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修験道 ~この日本的な、あくまで日本的な~

ライティングで修験道について20冊ほど本を読んだので、忘れないうちに今回吸収したことや以前勉強して覚えていること、考えたことなど、残しておこうと思う。

修験道の開祖は役行者。
それはあまりに有名だけれども、役行者以前に山岳での修行をする人間は存在した。那智の滝などは伝説上の開祖はインドから来た僧であり、なんと4世紀にそこで修行している。(青岸渡寺由緒)
仏教の伝来は6世紀半ばとなっているが、これは公的な伝来(百済から欽明天皇に教典を贈られたことに因む)であり、渡来人の私的な信教として仏教はそれ以前にも知られていた。

それらの渡来人の修行者にとってだけではなく、たとえば那谷寺などは、前身である岩屋寺の名が示す通り、その窟屋つまり洞窟じたいがはるか縄文時代にまでさかのぼる特別な霊場であり、窟屋は生まれ変わりの場として古くから修行の舞台であった。暗い穴は子宮をあらわし、死んだ者がそこで再び生を受けるという考えによるものだ。
死者を弔うのも山である。魂は里から山に帰り、また生まれ変わって里へ下りて来ると考えられた。
また山は里にとって不可欠な水を与えてくれる存在であり、恵みを与えてくれる存在でもあり、自然信仰の対象として山は崇められた。
そういった祖霊信仰と自然信仰がひとつになり山岳信仰へと発展していく。神は山に坐し、春には山から下りてきて秋に実りをもたらし、冬にはまた山に戻っていく。花まつりの原型は、釈迦の生誕を祝う灌仏会に、田植えの前に豊作を願って山にいる神を迎えに行く風習が結びついたものだ。

そういった自然信仰が日本人の根幹にある宗教観であって、そこに大乗仏教が伝来すると、それが逆に仏教に影響を与え、日本仏教となっていく。
そしてまた、大陸からもたらされた仏教に対して、その対抗勢力によって体系化された神道(天皇の統治のための神)もまた、『古事記』『日本書紀』によって各地の自然信仰の神にその姿を上書きしていった。
しかし、それはもとからあった神たちに姿をかぶせただけのものであって、原型となった神は人々の意識下にちゃんと存在しつづける。
たとえば、山の神様、お天道様、ときいて古事記の神々の名を呼ぶ人はほとんどいないだろう。
沖ノ島でも、祭祀においては宗像三女神のタゴリヒメ、タギツヒメ、イチキヒメの名が出るけれども、漁に出る地元のひとたちが祈るのは、その三女神の名前ではない。彼らは『沖ノ島様』とよぶ。
2万年も前から人が住み着いていた土地である。かれらは海の安全を島に祈ってきた。だから信仰の対象は島そのものであって、中央から与えられた神様ではないのだ。
それは自然信仰、そこに生きてきた人々の生の実感の積み重なった精神的土壌に他ならない。
そしてそれに一番近い宗教が修験道だ。

しかし、修験道はいま、仏教よりも神道よりもなじみの薄い存在となってしまっている。そこには政治的な理由と、修験道が自然信仰から出発したものであるからこそ受けてきた迫害の歴史がある。

修験道は神仏習合の信仰である。自然信仰を下敷きとして生まれ、開祖の役行者は神仏唱和を唱えた。各地を修行して回り、その霊場が多くの神社仏閣の前身となっていった。

本来、朝廷が取り入れた仏教や神道は個人的な願いにこたえるためのものではなく、天皇が行う国家の鎮護を担うものであった。つまり、民衆のためのものではなく国の統治ツールのひとつとしての宗教であった。

では、民衆の日常の悩みや願いはどこに向けられたのか。その受け皿が民間信仰であり、自然信仰であり、そこからうまれた修験道なのだ。
修験道の修行者は、山での修行により得た力を民衆の為に生かした。
修験道の目的は即身成仏であり、つまり生きながらにして仏となり衆生と救うということである。
そして衆生を救うということはつまり、生活の場において民衆の悩みを解決したり、願いをかなえたりすることであった。
加持祈祷でつきものを落とす、薬を作って売る、山で得た技術を伝達する。そういった生活に密着した信仰、それが修験道なのだ。
仏教、神道が権力が用意した政治的宗教であることに対し、修験道はあくまで民衆の宗教であった。
だからこそ、役行者が怪しげな術を使い人心を惑わすとして島流しにあったのである。権力側から見れば、修験道は民衆の心をとらえる厄介なものだったということだ。
役行者が実際にどんな人物であったかは謎に包まれているが、『日本霊異記』にあるような、伊豆から夜な夜な海の上を歩いて富士山の上で修行した、といった驚くべき超常的な力をもち、お上すら手玉にとるスーパースター、それが民衆にとっての役行者だったということだ。

江戸時代になると、修験道は本格的に制限をされはじめた。
幕府は『本末制度』によって、どの寺もいずれかの宗派に属すことを定めて寺院を体系化し、本山から末寺への指揮系統をつくり、幕府の方針が末端まで及ぶようにした。
そのうえで『寺請制度』を置き、村人はかならず寺の檀家にならなければいけないと定めて寺に戸籍の管理をさせた。
つまり、寺院を一種のインフラとして整備し仏教を使って民衆を管理したのだ。
そして幕府は修験道に対して、『修験道法度』を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないと定めた。
本来神仏習合の信仰の修験道を分断し、仏教の下において見張ったのだ。
幕府は、人の移動を制限し、土地への定着を図った。
修験者集団は信仰の性質上土地を移動するので、そういう意味でも取り締まりの対象となったのだろう。

明治維新後、今度は当然ながら天皇中心の支配を進めるため、国家神道が推進される。
まず、江戸幕府が保護した寺院の力をそぐために、明治元年にさっそく『神仏分離令』が出され、政府はまず、神仏習合だった寺と神社をひきはがし、神社の地位を上に置く。
そのことがきっかけで、長きにわたった仏教寺院優遇への不満が爆発し、暴徒化した民衆による廃仏毀釈というかたちで、寺院や仏像の破壊などが起こった。
修験道の寺のなかには、出羽三山のように、神社へと鞍替えすることを選ばざるを得なかったところもあった。

修験道そのものに対しては明治五年、とどめとばかりに『修験禁止令』が出され、修験道の主要霊山のひとつ吉野の金峯山寺までが廃寺となった。『体をつかって心をおさめる修験道入門』(田中利典 集英社新書)
によれば、その時職を失った修験者はなんと17万人。
『修験道という生き方』(宮城泰年・田中利典・内山節 新潮選書)によれば、そのとき職を失った修験者は漢方薬屋になっていくものが多く、吉野の陀羅尼助、木曽の百草丸が修験者由来の薬の生き残りなのだという。

中央集権のために推進された国家神道だが、迫害したのは修験道だけではなく、巫術や虚無僧(明暗宗)など権力者側から見た「怪しげな」宗教がすべて一掃されたという。
きちんとした組織化がなされ、管理しやすいもの以外は排除し、近代化を進めようということだったのだろう。
修験道の拠点の多くも失われ、地域差はあれど、明治政府のこの政策により失われて戻らないものは大きい。

だが、明治12年、廃寺となった金峯山寺はふたたび寺院としての活動を始め明治19年、天台宗修験派として復活。
修験道は民衆から生まれた宗教である。迫害されても、民衆がいる限り、その火が消えてしまうことはない。アスファルトで敷き詰められてしまった土地にも、隙間からふたたび植物が生えていくように、修験道は少しずつ息を吹き返し。残っていったのだ。

そして、戦後。
国家神道も潰え、日本国憲法により『信教の自由』が保証された。
天台宗修験派として命をつないだ金峯山寺は、1948年、天台宗から独立。
そして金峰山修験本宗となった。
それは民衆の宗教の勝利といえるのかもしれない。

現在、修験道はどちらかというと『よくわからない、ちょっと怪しい昔の宗教』というイメージを持たれがちだ。
ここまで読んで頂いた方には、江戸時代、明治時代を通じての体制の政策によってそうなってしまったことを理解していただけたのではないかと思う。
修験道には、修験集団はあるが、教団が存在しない。
実践を旨とする信仰であり、他宗教を排除しない。
修験道は在家の信仰なので、出家の必要もない。
宗教というと、何かとマイナスイメージを持たれがちな昨今だが、日本人に一番なじみが深い自然信仰が根本にある修験道は、実際のすがたを知ってもらえれば、現代の日本人にもとても受け入れられやすいものではないかと思う。

いま、各地の霊場で修験道の修行体験の受け入れがあり、年々参加者が増えているという。
厳しい山の修行をすることで自分の命の輝きに気づくのだという。
大自然の中で、その圧倒的な力を感じ、己の小ささを知る。
世界と自分とのつながり、命の循環というものを実感する。
なんとも魅力的な宗教ではないか。
もう少し体力をつけたら、ぜひ修行体験に参加してみたいものだ。

参考文献
『体をつかって心をおさめる修験道入門』田中利典 集英社新書
『修験道 その歴史と修行』宮家準 講談社学術文庫
『修験道という生き方』宮城泰年・田中利典・内山節 新潮選書
『役行者と修験道の歴史』宮家準 吉川弘文館


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