安楽死制度が導入されたらどうする?

猛烈に死にたくなった時、安楽死制度が日本にあればと思うことがある。
安楽死なら苦しむことなく確実に死ぬことができるから。

安楽死制度が導入されれば死にたいと思った時に確実に死ぬことができる。
いつ来るかもわからない死に怯えることがなくなる。
死に伴う苦痛もなく安らかに死ぬことができる。
安楽死制度によるメリットは多々あるように思う。

もちろん現実的に考えれば、仮に安楽死制度が導入されたとしてもそれを利用するためには一定の条件が課せられるはずだ。いきなり誰でも利用できるというものにはならないだろう。
だが、今回はその条件等は深く考えずに、安楽死に対する私の思いをただ綴ってみる。


安楽死制度があれば苦痛なく確実に死ねていいなと思う反面、自分の死まで誰かの手に委ねたくはないとも思う。
私が死ぬことについて、なぜ誰かの許可を得なければならないんだ。

あくまで私のイメージだが、もし安楽死するとなれば医者など専門的な知識を持った人が客観的な判断をし、安楽死の許可を出すかどうかを決める。
人間が死を考え決断する時というのは正常な判断ができていない可能性が高いから、他者からの客観的な診断は有用だということは理屈ではわかるが、私は素直に受け入れることができない。

私の死の判断を他人に委ねたくはない。介入してほしくないのだ。


また制度として確立すれば、条件こそあれ国が国民の死を保証するということになる。
人生の終着点を保証してくれる。画期的だしありがたいと思う一方で、私の死まで管理するなとも思ってしまう。
余計なお世話感とでも言えばいいだろうか。
やはり私の死に私以外の者が介入してほしくはないと感じる。


安楽死制度によって苦痛を伴わず確実に死ぬことができるのはとても魅力的だ。しかし、そこに至るまでに他者の判断が介入する。
どれだけ私が死を願っても他者の裁定がそこに入る。
安楽死制度という構造によって私の死に、国が、誰かが触れることになる。
そこに抵抗を感じるのだ。


その感覚の根底には自分の人生は自分のものだという気持ちがあるように思う。
自分の人生は自分で選択したいし死についても自分で決定したい。
だから、自分の人生の終わりについて誰かにお伺いを立てて判断してもらいたくはないのだ。


そう考えると私は安楽死制度が導入されても利用することはないのだろう。
死にたいと思ったら誰の許可を得ることもなく自殺する。
自殺となれば痛みや苦痛を感じるのがネックとなるが、自分で選択した末に痛みや苦痛を伴うのであればしょうがないと割り切るしかない。
自分の最後は自分で決めるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?