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わたしの躁うつ病記(うつ編①)

開いてくださってありがとうございます。
うつ編・躁編・混合編というかたちで書いていきたいと思っています。
ただのエッセイだと思って読んでいただけたら嬉しいです。

病気になる直前


26歳で子供を出産し、ワーキングマザー(ワーママ)1年目。
1年目はそれなりに子どもの病気の洗礼を受け、仕事を休むことも多々あったが娘の体が強いほうだったこともあり、あまりそのことで悩まされるほどのことはなかった。(娘から自身へロタウイルスが移って死にそうになったりしたけれど。同じワーママさんは笑ってほしい。あるあるあるある)

ワーママ1年目に蒔いた種としての仕事が認められて、2年目に部署移動となり、上司も変わることとなった。上司は執行役員、一番花形の部署。憧れの部署であり、そして、自分自身、種の仕事が小さくではあるが芽吹いて、さらに育てるべくその年の全社プロジェクトとして据えられることとなった。プロジェクトのマネージャーに抜擢していただいた。
(ついには、今は大きく花開き会社の看板商品になっている)

ワーキングマザー・プロジェクトマネージャー・花形部署への移動。
普通に考えたらかなりの負荷だろうと思う。
ただただ仕事が楽しくて仕方なかった私は、喜んだ。
毎朝、東京事変の「能動的三分間」を聞いて出勤した。
足取りは軽かった。

予兆

土日も時間が作れるかぎり仕事を優先して企画を詰める作業をおこなっていた。知り合いのワーママさん(その仕事のペルソナだったので)に休日返上というか、好きでインタビューしにいったり、付き合いのある仕事仲間(社外)の方のイベントに出かけたりしていた。
(当時の主人には感謝しかない)

そうこうするうちに、同僚に
「痩せた?」
声をかけられた。ちょうどランチにでも一緒に行こうと何人かと連れ立っていた時だった。私としては無自覚。もともとやせ型で、食べることにそんなに執着しないタイプだったから気にならなかった。
結局その時のランチでは、一生懸命食べて1/3程度が精いっぱいだった。
しかし、それもあまり気にすることはなかったけれど、今も記憶にとても強く残っている。

朝4時。
そのころに目が覚めることが増えた。
仕事のことがいつも頭にあって離れに状況だったからかもしれない、と、今の私なら予想がつく。
当時はとにかく朝目覚めてしまうことに悩んでいた。

食は相変わらずだった。食欲がないわけではなく、のどを通らない、胃に入らない。
さらにに睡眠もとれないような状況が加わった。
だんだんと体力は失われていき、家から会社までの、たった徒歩8分を歩くのがやっとだった。

自分では気づくことができなかった

そんな状況にまでなっていたら、気づけると思う。
でも私は自分で気づくことができなかった。仕事がしたかった。

心配した主人が、内科に連れて行ってくれて、栄養補給の点滴を打った。
その数日後に、大きい病院に行って睡眠のことを相談した。
そしたら、「うちの精神科はいっぱいで今は新患はとってないので、街の診療内科を受診することをおすすめします」といわれた。

言われるまで精神的にどうか?ということは一つも疑っていなかった。

昔冗談で、その時の会社社長(カリスマ)に「君は鬱とかならないタイプだね」なんて言われたのを真にうけていたのかもしれない。

初めての診療内科

会社から近い会社をネットで調べていってみた。
どこの診療内科もそうだけれど、とにかく小綺麗で少しゴージャス。
そこもそうだった、なんだか逆に落ち着かない。

ここでは、睡眠を助けるという名目で、向精神薬の一種をもらったとおもう。5分くらい話して処方されて終わりだった。

しばらく薬を飲んだけれど、状況は改善されなかった。

次の診察の際に、「仕事を少し休んだらどうか」ということだった。
薬はすぐに別の向精神薬に変更になった。

正直、わたしはもう限界だった。仕事をしたいという気持ちもどこかへ行ってしまっていた。ただただ疲れていたし、つらかった。
先生に「休む」という選択肢を言われて、やっと自覚ができて心がギュッとなった。

次の日、上司に時間をもらいお話をした。少し休ませてほしい。と。
すると上司は、
「あなたは、仕事がすきだから、完全に休むのはおすすめしない。
午前中だけ仕事しにきて、午後は運動するなどしてはどうか?
運動はうつに効くと最近の研究にあきらかになっているよ」
と言った。

何をいっているのだろうとおもった。
わたしは、もう限界なのに…

そのあと別の執行役員の人たちと話してくれて、結局は長期欠勤が前提のお休みを取ることできることになった。

帰り道は、体中が痛くて、徒歩8分の道のりを30分近くかけて帰った。


休職後の話に続きます…

>>うつ編② 


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