漱石「こころ」考察16 Kは他殺?「やったんです」「やってくれ」



夏目漱石の有名作品「こころ」、大正三年(1914年)連載

1、私の解釈


私は「こころ」における「K」の自殺について「自殺を図ったのはKだがまだ死に切れていなかったところをとどめをさしたのは先生」と解釈し、うだうだと何個も記事を書いている。

自分としては勝手な思い付きではなく、「こころ」において実際に
・書かれている内容が不自然
・ある事柄についてなにも書かれていない、もしくは一言しか触れられていないことの不自然
これらから疑問を抱いたものである。

そしてこれらの不自然が「この解釈をすれば書かれたこと・書かれていない事と、一応の整合がつく」と考えた結果を書いている。

ただこれは当然自分自身での評価なので、客観的に見てどうなのかはわからない。
特に最近は「これはもう先生がK殺してるな」としか読めなくなってしまっている。以下がその論拠


・先生が「私」に言った「恋は罪悪ですよ」、「私自身さえ信用していない」、「やったんです」、「残酷な復讐」、「田舎者は都会の者より悪い(先生もKも新潟出身)」、「金を見るとどんな君子でもすぐ悪人になるのさ」、「私はこれで大変執念深い男」、、、
 → これらは単に「Kを出し抜いて求婚した」のみならず、もっと重い罪を先生が犯したと考えたほうがしっくりくる

・Kが自殺した当日の先生の行動についてよく読めば不自然さが強調されている
 → 薄暗い中で一目で死亡をなぜか確信しており、まだ息があるかもとは全く考えず駆け寄ることもせず放置。死因は「頸動脈を切っ」てふすまに血が迸ったとしながら、Kにも、Kの頭を両手に抱えた先生にも血が付いた旨の描写なし。そして夜明けまで誰も呼ばないで「檻に入れられた熊」のようにぐるぐるしていた

・Kの自殺を先生から聞かされた奥さんが「不慮の事故なら」仕方がないじゃありませんか、と含みのある発言。しかもその後に二人で「できるだけの手際と工夫を用いて」掃除し、「後始末はまだ楽」と

・Kが用いた凶器は「小さなナイフ
 → 漱石作品においては「人間のつまらぬ小手先のごまかし」の意味で「小刀細工」と称されている。しかも「こころ」の二年前の作品「行人」においてはヒロインに「喉を突くとか小刀細工ではなくもっと猛烈で一息な死に方がしたい」と言わせている

「こころ」の「下 先生の遺書」の序盤で、同級生が犯罪(下駄で人の頭部を殴打)をもみ消した話が唐突に書かれている。表面上はこの話がどこにもつながっていない → 先生がもみ消したことを暗に示したのでは

・先生が遺書で「私」に、この遺書を静が生きてるうちは公開するな、と。でも表面上書いてあることは大した秘密でもなく静もその母も当然気が付くであろう範囲内。
 → 実は静が遺書を見たらKの自殺当日について「え? 警察にしていた話とかなり違うよね?」となる内容があるのでは

・「こころ」へのよくある疑問として先生がわざわざ自殺する理由がよくわからないが、Kを過去に、文学的表現ではなく物理的に殺してしまったのであれば理由として十分

・「下」の終盤で乃木希典の殉死・遺書についてふれられておりあたかも「西南戦争で旗を奪られた」ことが殉死の理由としている。しかしもしこれが他の重大な失態を隠すためであれば、先生もあたかもKを出し抜いて婚約したことが自殺の遠因かのような遺書も、他の重罪を隠すためではないか

・序盤で「私」が概要「もし先生と仲良くなれなかったらと思うとぞっとする」と。しかしなににぞっとするのかは書かれていない
 → 自分が先生と仲良くならなかったら先生が自身の犯罪をだれにも告げずに生きていたかもしれないから


2、「やったんです」「やってくれ」


上記の数多の理由の中で、まず「やったんです」「やってくれ」について語ります。

2(1)やったんです

前半で先生は「私」に対し「やったんです」と告げている。

先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」

(「上 先生と私」十四)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

ここで「やったんです。やった後で驚いたんです」とは、普通に読めば「Kを出し抜いて婚約した事」である。
しかし既に書いたが、静への求婚を奥さんに申し出て了承をもらった際の先生は、特になにも驚いていないのである。

つまり「やったんです」とは出し抜き行為のことではない。

2(2)やってくれ

その記事を書いた時には気付かなかったが、「やったんです」に対応する言葉を、旅行中のKが言っていた。

私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦に行きました。富浦からまた那古に移りました。すべてこの沿岸はその時分から重に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃の海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に坐って、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。
(略)
私は不意に立ち上がります。そうして遠慮のない大きな声を出して怒鳴ります。纏った詩だの歌だのを面白そうに吟ずるような手緩い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後ろからぐいと攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。

(「下 先生と遺書」二十八)

海岸で「野蛮人のごとくにわめく」を改めてみるとかなり異常なようで、なんとなく想像は出来る場面ではある。

彼らは海岸の岩の上で、既にKが死んだ当日の予行演習をやっていたのだ。

「もし俺がお前を殺そうとしたらどうする!?」「ちょうどよい、やってくれ」と。

そして攻撃対象にされたKの身体の部位は、この海岸では「襟首」、死亡当日は「頸動脈」と、これもつながっている。

この海岸での「やってくれ」と、「私」に語った「やったんです」とが対応していると考えれば、やはり「やったんです」とは単なる出し抜きではない。Kの命を奪った行為そのものだ。


3、小刀細工では一息に死ねない?


「こころ」で先生は、Kはナイフで「一息に」死んだ、としている。

 Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何にもありませんでした。

(「下 先生と遺書」五十)

3(1)直前の作品で否定


しかし、「こころ」の2年前、大正元年(1912年)に夏目漱石が書いた「行人」においては、小刀細工で喉を突くのは「一息」ではないことを前提とする台詞があるのだ。

主人公:長野二郎とその兄嫁:直が、暴風雨により急遽二人で泊まることになった和歌山の夜

「御母さんと兄さんはどうしたでしょう」
「妾も先刻からその事ばかり考えているの。しかしまさか浪は這入らないでしょう。這入ったって、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋ぐらいなものよ。持ってかれるのは。もし本当の海嘯(つなみ)が来てあすこ界隈をすっかり攫って行くんなら、妾本当に惜しい事をしたと思うわ」
「なぜ」
「なぜって、妾そんな物凄いところが見たいんですもの」
「冗談じゃない」と自分は嫂の言葉をぶった切るつもりで云った。すると嫂は真面目に答えた。
「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌いよ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」
 自分は小説などをそれほど愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた。そうして心のうちでこれは全く神経の昂奮から来たに違いないと判じた。

(行人「兄 三十七」)

「咽喉を突くような小刀細工」ではなく、「大水に攫われる、雷火に打たれるとかの一息な死に方」がしたいと。

つまり小刀細工で首を切るのは「一息な死に方」ではない、そう記されているのだ。

この「行人」は「こころ」の一つ前に書かれた夏目漱石の長編小説である。
つまり自身の直前の作品において「小刀細工で喉を突いても一息には死ねない」旨を書いておきながら、直後の作品においては登場人物がその遺書に「彼は小さなナイフで一息に死にました」と書いているのだ。

これはもう、後者を疑えということだろう。

また私は医学のことなど全く知らないが、小さなナイフで一息に死ぬ、というのは現実的にもかなり困難なのではないか。残酷なので引用はしないが、森鴎外の「高瀬舟」(「こころ」より後の大正五年発表)は、(罪人の話を前提とすれば)弟が剃刀で死のうとして死にきれずに苦しみ続けているとどめをさした話である。


3(2)先生の遺書が「一息に」読めない


ちなみに「Kは一息に死んだ」と記している先生の遺書それ自体が、とても「一息に」読めるものではないと「私」が記している。

「私」の田舎の実家、父が重篤となったところへ先生からのぶ厚い手紙(遺書)が届いた直後の場面

「どうも色々お世話になります」
 父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。やがてその中の一人が立って次の間へ出た。するとまた一人立った。私も三人目にとうとう席を外して、自分の室へ来た。私には先刻懐へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。それは病人の枕元でも容易にできる所作には違いなかった。しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行かなかった。私は特別の時間を偸んでそれに充てた。

(「中 両親と私」十七)

ここで手紙を読むことすら「一息に」はできないと、Kの志望理由と同じフレーズが使われている。
これもまた、Kが一息には死んでいない事の暗喩ではないだろうか。

すなわち、Kは自殺ではない。

先生が、やったんです

(この考察続けます。)



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