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同じ穴のむじな(4)夕陽

赤川鉄橋を貨物列車が、牛のよだれのように長々と、カタンコトンと時を刻むように進んでいく。
西日(にしび)を背にしたその光景は、この淀川端の堤防からのおなじみの景色だった。
このゴミ箱のような街にあって、唯一といってもいいほどの自慢できる景色だった。

おれは、授業が引けて、部活動もない日には、こうして堤防を歩くようにしていた。
赤川鉄橋の反対側には豊里大橋という「斜張橋」が、これまた美しい点景を添える。
守口市の大日(だいにち)から対岸の東淀川区豊里を結ぶ橋だった。
おれの「玉藻荘」から大日には数分で行ける。
歩いて豊里大橋を渡ったこともあった。
そして対岸をぐるっと回って、赤川鉄橋に付随する歩道を戻ってくるとまた大学の裏手に出るのである。

西日を背に受けて、おれは堤防を下り、国道一号線のほうに足を向けた。

天文部に入ってから、星のことや望遠鏡にどうしても興味を持つようになる。
商店街の古本屋に寄ってそういう関係の本を漁るのも、日課になっていた。
マルホン古書店には、大学生が卒業して売っていった専門書などが豊富に並んでいて、そういうところに天文関係の本もびっしりとあった。
反射鏡の磨き方だの、フーコーテストのやり方だの、はたまたフラムスティードの星図なんてのもあった。
化学の専門の古書も多かった。
高校時代は、化学の成績は良かったものの、大学に入って専門化すると、とたんに難しくなり、単位を取りこぼしそうな科目もあった。
化学だけをやっていてはだめなのだということも身をもって知った。
「物理化学」という分野は、まさにそういう学問であり、熱力学などというわけのわからない勉強もしなければならなかったのだ。
二回生の同じ学科の先輩も、二回生になるとかなり実験に時間が取られるそうで、アルバイトなんかまったくできないと嘆いていた。
留年はどうしても避けたかった。
両親に強く釘を刺されていたからだ。
私学で留年などすることは経済的に許されないのである。

「やっぱり、湯本君」
古書店の本棚の本の背表紙に夢中になっていたら、うしろから声をかけられた。
小西由紀だった。
同じ天文部の部員となった建築科の学生である。
「あれ、ゆきちゃん、今日は早いんやね」
「デッサンの日やってん」
建築科ではデッサンの日があるそうだ。
石膏像などを鉛筆で描くのである。まるで美大のような授業である。
「そのうち、ヌードデッサンもあるんやて」
「ほへぇ」
おれは、変な声を上げてしまった。
「モデルさんが来るんか?」
「若い女の人が来るんやて。どう?湯本君も」
「どうって、応化(応用化学科)の学生が入れへんやろ?」
「こそっと入ってたってわからへんらしいよ」
「ええわ。やめとく。どんな顔して描いてたらええねん」
「よだれ垂らして…にへらぁって」
「そんな顔、ゆきちゃんに見せられん」
「ふーん」
由紀が、口をとがらせる。
おれだって女の裸をじっくり見たいのだ。
ストリップというものも、まだ見たことがないのだ。
ビニ本で、局部が黒塗りになっているものしか見たことがないのだ。
※「ビニ本」とは、女性ヌード写真が中心のいわゆる「エロ本」で、立ち読みさせないようにビニール袋で包まれて売られていたからその名がある。自販機で売られていたこともあったため、PTAや教育委員会からは「悪書」として町から駆逐させようという動きもあったらしい。

「なんかいい本あった?」
と由紀が訊いてくる。
「ゆきちゃんは、昔から天文が好きやったんか?」
「ううん、お兄ちゃんが、天文ガイドを読んでたから」
「へぇ、兄さんがおるん?」
「リコーっていうコピー機の会社に勤めてて、光学系の設計をやってんねん」
「やっぱり、そっちのほうに進まはったんやね」
「うん」
「これなんかどう?低倍率望遠鏡でも見える星雲集」
「ほんまに見えるんかなぁ」
「先輩の話では、屈折式より反射式のほうが口径を稼げて、明るいって言うやんか」
「私もそれは思う」
「収差とかもないやろ?」
「鏡やからねぇ」
その本をぱらぱらとめくりながら、由紀がつぶやいた。
「カセグレンてどうなん?」
「反射鏡使うからええんとちゃう?でも高いでしょう?」
「そやなぁ」
「湯本君は、赤道儀って使ったことあるの?」
「ない。おれ、天体望遠鏡って触ったことないねん」
「そっかぁ。あたしはお兄ちゃんのを見せてもらってたから…でも赤道儀の使い方は知らんのよ」
おれたちは、古本屋を出て、商店街を歩いていた。
「ここまっすぐ行ったら千林駅に出るで」
「湯本君の下宿はこの近所やったっけ」
「うん、線路沿い」
「どう?一人暮らしは慣れた?」
「まぁな」
「行ってもいい?これから」
「汚いでぇ」
「あかんかぁ」
「あ、いや、かめへん。来るか?」
「ええの?」
「うん」
途中の「トポス」でジュースとお菓子を買っておれたちは「玉藻荘」に向かった。

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