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ボケは心象風景【写真】

網膜ファインダー(肉眼)で見る風景にボケはない。
厳密に言えば近視とか遠視、老眼でぼやけて見えることがあるんで、全くないわけではないんだけど、それはむしろ正常な状態ではない。
だから、ないと言い切ってしまう。
今回はそんなボケについての思いを僕なりに書き留めていく。


ボケ感

カメラの世界では良いレンズ、とりわけ単焦点レンズを評価する際にボケ感を引き合いに出すけど、それはなぜだろう?
写真を撮っていると、一般的に撮影とは現実を切り取る行為のように思いがちたけど、実際は異なることに気づく。
現実世界の人間の視覚にボケ感はないからだ。
人間の眼には、カメラのレンズのような特性はないのだ。
これは人間のレンズとカメラのレンズの違いだ。
人間の視覚は進化の過程で獲得したレンズで、カメラは技術の進歩の過程で獲得したレンズという違いからだろうか?

リアルではない?

カメラ・写真を趣味や仕事としている人であればボケ具合というところに着目することはあると思うけど、そうではない人はボケとは反対にフォーカスされた撮影対象に視線は誘導される。
人が物を見る時は、パンフォーカスのような視界の中に意識が入る。
僕の個人的見解で申し訳ないんだけど、この意識を表現しているのが写真表現のボケで表していて、フォーカスが合っている部分が意識が集中している対象物で、ボケ部分はそれ以外ってことなんだと思っている。
だからリアルではないけど、疑似表現とでもいうようなものなのかな?
この問いに関してはいつか他の写真記事で発見できればいい。
こういう理論的なことを写真の学校では習うのかな?

写真・映像の中のボケ

ボケは人の意識が向かう点の区別を写真という表現の中で獲得した手法なのだと僕は思う。
写真には感情まで記録することは出来ない。
でも、その中に感情を想起させるものを込める方法としてボケがあるんだと僕は思う。
さっきと語っていることが同じだな。

ボケは万国共通?

ところで僕は日本に住んでいるからボケ表現が得意なレンズが重宝がられるのは分かるんだけど、海外の事情はどうなんだろう?
なぜそんなことを思うかといえば、日本ではライカのブランド信仰にも似たありがたがり方というのが、性能以上に持ち上げられている気がして、そんな時に海外ではその性能に対しての厳しい意見が多いという記事を読んだ。
その記事によるとプロのツールとしての用途には適していないとも書いてあった。
確かにオリンピックなどの世界的スポーツイベントにライカのブースがあるなんてことは聞いたことがない。
ということはプロの撮影機材としては使用されていないということだ。
僕としては、カメラを撮影だけの道具だとは思わないけど、過剰に性能以上に評価されるというのも正しくないような気がする。
しかも始末が悪いのが、そのことを指摘出来ないような雰囲気があるのも僕はちょっと嫌だ。
そうは言ってもいつかライカを所有してみたいとは思っている。
試してみないとね。
その時はある意味僕のカメラスキルが試されるんだろうな。
大分話がそれたけど、何が言いたいかといえば、ライカと同じようにボケについても日本だけでありがたがられているだけの表現ではないよね?っていう問いです。
これに関しては、海外の写真家の写真集を見なさいって話なんだけど、ボケに対しての現在の気持ちです。
日本人の嗜好に合うのかな?

ボケの有無

ここで例を提示してボケの有無による写真の見え方というのを語るのがいいんだろうけど、ここまで記事を書いてきて僕の中である程度腹落ちしたところもあるのでもういいかな。
元も子もないことを言えば、ボケとは写真表現の一手法で、撮影者がその時々で使い分ければいい。

まとめ

最期に「ボケ」をネットで調べた。
やはり表現手法なんだね。
今更気づいたけど報道写真にボケはないもんね。
何か分かっていたことを改めて見つめなおして元の場所に戻ったみたいな記事になってしまった。
こういう試行錯誤をすることも写真やカメラの深いところで、視覚的であり自分の外を写す道具なのに撮影という行為そのものが自分自身を問い続ける。
他の人の記事を読んでいてたまにある、一旦カメラから離れて戻るということも分かる気がする。
だって、自分自身を問い続けるってシンドイもんな。
あれっ、なんか暗い締めになってしまった。
今回は「ボケ」について書きました。

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