉の意味には「辛いもの」という意味合いも同時に含まれてしまいますし、そもそも全人類が辛いという感覚のことすら認識できない可能性もあります。辛くないを知らないためです。

そう。

僕らは比較しないことには、それが何なのかを見極めることができないんです。


なぜはかるのか

一言で結論を言うのであれば、
「僕らが生きやすくなるため」ですね。
不安を取り払い、推論の確実性を高めるためです。

この世界から比較すること、「見比べてはかること」をなくすというのは、実は世界から「発展」や「(正確な意味での)物事の多様性」を奪いかねません。

ここでもまた一つ例を出しましょう。
世界には数字がない言語があるという話です。
数字は3までは認識ができるそうですが、それ以上は多いか少ないかのみでの意思疎通を行います。ぴったりの数字を伝える単語は存在せず、さらには左右の概念すらないのです。

僕らからしたら考えられないことだと思いますが、まだ例はあります。
世界の識字率の話です。
日本では文字が読めるのは当たり前のこととして、世界全体の識字率も現在では九割を超えているそうですが、まだ識字率の低い国や地域も存在します。
文字を使わないで当たり前に生活している人もいるということです。
(その人たちからしたら、前例に挙げたピダハン語のような言語の存在も想像に固くないのかもしれませんね。)

これらは「比べられない、存在を認知できないからといって生活ができないわけではない。」という話ではありません。
僕が伝えたいのは「そういう層が世界的に見ても非常に少ない」ということから推察できる事実の話です。

つまり、
「数字が無ければ、また、ある程度高度な言語がなければ、より複雑で大規模な社会集団に育つことが難しい」ということです。
ミニマムな単位であれば制御できたものごとも、より規模を拡大していくことで釣り合いを取ることが高度になっていきます。
(会社の経営なんかまさにそうですよね。)

「だから勉強しなさい!」という話じゃありませんし、
「能力差による淘汰」を助長したいわけでもないのです。
事実として、
「いま僕らの住んでいる世界は複雑で、大規模で、人の方が追いつけないくらいになっているよな」
と思うわけです。

所属している集団の母数が増えるほどに情報量はねずみ算式に増え、難解になりますから「正確にはかること」が難しくなり、不便と苦痛を生むのを避けられません。
ところが、
多くの人の言うところの「多様性のある社会」とは、「さまざまな価値観、種族の人間が共存できる社会」なので、まさにそれに当てはまるわけです。
「正確にはかること」がその社会の構築において必須となるのは自然なことです。
無秩序は混乱を生み、不安を育て、争いの火種となります。

そんな中で正確に物事を認識できたなら。
バイアス(偏見)を取り払い、冷静に、一つ一つ事実を受け入れられたなら。
「生きやすさ」というものが得られるのかもしれないなんておもったわけです。


そしてそれは自分以外の周りにも伝播してくれるものであるとも思います。


正しさは、 優しさになるんじゃないかと思う。

例えば、言葉の丁寧さと言うのは、思いやりからくるものだと僕は思っています。
丁寧な文章のわかりやすさ、伝わりやすさ、優しさは「想いをいかに丁寧に言葉に変えているのか」「言葉の誤謬にいかに繊細になれるか」などという「言葉の正確さへの配慮」あってのことでしょうから、やはり正しさは肝心です。

また、「正しさは暴力になることがある」というのは、「正論」をそのまま伝えた時の話です。なぜならほとんどの人は、みな自身が思っている以上にバイアスに塗れて生活しているので、「論述の正確さ」なんか心から求めてはいないのです。
人が欲しい言葉、言われたくない言葉を理解してうまく伝える器用さも必要になることがあるかもしれません。
つまり、人と関わる際の「正しさ」というのは、相手(さらに言うと、相手の大事にしているものごと、抱えているバイアスなど)によって変わるということです。

ちょっと面倒ですよね。
けれど「正確にはかる」ということは、「正確に捉える」ということ。
行動に「正しさ」なんてものがあるのだとしたら、何も捉えずしてできる正しい行動なんていうのができるはずないでしょう(余程運が良いでもない限り)。

だから僕は「伝わる伝え方」を求めて、それを正しさと定義づけて探求しているのです。


とにかく、「正確にはかり、捉える」と言うのは、とても難しく、面倒で、同時にものすごく勇気のいることです。

時には、誰かを否定することもあるかもしれません。

物事の矛盾や不平はいくらでも見つかるでしょう。

自らの誤ちを受け入れなければならない時は多々あるでしょう。

けれど、
何かを成すためには、誰かと関わっていくためには、前向きに生きていくには、

そういう正しさも必要になる時があるのではないかと思うのです。



改めて、はかるとは

「僕」と「いまこの記事を読んでいるあなた」と。

この二人の間には距離があって、
その距離を僕が正確にはかることができたのなら、
僕は言葉以上の想いを伝えられることでしょうし、
はかれていなかったのなら、
ただの文字の羅列を見つけるだけになっているかもしれません。

歌う時も同様です。
相手をみて、考えて、伝え方を工夫して、
やりとりをする。
それを思いやりと呼ぶのかもしれません。




はぁ、1000字かけたら上出来って思って書き出したのにw

もう現在原稿用紙16枚目なので区切りますね。


歌の中での尺度の話はこれからまた少しづつ話すとして。


僕はまた今日まで過ごしてきた日々への考え方をまた一層深めていくわけですが、
最後に一言だけ。



僕は迷い苦しみ、もがきながら生きている今この瞬間の連続が幸せでたまらないです。

みんな、ありがとう。



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